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ポップコーンの甘い匂い。ここには以前、一度だけ来たことがあるはずだけれど、その甘さを胸にいっぱい吸い込んだところで、私の中の昔の記憶はいつまでも判然とはしなかった。
入場ゲートで渡されたチケットの半分を私は財布の中に大切にしまい込んで、後ろを振り返る。人の流れは止まることなくゲートから園内へと続いていた。財布をしまうのと一緒に、鞄の中のスマホが見えたけれどちょっと怖くて今は中を見る気はしない。でも、こうして勢いで彼らについて来てしまった私を仁王は怒っているだろうか。……怒っているだろうな。今更怖くなってきた。

「仁王のことが気になる?」

ぱ、と視界に赤い髪が飛び込む。そばを駆けていた弟君を抱き上げて、丸井さんが私の顔を覗き込んだ。弟君の視線も私を窺っている。元々仁王との約束は私から言い出しだこともあって、彼の問いにはそりゃあもちろん、と、私は答えたかった。それでも、ちゃん、来たくなかった? なんてそうまんまるの瞳に見つめられてしまったら、私は素直に頷くことができなくなってしまうわけで。気づくとあーとか、ううんとか、私は言葉を選び出している。

「あー……気にならないと言ったら嘘になるようなならないような、でも遊園地楽しみですウワァイ」
「だって、良かったな」

視線すら合わせずに私は早口で答えると、弟君は降ろされて、兄君の方へ駆けて行った。兄君は兄君で、私達のやり取りには少しも興味を持っていないようで、パーク内のマップを頭に叩き込もうとでもするように、辺りを見回している。確かに、スムーズに案内できた方が、彼氏としてのポイントは高いのかもしれない。抜かりない兄君。
二人を目で追いながら隣に並んだ丸井さんを少しだけ恨めしく思って、私は横目で窺うと、彼も視線だけをこちらに寄越した。

「丸井さんも人が悪い」
「はは」
「あんな目で見られたら本音言えないよ」
「あの目は永遠の武器だよなあ〜」
「褒めたわけではないからな」
「んー、ごめんって」

わざわざ弟君を捕まえて、目の前に突き出されたら、あのまんまるの瞳の前では彼をがっかりさせるようなことを言える気がしない。先を歩く二人に続きながらゆるく謝る半笑いの丸井さんに、私はそんなこと思ってないくせにと零す。彼はまあな、と開き直ったように腕を頭の後ろに回した。能天気に欠伸なんてして。

「あんま悪いと思ってない」
「そんなに遊園地行きたかったですか」
「遊園地行きたかったっていうか、さんと遊びたかった」
「では仁王を出し抜きたいと言うのは」
「それは謎」
「なんだと」
「口からぽろって出てきただけで、深い意味はないっつうか、そもそも何も考えてないっつうか」
「ぽろっと」
「そう、ぽろっと仁王から一日さんを借りたい気分だった」

ぽろっと。口の中でころんと転がるみたいに、私の中でその音が跳ねる。
つまり、やっぱり私は彼のぽろっとした思いつきで仁王との縁を脅かされているというわけである。だけれど、そんなことは改めて考えるまでもなかったはずだ。だってそれまでは思い思いの休日を過ごす流れだったはずで、それが急に遊園地に攫われたのだから。今更ながらに私は何でホイホイついて来たのだろうと思う。謎である。
仁王との待ち合わせだった大学の図書館で仁王が一人ぼんやり天井を見上げてる姿が頭を過って、たちまち私は身体がぎゅっと絞られてるような緊張に包まれた。

「ひえ仁王に殺生される」
「せっしょう」
「殺生とは仏教用語で生き物を殺すことです」
「存じております」
「殺生される」
「いやされないだろ」
「どこにそんな自信が」
「逆にそれ俺が聞き返していい? つうかさんって仁王とずっといる割に仁王に無駄な恐怖心抱いてるよな」
「基本的に良い奴なのは分かってるんだ……基本的には」

今回のことは間違いなく私がいけないのだから、仁王のことは当然責めないし素直に怒られるつもりではあるけれど、彼の視線は時折ひどく冷たく、鋭くなることがあるから。
パークの中心に近づくにつれ、人は増すようだった。賑やかさも一段と増す。周りからの賑やかな声や、轟音が駆け抜けるのと共に聞こえる悲鳴とか、スキップでもしたくなる音楽とか、様々なものにのぼせそうになりながら、私はひたすら歩いた。前の二人は、後ろの私達のことをすっかり忘れているかのごとく、すいすいと先へ進んでゆく。それでもアトラクションの前で立ち止まっては歩き出すことを繰り返しているところから、どうやら目的地が決まっているわけではないようで、ただ彷徨っているだけらしい。弟君はメリーゴーランドとか、小さなジェットコースターとか、そういうものを見かけるたびにこれ乗りたいあれ乗りたいと言って、けれど兄君はまだ待ってと横を通り過ぎるだけだった。

