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私はいつも人の言葉の本当の意味を汲み取ることが苦手だ。たぶん、生きるのに必要な偏差値みたいなものが、他の人よりとりわけ低いのだと思う。人間性を培うべきときに上手に他人と関わらなかった結果というやつなんだろう。
丸井さんが私に問うた言葉にはたぶん大きな意味があって、だけど、生きる偏差値が足りていない私はどうしてそんなことを聞くんだろうって思う。
の周りに人がいる理由。
丸井さんがこうして私と一緒に遊園地にいる理由。仁王が、幸村が、もしかしたらこれから関わるかもしれない誰かがそうである理由。そこに惰性とか私への同情がなければ、ただ何となくというのが、丸井さんへの問いの答えなのではないだろうか。
理由もなく他人を傷つける人がいるくらいなのだから、理由もなく他人と関わろうとする人がいたっておかしくはないように。現に丸井さんは、特に意味はなく、ぽろっと私をここへ誘ったと言うではないか。
違いますか、と彼を見ると、丸井さんは、

「んー」

なんてどちらともつかない返事を寄越すだけだった。不正解を言ったのだろうな、と私は思った。いや、不正解と言うよりも、丸井さんが正解だと思う答えを見つけ出せなかった。
それでも彼は至極どうでも良さそうだ。自分から質問をしておきながら、彼は正解を欲しがっていたわけではなさそうに。
さんって矛盾してる。でもそれが何なあんなのか教えてあげない」丸井さんの台詞をふいに思い出して、今になって不愉快な気持ちになる。加えて、サイダーの染み込んだ靴下がさらに私の不快感を煽っていた。
ヤな感じ。こうなるなら観覧車はやっぱり一人で乗った方が良かったかもしれない。
丸井さんはそれきり喋らなくなって、二人きりのゴンドラを窮屈に思い始めたとき、私の視線は何気なく、膝の上から足元に移っていった。シースルーならではの透明な床の下には、次のゴンドラの赤い屋根と、観覧車の白い骨組み、遠くなった地面に小さくなったアトラクション、人。
今まで冷静でなかったわけではないのだけれど、頭の中が冴えていくような感覚に陥った。
ひゅ、とたちまち力の抜ける足。あれ、あれ、なんだ、これ。

「っひ、あああ」

サイダーがのときよりもうんと、それも急激に胸が冷える思いがした。逃げ場のない狭いゴンドラの中で、それでも後ろに飛び退こうとした私は、がたんっと壁に頭を打ち付ける。

「痛い!」
「え、なになに」

沈黙から状況はくるりと一転し、打ち付けに取り乱す私へ、丸井さんの困惑を内包した視線。私は腕を抱きしめて、きゅ、と硬く結んでいた唇を開いた。
こわい。

「怖い?」
「怖い、怖いです、怖い、私、観覧車、だめみたい」
「は、え? つうか何で今になって?」
「自分の置かれている状況に全く思考がいっていなかったけど、何これ高い、すけっ、透けてるうう」
「シースルーだしな」
「あああしが、すくむああ」
「だあああばかばか怖いなら下見るなって!」

そわそわそわ、と足から下っ腹にかけてせり上がるようなむずがゆさ。言われた通りに目をつむるとそれはそれで視覚以外の感覚が研ぎ澄まされるようだ。三半規管が揺れに敏感に反応している。こんなときにやりおる三半規管。細かな揺れにも震えが止まらない。うっすら瞼を持ち上げると、「……だ、大丈夫か」と丸井さんが丁度椅子から立ち上がって、こちらへ一歩足を踏み出そうとしているので、私は持っていたバックを彼の腹に向かって強く投げつけた。勢いで椅子へ押し戻される。

「ほぶ、」
「揺らすなアア!」
「いやでも今のはさんが、」
「ばっかじゃねえの、動くんじゃない!」
「えええ」
「こっち来たら二人分の体重がかかって普通にゴンドラが傾くだろうが。そんなことも分かんねえのかあんたは」
「俺が悪いのか今のは」

