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「あ、」

すいません。たぶんそんな私の声は、遊園地の賑やかさに紛れて、隣にいた丸井さん達にすら届かなかったのではないだろうか。
ふらついた身体と一緒に、うっかりカップから手が離れた。ぶつかった相手は、こちらのことは気づいていないようで、そばにいた人達とさっさと駆けて行ってしまい、その背中を見送ってからサイダーの染み込んだ靴下をぼんやり見下ろす。じんわり濡れた冷たい足に、一瞬だけ胸が冷えたような思いがした。

「はあ、もう何やってんの」

兄君がカップを拾い上げる。ハンカチで靴下をぽんぽん叩きながら、かたじけないと頭をさげると、一方の丸井さんは駆けて行ってしまった人たちの方へ目をやって、そちらに歩みを進めようとしたのがすぐに分かったので、咄嗟に腕を捕まえた。まさか謝れ、なんて言いに行くのではあるまいな。

「そうだけど」
「揉めごとはノーセンキューだぜ丸井さん」
「揉めごと? 謝ってもらうだけだろい」
「別にいいよ。これならシミにもならなさそうだし」

ハンカチをしまい込んで、親指を立てると、それでも丸井さんは少し不服そうだった。どうして丸井さんが怒るのか私には理解できなかったけれど、きっと彼は世話焼きだからそういう部分が関係しているのだと思う。そんな顔なさるな、と鞄の中に入れていた飴を差し出すと、彼はそれを無言で受け取るのだった。この三兄弟はよく似ている。
カップの中にほんの少しだけ残ったサイダーをゆらりと揺らすと、ふいに兄君がってさあ、と口を開いた。なあに。

「見るたびに思うけど、何かふらふらしてるっつうか、地に足がついてないっつうか」
「はあ」
「足も覚束ないし」
「それはあまり来たことがない場所に来てるからであってだな、普段から覚束ないわけでは」
「何考えてるか分かんないし」
「ぽ、ポーカーフェース!」
「ぶんにい、っていつもこうなの?」
「違いますよね」

丸井さんは答えなかった。それを肯定と捉えたのか、兄君はやっぱりね、と肩を竦めて私を見つめる。ただジュースを零しただけで酷い言われようだ。
返事の代わりに丸井さんは、手とか、洗いに行かなくて平気かと私を窺ったけれど、ようやく並び始めた観覧車のこの列から出て行くのは勿体無いような気がして、私は首を振った。もう十五分は並んでいるし、丁度先頭が見えてきたところだ。それに手は汚れていないし、確かに靴下はべたついて気持ち悪いけれど、どうせ洗いに行ったところで、濡れたままであることには変わりない。
シースルーの観覧車を見上げていると、弟君の手が私の手を掴んだので、そのまま握り返した。まったりと回るゴンドラの背景には、ジェットコースターの曲がりくねったレールが見えて、そこを轟音と共に車体が駆け抜けてゆく。ショップでカチューシャや帽子を買ってから、私達は兄君の言われるままに観覧車へ並び始めたけれど、弟君はそれで良かったのだろうか。まあ、もとより兄君のために遊園地に来ているわけではあるのだから、良いのかもしれないが。

「観覧車はムード作りに大切なんだよ。初めに乗るのがポイントだろ、分からん奴め」
「でもドラマや漫画だと観覧車はラストが定番だよ」
「定番過ぎ。の頭の中は時代遅れとか通り越して化石だね」
「丸井さん今の聞きましたか」
「え? ああ、そろそろ昼飯の時間だよな」
「聞いてなかったわ」

スマホを開いて現在時刻を確認した丸井さんは、そのままそれを弄り始めたので、私の言葉は行き場を失い、会話は途切れた。
私も時刻を確認すると、いつの間にか十二時を回っていた。確かに言われればお腹が空いてきたような気がする。兄君は相変わらず、観覧車が出だしのムードを云々、と語っていて、反論するのも面倒なのでうんうんとそれを素直に聞いていた。いや聞き流していたけれど。私は大人だ。兄君の話を九割程右から左へ受け流している中で、出し抜けの一際はっきりした、そうだ! という声だけ私にはしっかりと届いた。

「大事なこと言うの忘れてたわ」
「大事なこと?」
「悪いけどは観覧車一緒に乗らないで」
「待ってそれ大事なこと? ていうかなにゆえ」
「俺、観覧車に一緒に乗る女の子で初めては彼女とって決めてるから」
「ここまで並ばせといて貴様」
「一人で乗れば良いじゃん」
「オンリーロンリーかよ」
「貸し切りだぜ、やったな」
「……オォ」