「乗り物一つにむつかしく考えすぎなのでは」
「だよなあ。サクッと目に付いたの乗っちまえば良いのに」

一番初めの乗り物が肝心だなんて、わけのわからないこと言っている兄君はよほど初デートとやらを失敗させたくないらしい。それにしたって、せっかくの遊園地のチケットが無駄になってしまう気がするし、実は久々過ぎる遊園地に微かに浮つく自分もいて、適当な乗り物に誘導しようかと思っていると、丸井さんが急に立ち止まって私の腕を引いたのだった。

「乗り物決まんないなら形から入ろうぜ」
「形?」
「ほら頭につけるやつ見に行こうぜ。キャラの帽子とかカチューシャとかあるじゃん、あそこの店」
「その考えはなかった流石ぶんにい」
「えっ、頭につけるのってまさか先程からチラチラつけている方が窺えるああいう、犬やらうさぎの、」

めでたいやつ、と私が続けるよりも早く、丸井さんの視線が私をじっと捉えて、さんはうさぎだな、と頷いた。いや、意味が分からない。邪魔になるだけだろうし、つけないよ。それになんだか恥ずかしいじゃあないか。

「皆つけてるんだし恥ずかしいことないだろい」
「だったら丸井さんがつけたら良いでしょう。まあ君がうさ耳をつけたら私は丸井さんの隣を歩かないだろうけどね。きっと似合っている未来が見えたって」
「いや俺はつけないけど。ていうかうさ耳はない」
「どうして」
さんは女の子で、俺は男じゃん?」
「しかし君に限ってそれは関係ないと思われる」

あるある、丸井さんはそう言いながら自然に私をショップに誘おうとするので、私はやんわり彼の腕を解こうとした。周りは男も女も年齢問わずハッピーな装飾品を確かに頭に乗せていて、私がそうしたところで誰も気にはしないだろう。そんなことは丸井さんにだって同じことが言える。だけど私は仁王との約束を破ってここにいるわけだから、少しは自重の心を持つべきではないかと、そう思うのだ。だって人との約束をすっぽかしておきながら、頭にめでたい被り物をつけて、にこにこ遊んでいるなんて、申し訳ない。たとえ私の心が遊園地にちょっぴり浮かれていたとしても。そうじゃなければ羞恥と、それを忘れさせるくらいの陽気さに満たされたのこの世界観にきっと私はのぼせてしまう。

「先約のドタキャンとか、カチューシャ恥ずかしいとかいつまでも小さいことばっか気にしてんなよ。せっかく遊園地に連れて来てやったのによう肝が小さいやつ」
「アトラクション一つ決められない少年が何を言う」
「ハッ、友達0人ちゃんはチュロスでも齧ってな」
「ウルトラむかつく」

この生意気な兄君を何とかしてくれ、という意味で丸井さん、と彼の方を振り返ると、彼はチュロスの屋台の方を見やって、買う? とか言っている。買わねえわ。
私の渋りなんてまるでなかったみたいに、結局、私はそのショップの中に引きずり込まれた。中にはカチューシャ以外にも、お土産用の遊園地クッキーや、チョコレートなども並んでいて、仁王の機嫌をとるなら、お土産を買って帰った方が良いんだろうかと、ついそちらに気を取られる。いや、しかし遊園地に行ったことをわざわざ知らせることをする必要もない気がする。……それじゃあ、幸村に?
今はお土産に、名前入りのコップをその場で作ってくれたりもしてくれるようで、商品の並ぶ棚の横でガラスにそっと名前を掘る職人さんへ物珍しさから私はそろそろと近づいていこうとすると誰かに腕を掴まれた。こっち、と丸井さんに手が引かれる。案の定目的の場所はカチューシャや帽子のエリアである。