度肝を抜かれたように口を閉ざした丸井さんの表情を捉えた。高い怖いの二つで占められていた頭の中に、丸井さんがちょうびっくりしてるの一言だけが割り込んだ。

「あの、実に申し訳ないけど、私今気持ちに余裕ないからね! 分かるよねえ!」
「うん、分かる」
「気を紛らわしたいので面白い話を要求します早く!」
「ウワアなーんだこの急展開、レベル高え」
「ハリアップ!!」
「今のさんの焦りようがこの場において最高に面白いと思う」
「こやつぬかしおる!」

私が叫ぶのと同時に、頂上に到達いたしましたという無慈悲なアナウンス。少し音の悪い音楽が近くのスピーカーから流れ出した。視界の端に映る景色からは、相変わらず高いということしか分からないけれど、ご丁寧に、頂上に到達したことを教えてくれたのだから、当然のことながら、ここはさっきよりもうんと高い場所なのだろう。
丸井さんはもはや取り立てて私の相手をする必要性を感じなくなったのか、おー高いなー、次はあれ乗りたいわーなどとやけにテンションが緩やかだ。きっと私も窓の外を見たら、ひとつ先のゴンドラに弟君達の姿が見えたりするのかもしれない。「あのさ」丸井さんの口が開かれた。

「なななん、」
「なななんって何」
「ななん、なんでしょ」
「思ってたんだけどさんって、たまに性格が変わるよな」

ハッとして、天井を捉えていた私の視線が、丸井さんと重なった。私は咄嗟に彼の瞳の中に軽蔑に似たようなそういう感情を探したけれど、どうやら彼は深い意味もなく、単純に言葉を口にしただけのようだった。

「いつもは礼儀正しい感じなんだけど、仁王の前とかさ、ふとしたときに砕けるっつうか、んー」
「……」
「この間なんか、蹴りとか入れてたし」
「それは」
「うん?」
「もともと……っていうか、こっちが本物の部分なんじゃないかなあと、思う」

本物? と、丸井さんが繰り返した。
そう、本物の私だ。ずっと、本物の性格を自分の中から消そうとしていた。だから、今はその性格が私の本物であると言えるかどうかは分からないけれど。
意味が通じたかは知らないが丸井さんは、へー、とさほど興味のなさそうに相槌を打ってから、視線を外へ逃がした。私は風景に視線を落ち着けていられなくて、すぐに自分の膝へ落とすことにする。

「じゃあ今まで俺といたさんは偽物なんだ」
「え」
「あ、違うか、今もじゃん。そういうことだろい」
「どうだろう」
「……何だそりゃ」

幼い頃の当たり前だった所謂「粗雑な」性格は、酷く周りから嫌われた。だから私は自分を変えることにした。それを成長とは呼ばないのだろうか。モラルを身につけたとか、周りに気遣いができるようになったとか、そうは言わないのだろうか、と今でも疑問に思うことがある。
変わった私を、丸井さんが言ったように、周りの人は偽物と言った。本音がわからない、周りに合わせてばかりいる、主体性がない。こんな私を八方美人と言った。
陰口を言うくせに表面上で仲良く付き合うことは許されるのに、ただ周りに合わせるのは悪いことか。未だにそれはわからない。
私はそこから身動きが取れなくなった。何をしても貶されるのだから。
今ある私の粗雑な部分は、そのときの私の残骸だ。残骸を抜かした今の主体性がない私が偽物かと問われたらそれもまた違う気がする。何故なら、今の私の性格は何ら無理なく出ているものだからだ。それはつまり、これがきっと自然体ということなんじゃないだろうか。

「仮に今の私が偽物だったとして、丸井さんに関係があるかな」
「ないんじゃね」

そもそも私が嫌われるきっかけは性格だけの話だけではなかったのかもしれない。きっと普段あまり家に親がいなかったという要素も少なからず要因にあった。
昔から私は叔父に面倒を見てもらうことが多かった。叔父に問題がなくとも他者からすると親からほったらかしにされたらしい私は可哀相な子供で、だからこそ何かが欠落していると思われた。本当に何かが欠落していたのかもしれないし、実際は違ったのかもしれない。けれど、欠落したと、そう思い続けた今の私には、確かに何かが欠けていた。