それならまだジェットコースターを一人で乗った方がマシだ。丸井さんは、誰かとやり取りをしているのか、スマホから顔を上げないので、この場の調停を頼むこともできない。というか、誰かと一緒にいるのに、スマホを弄り倒す彼の神経って一体。つい先日まで抱いていた丸井さんへの尊敬の念が少しずつ悪い方へと傾きかけていたとき、鞄の中で私のスマホが震え始めた。なかなか止まらないそれは、恐らく着信なのだろう。スマホを弄る丸井さんのことを言った手前、ここでスマホを取るのは憚れる一方で、でもだって私のこれは電話だし、今出ないとだし、と心の中では正当化する言葉を並べている。
そのうちに、電話、出ないの、と着信に気づいたらしい弟君が私を促した。まあ、丸井さんもスマホから顔を上げないので、少しなら大丈夫であろう。私はスマホを取った。『よう』仁王の声だった。呼吸が止まった。着信の相手をよく確認しなかったけれど、ディスプレイには間違いなく、仁王雅治の四文字が並んでいた。

「よ、よう」
『お前さんのことじゃから出ないかと思ったわ』
「君だと分かってたらたぶん出なかったし、今心臓止まりそう」
『罪悪感はあるようじゃな。トドメ刺してやろうか』
「ご冗談を」
『ちゅうか人との約束ほっぽってブン太と遊んどるんじゃって? あれ今日の約束持ちかけたん誰やったかのう』
「いや、それは申し訳なかった。お詫びします。三色団子はどうだろう」
『やだ』
「分かった、分かった。みたらし団子で手を打とう」
『勝手に打つな。しかも何で団子縛り』

そこにいる赤い馬鹿みたいにものに釣られると思うなよと釘を刺されて、私の視線は無意識に丸井さんをちらりと見やっていた。やっぱりこの人はもので釣れるんだなあとこっそり思う。その気配に気づいたか、手元から視線を上げた丸井さんが何だよその顔と、目を細めたので、私はすぐに首を振った。
受話器の向こうで、そんで、今何しとるんと仁王が問うた。『答えによってはお前さんの命はない』やばい殺生されるやつ。

「ええと、丸井さんの弟さん達の大切な試験が迫っているらしく止むを得ず試験勉強をお手伝いさせて頂いている所存」
『ほーう。嘘が上手くなったのう。遊園地楽しいか』
「ウワーイ、BARETERU!」

電話越しだから実際は分からないけれど、いくらか怒りが含まれたような低い声だ。でもわざとかもしれない。私にトドメを刺すために。仁王も人が悪い。しかしむしろわざとだとありがたい。本気の方が厄介だ。
それよりも、告げていない事実を何故彼が知っているのか。周りの騒がしさか、この軽快な音楽が彼の耳にも届いているというのか。

『いや聞いた』
「は、誰に」
『ブン太』
「いつ」
『今に決まっとるじゃろ、あ、とか言ってるそばから、ほらLINE、』
「丸井さんあんたって人は!!」
「え?」
「ぴこぴこやってんなと思えば仁王かよ!」
「え、ああ、電話やっぱ仁王か。遊園地のお土産三色団子が良いってよ。渋いよな、俺も好きだけど」
「結局かよ!! ていうか遊園地に売ってねえよ!」

買うなら自宅近くのお店で買うつもりだったわ。
そもそも丸井さんはどういう神経でぽろっと仁王に居場所を教えてしまっているのか、仲良くやり取りしてる場合か、結局団子なんじゃねーかと、私はもう色々なものに突っ込みたい。丸井さんの口の軽さを恨めしく思いながら、列が数歩進んだので、弟君に促されながら足を動かすと、前にいた人が捌け、ついに私達は先頭に出た。
傍からさっと現れたスタッフの女性が、何名様でしょうかと丸井さんに尋ねている。彼は兄君と弟君を前に押し出した。

「四人なんすけど、二人ずつで乗れますか。こっちの二人と、俺と彼女で」
「えっ」
「何、やなの」
「いや、」
「ふうん、やなんだ」
「えっ、今のはちが、」

スマホを繋いだままだった私は、それを耳にあてがったまま、状況を追おうとしているうちに、ぶんにいが良いならそれで、なんて兄君達はゴンドラに乗り込んでしまった。がちゃんと扉が閉まってから、弟君の小さな手が、窓越しに私に手を振っている。行ってしまわれた。
二人が乗り込んでしまったのだから、丸井さんと二人でゴンドラへ乗るしか選択肢はなくなり、先程の言葉の綾を払拭するつもりで、丸井さんと一緒に乗れて嬉しいですウワァイ、と言うと、彼は緩く笑った。
どきりと胸が小さく跳ねる。第一印象でも思ったように、彼は王子様みたいにルックスが良いので、こんなふとした表情でもとても絵になる。心臓に悪いなとそっと胸を押さえていると、丸井さんの手がこちらへ伸びて、私の手から再びスマホを取り上げる。あれ、デジャヴだと思う間もなく、彼は一旦切るわーなんてまた勝手に通話を終了させた。バカヤロウと言いたい。
しかしその前に次のゴンドラがゆったりと目の前まで下がって来て、スタッフが扉を上げた。ごゆっくり、と笑顔で見送られて、ゆったり離れていく地上から視線を外した。向かいの丸井さんは、一つ上にいる弟さん達の方を見上げて手を振っている。