「お土産は荷物になるから後な」
「……はーい」
「仁王に買うんだろい」
「いや、仁王かどうかはまだ分からない」
「……他に買いたい人いんの?」

言った後で、まるで失言だと気付いたみたいに、丸井さんは少しだけバツの悪そうな顔をした。仁王以外に、私と関わりがある人がいることに、たぶん驚いたのだろう。確かに彼の感じている通りだ。しかし一応、幸村にも買って行こうかなという気持ちも、ちょっぴりあったり。それは、ただ、話のネタになるからという意味だけで、それ以上もそれ以下のものでもないけれど。だから丸井さんには、幸村のことは濁すことにした。
そのあと私の指はそばのカウボーイハットへ伸びた。深い意味はなかった。それを指で弾くと、丸井さんがそれを私の頭に乗せる。んーこれは違うかな、なんて。それから彼はしばらく棚のカチューシャを物色していて、弟君達もそれに倣っていた。すごくヘンな感じ。友達でもないのに、一緒に遊園地に来て、カチューシャを選んでいる。
今日のことだけではなかった。丸井さんは、時折私を夕飯に誘ってくれるし、一人ぼっちで消えてしまいたくなるときも、いつの間にか横にいる。今までそんな人間は私の周りに存在しなかったから、すごくヘン。
そんなことを考えている間も、丸井さんは私の頭にカチューシャや帽子を乗せては外し、私はそれを黙ってやり過ごしていた。
ふと、丸井さんの視線が私に止まった。私も視線を持ち上げる。

「あ、気は済みましたか」
「全然」
「さようか。では何か」
「いや、なんか不意にさ、何で仁王なんかなーって」
「……は?」
「仁王が怖いくせに、さんてあいつに拘るから」

何で? と続いた言葉に、私はたちまち何も言えなくなった。理由なんてなかったからだ。
確かに、初めに声をかけたのは、この人のそばにいたらきっと傷つかないと思ったからで、それでも今ではそんなことは頭のずっと奥に忘れ去られていた。

「むつかしいことを聞くなあ。……うーん、仁王だからかな」
「と言うと?」
「なんかこの人じゃないと駄目だーって、私が言ってる気がする」
「はは、それ、仁王のこと好きみたいに聞こえる」
「え、恋愛とは違うよ。何だろう、この人と一緒にいる自分なら好きになれそう、みたいなー……うん、そう、そんなざっくりした感じ」
「この人といる自分なら好きになれそう?」

……ふうん、とやけに気持ちの抜けた声が返った。私はまた何かおかしなことを言ってしまっただろうか。
仁王に固執するそれに、明確な理由はない。というよりまだ分かってないと言うのがきっと正しい。でも、友達になりたい気持ちに理由は必要なのだろうか。果たして、私の、仁王を友達にしたいこの気持ちは間違っているのだろうか。
先程から、私ばかりが帽子を付けたり外したりと弄ばれているので、そばにあったキャラの絵がかっこよくプリントされたキャップを丸井さんの頭にかぶせると、彼はその手を掴んだ。束の間、帽子の下で彼が微かに微笑んだ気がした。

「丸井さん?」

彼の頭に乗っていたそれが、私へ返る。斜めに被されたキャップのツバが私の視界を覆い、頭も下に傾いた。

さんて矛盾してる」
「え……」
「どういうふうにって気付いてないんだろうけど、でも教えてあげない」
「は、」

どういう意味だ。
帽子から顔を上げたときには、丸井さんはもうこちらは見ていなかった。買いたいものを決めた弟君達の相手をしてやりながら、ちらりとこちらを一瞥して、さんはそれな、と私の手に掴んでいるそのキャップを顎でしゃくるので、私は彼とキャップを交互に見た。それはもちろんうさぎの耳が付いている帽子でもカチューシャでもない。たぶん、外でもかぶろうと思えばかぶれるような、お洒落なそれだ。
私が適当に選んだやつ、というか、丸井さんに似合うと思ったやつ、なのに。
彼の言葉にも今の状況にもついていけていない私は、ぱふ、と柔らかくそれを頭にのせた。似合っているんでしょうかと二人を構う彼の袖を引くと、しばらく私を見つめた彼の指が、頬へ伸びた。
え、と短く声を出す間もなく、丸井さんは私の横髪にそっと触れて耳にかける。じわ、と顔が熱くなったような気がした。

「な、にを」
「結んだらもっと似合う」

むすんだらもっとにあう。
丸井さんは簡潔に答えると、会計をするために、キャップを攫っていった。
何故か分からないけれど、丸井さんに触れられたところが熱くなった。誰が見ているわけでもなかったけれど、隠さなければならない気がして、触れられた耳をさっと手で覆う。ああ、ヘンだ。丸井さんといると良い意味でも、悪い意味でもすごくヘンになる。そんな私の気持ちなどそしらぬ様子で、さっさと会計を済ますと弟君たちを連れてショップを出て行く丸井さんを、私は追った。……ああ。

「……今日一日で私の中の丸井ブン太という人物像が変わりそうな予感がするよ」
「え、それはどういう方に?」
「悪い方に」
「はあ、なんでだよ」
「なんでもだよ」

私の中の丸井ブン太という人はすごく不安定だ。たぶん私もそれに振り回されている。これが良いことなのか、悪いことなのか、生きることがとりわけ下手な私には、まだ分からなかった。








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