「でもさ、他人に合わせて生きて、偽物のまま友達作ってどうすんの」
「他人に合わせて何が悪いんだろうか。ありのままで生きていくことは素敵なことだけれど、他人に合わせることは丸井さんが言っていた社会に合わせるということでしょう。それをすることは偽物になるということなの? 違うよね」
「別にさんの好きにしたらいいけどさ」
「するよ」

私も、きっと丸井さんもどういうわけかむきになっていた。だって今日の丸井さんはやはり変だ。余裕がない。そして丸井さんがそうなる理由がわからなくて、私もそれに苛立っている。私らしくない。違う、以前の私に戻ったような。
高いところが苦手で、私にも余裕がないからなんだろうか。

「今日の丸井さんとても感じ悪い」
「は」
「何か言いだしたと思えば、教えてあげないとか、偽物がどうとか。教えるつもりがないのにそれを口にするのは意地が悪いよ。君が私の社会の一つだとするなら、今の君には合わせたくないな」

丸井さんは、眉をしかめた。
言った後に、もしかして言いすぎたかな、と思う。自分でもよく分かっていることだけれど、私は話し出すと一言も二言も多いことがある。以前もそれで、兄君を泣かせてしまった。大雑把な性格の残骸である。つるつると飛び出る言葉の流れのままに声を出すとこうなる。傷つけるつもりは毛頭ないにしろ、丸井さんの眉間に皺が寄ったのを見て、すぐに、私は今回もまた言葉が過ぎたのだと息を呑んだ。

「はー、むっかつくな」

どき、とした。普段優しい丸井さんから、そんな言葉が出てくるとは思わなかった。がしがしと頭をかく丸井さん。
謝るべきだろうかと思案する間も無く、彼は、おもむろに抱えていた私のバックをこちらへ放ると立ち上がった。前に一歩足を踏み出す。そこで私は丸井さんのすることを悟ったのだ。
ゴンドラを傾ける気だ。
てっきり怒鳴ったり、罵ったり、そういうものが返ると思っていたから、色んな意味で拍子が抜けた。

「ちょおおおお! なんでこっち、ばっ、」
「今馬鹿って言おうとしただろい」
「言ってない! 言ってな、わーこっち来んなああ座るなああ私があっちに行きます!」
「阻止」
「阻止イイ!? それを阻止しま、」

す、と続く言葉は、腕を引き寄せられて丸井さんの胸の中でくぐもった。私の反発も虚しく、ぴったり隣に腰を下ろした彼は暴れる私の頭を自分の方へ押し付けたのである。実際にゴンドラが傾いたかは知らないけれど、外の景色はある意味で丸井さんのお陰で見えることはなく、ふと私の頭の中が冷静になってゆくのが分かった。
彼は何も言わない。いや、意味が分からない。

「丸井さん、」
「……」
「やっぱり君今日変だよ」
「……悪かったな、感じ悪くて」
「そんなこと言ってないよ」
「いやそれは間違いなく言ったけど」
「……」

丸井さんは、周りに気が遣えて、こんな私にも優しくて、料理が上手で、私の隣人にはもったいないくらいの人だ。勿論今もそう思っているけれど、多分彼はそれだけの人じゃあない。不器用な部分がたくさんあるのだと思う。
思ってた人と違うなあ。と、私はぽつりと零すと、丸井さんの腕に力が入った気がした。

「丸井さんは優しいし、かっこいいし、料理は上手いし、友達がたくさんいるし、弟はかわいいし。そんなにたくさん持っているのに何が怖いの」

私の言葉に、丸井さんは口を閉ざしたままだった。


サイダーに濡れた靴下はまだ生ぬるく、そこにシミを作っている。少しだけすっきりしない思いを私が心に引っ掛けているように、丸井さんも、何か気がかりがあるのだろうか。
甘いサイダーも、苦い後悔も、悩んだところで元には戻らないのに。


覆水盆に返らず。






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