「マジで一人で乗るかと思った?」

きっと弟さん達と一緒に乗りたかったんじゃないかな、とこちらからは見えないけれど、上にいる二人へ手を振っている丸井さんを見つめていたら、まるで私の声が聞こえていたみたいに彼が問うて私に向き直った。

「まあ、あんなふうに言われたら……ていうか私達の話聞いてたんだね」
「当たり前田のクラッカー、だろい」
「丸井さんも発想が大概化石だな……」
「は、化石上等だっつうの」

そうやって、オヤジギャグをかましても堂々としていられる丸井さんは少しかっこいいと思う。けれど化石仲間だね、と私は力強く頷いてみると、あまり嬉しそうな顔はしなかった。
言葉のチョイスを失敗したらしい。ただでさえ丸井さんと弟さん達から引き離して、こうして私の相手をさせてしまっているというのに、丸井さんに引かれた。すいません……と、スカートのひだを撫でながらこれ以上墓穴を掘らぬように化石は化石らしく黙ろうと決め込んでいると、丸井さんがぽい、と私の膝に緑色の紙が巻かれた板ガムを投げて寄越した。紙にはグリーンアップルと書かれている。たまに丸井さんが噛んでいるやつだ、と思った。
だけど、いきなり、どうして。

「そういえばさっき飴もらったから。あと何か今困った顔したから」
「……別に気を遣わなくても良いのに」

私が一人ぼっちにならないようにとか、誰かにぶつかられたからといってそれを私の代わりに怒ろうとしなくても。ガムの話だけでなく、そういう意味でも、と口には出さなかったけれど、私の思ういくつかを内包した言葉を零すと、察しの良い丸井さんは、気なんて遣ってねえよ、とやけにさっぱりした顔で言い切った。それすらも気遣いだったのかもしれないけれど、彼の表情のせいで、いくらか本当らしく聞こえた。

「でも俺が無理矢理誘ったんだし、さんの面倒はちゃんと俺が見るつもりで来てる。だから観覧車のペアがどうとか下らないこと考えなくてよし」
「ええと、はい、すみません……」
「何でさんが謝んの。逆だろい。ま、俺は悪いと思ってねえけど」
「ないのかよ」
「ないよ」

だって、悪いと思ってたら、俺のしてること全部気遣いになる。丸井さんが言って、自分先程私があげた飴を口にひょいと放り込んだ。アセロラの味。真っ赤でつやっとした包装には、アセロラの絵が描いてあって、彼はそれに目を落とした。この味好き、と丸井さん。

「私も結構好きで、その飴はいつも持ってる」
「俺と一緒だな」
「一緒?」
「俺もいつもそのガム持ってんの、ほら」
「そうなんだ」

紺色のショルダーから、丸井さんが板ガムのストックを取り出して、私はそれに頷いた。それから話題は広がりを見せずに、思いがけず幕を閉じることになる。沈黙がこの狭い空間に積もる。空気の入れ替えらしい穴からこうこうと風の入る音だけがやけに大きく聞こえた。
そうして自分もアセロラ飴の袋を見せれば良かっただろうかと思ったのは、妙な間が空いたあとだ。今更出しても、だから? というレベルのものであるし、結局話題になりそうにもなかったので、私は踵をただ上げ下げしていた。

「ふは、また困ってるし」

すると、向かいで、丸井さんが吹き出した。私の様子を窺っていたのか、恥ずかしさに背中がじわ、と可笑しな汗をかき始める。

「うまいこと言わなきゃって顔してる」
「……してましたか」
「してました。丸井さんにはお見通し」
「む、」
さんて不器用な癖に、いろんな難しいことばっか考えてんのな」
「そ、そうだろうか」
「俺にはそう見えるけど。例えば自分はつまんない奴だからせめてこうしなきゃーとか、ああしないと自分は友達が作れないだろうーとか」
「……」
「今のままでも周りに人はいるのにな」

丸井さんは私がむつかしいことばかりを考えると言うけれど、彼の言葉こそいつだって私にはむつかしい。彼の言葉はその一言そのものが意味する以上の別の何かが含まれているようで、だけど私にはどうにもそれを掬い取ることができない。ただ、丸井さんもそれをよく分かっているようだった。彼は私の困惑をすぐに察知できる洞察力を持つくらいだ。それなのに、丸井さんは素知らぬ顔をするから、もしかしたら彼の伝えたい何かを私に教える気はハナからないのかもしれない。
丸井さんのその声も、瞳も、私を哀れんでいるように見えて、そんなふうに対面されたのは初めてだったので、私は怖くなってキャップのツバを掴むと、それをグッと下に下げた。

「それってどうしてだろうってさんは思ったことねえ?」

キャップで覆われた視界の中で、ふと仁王のことが頭を過ぎっていた。
こんな私のそばに誰かがいる理由。考えたことがないわけではなかった。けれど、いつだってそこには惰性や、同情の念が潜んでいるからに違いないのだと、私はそう、思うのだ。




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