17



梅雨の時期になると、鼻がつんと痛くなることがある。泣きたくなる、っていうのに少し近い。濡れた土と、やわらかい雨の匂いは、私の胸に沁みるのだ。ただし梅雨でないときの雨ではそうならないからふしぎである。たぶん、それは私がこれまで過ごしてきた環境がそうさせているのだろう。
突然だけれど、私は相合傘というものをしたことがない。悲しい話だが、私には傘の半分を貸してくれる友人が今までにいなかったし、親にしてもらうような機会も得なかった。個人差はあるが人間のパーソナルスペースというやつは親しい間柄でも45センチから120センチくらいはあるのに、相合傘はその距離をひょいと乗り越えてしまう。小学生のとき、梅雨は毎日雨が降るものだからついうっかり傘を忘れる生徒をぱらぱら見かけて、帰路で相合傘を見かけることが割とあった。仲良しの証拠だなと、それを見かける度に自分の傘をくるくる回しながらそれを眺めていた。まあ、仁王は見ず知らずの女の子に傘を借りるなんて、私の常識をぶち壊すことをやってのけるけど。
今朝は大学には早めに着いた。午後から雨が降るそうだが、見上げた空は既に厚ぼったいグレーの雲に覆われて、今にも雨をこぼしそうだ。まあ、いつ降り出そうが傘は用意してあるし、家もすぐそこだ。
私は門をくぐったところで、ふと耳に入ったストロークの音に釣られて、足は自然とテニスコートへ向かっていた。

「こっちの方に来たのは初めてだ」

体育の授業でもあまりこちらには来ないし、普段ストロークの音が聞こえても気に留めていなかったが、この大学にこんなに何面ものテニスコートがあったなんて知らなかった。なんというか、大学のテニスコートというのは、ここまで大きいものなのか。呆然としながら、フェンスに囲まれたグリーンのコートを眺めていると、すみで誰かが壁打ちをしているのが見えた。壁にはボールの跡が一箇所だけ。ずっとそこへ狙いを定めてボールを打ち続けているところを見ると、相当コントロールが良いらしい。

「うわあ朝からすごいものを見てしまった」
「うん、すごいよね彼」
「およ、」

女の子がいた。ものすごく可愛い女の子だった。声の主はこの子かと驚いて振り返る私と目が合うなり彼女ははにかんだので、心臓が跳ねた。
かかかかわいい。
どこか湿った空気に撫でられていた頬が、ぽ、と熱くなるのが自分でもわかった。
膝丈のワンピースを揺らしてゆるく編み込まれた栗色の髪のその人は私と同い年か、一つ上か、そう思わせる。大人可愛い感じと言えばいいのだろうか。彼女はコートを一瞥して、首を傾げた。

「誰かを見に来たの?」
「ふお、いえ、音に誘われて、というか、あ、でも友達がテニスサークルに入っているとかいないとか」

日本語大丈夫か。と私はパーカーの裾を強く握りしめる。いつからいたのか、何故話しかけてきたのか知らないけれど、せっかく女の子と話せる機会なのに、コミュ障の自分を恨む。

「あああの、貴方は、」
「えっ、あたし? あたしは会いたい人がいるんだけどね、今日もいないみたい」
「そ、そうか」
「まあ、そもそもこんな早くじゃいないよね」
「そう、かもしれないね」

何だか引っかかる言葉だった。頭の中で彼女の台詞を繰り返していると、突然、何か用か、とフェンスを隔てた向こう側から声がかかって、またもや私は心臓が跳ねた。気づけばストロークの音は止み、壁打ちをしていた彼は、首にかけたタオルで首をぬぐいながら、すぐそこにいた。ぐっと眉間にシワが寄せられている。ジャパニーズサムライを彷彿させる雰囲気を持ち合わせた人だと思った。いや、何だジャパニーズサムライって。というか、もしかして、勝手に見学は駄目だったんだろうか。

「怒りに来たのではない。用事があるのかと聞いたのだ」
「いや、私は、ストロークの音に釣られてやって来た者で。あっそう言えば彼女は会いたい人がいるそうなので、……あれ?」

いつ来るかがわかれば教えて貰えば、と、振り返った先に、先程いた女の子は既にいなかった。テニスサークルの彼は、彼女? と怪訝そうな顔で私の示した先を辿っていたが、この様子では、彼は女の子の姿を見ていないようだ。
一体どこへ行ってしまったのか、誰もいないそこへ向けた指が行き場を失い、体裁が悪くなって、男の子にぎこちなく笑いかける。困った挙句、私は出し抜けに仁王の名前を挙げた。私の勘違いでした、とその場を立ち去るのは少々やり辛いので、この際だと思った。

「仁王雅治か。ああ、所属している。とはいえ、あやつはあまり来ないがな」
「さようでしたか。すいません、わざわざ」
「いや。お前は仁王の友人か」
「あー……友人、……に、なりたいなと、思ってます」

うへへ……我ながら気持ち悪い照れ笑いである。男の子は少しだけ面食らったように目を見開いたけれど、すぐ手に持っていたらしい黒い帽子をすぽりと頭にのせると短く、そうか、と頷いた。

「すいません、練習を妨げてしまって」
「いや、構わない。ちょうど止めるところだった」
「ええと、じゃあこれも何かの縁ですから、玉ねぎどうぞ」
「……突然だな」

紙袋からずっしり重いまんまるの玉ねぎが詰まった袋を取り出すと、みっつ紙袋へ分けて、男の子へ託した。彼はそれを覗き込むと、立派なたまねぎだと言った。有難くもらおうと。本当は仁王と丸井さんに渡すために叔父の畑から引っこ抜いてきたものだけれど、迷惑がられなくて良かった。

「袋に入れて保存すると傷みますので、風通しのいいところで保存お願いします」
「うむ、分かった」
「それでは」

あまり長居するのも彼に悪いので私は早々にその場を立ち去ることにした。テニスコートから離れるとき、私はもう一度フェンスの周りにあの女の子の姿を探したけれど、やっぱりもう見ることはできなかった。もしかして友達がいない哀れな私の幻覚だったのではと、鞄の中の傘をちらりと覗き込んで私は肩を竦めた。



「お前さんて、ほんま色気がないのう」

仁王に出会ったのはそれからすぐのことだ。紙袋はあげてしまったので、玉ねぎの詰まった透明な袋をぶらぶら揺らしながら校舎に向かっている途中、彼は私の隣をいつの間にか歩いていた。おはよう、とそっと告げると、彼は当たり前のようにおはようさん、と返した。何だか仲良しみたいだと、胸がじんわり温かくなる。にやけるときっと仁王に馬鹿にされそうなので、すました顔をしていると、彼は私がぶら下げているビニール袋へ視線を落とした。

「大学に自分が収穫した玉ねぎ持ってくる奴がどこにいるんじゃ」
「今からこれ君が持つんだよ」
「……これ俺のなんか。なんちゅうか、紙袋とかなかったん……」
「持ってたんだけど、テニスサークルの人に玉ねぎ入れてあげちゃったんだよね」
「は? 誰」
「分からない」
「知らない奴に玉ねぎあげたんか」
「あげたよ。サムライみたいな人だった」
「サムライ……あー」

黒い帽子もかぶってた。眉間にシワが寄ってて、こんな顔、と厳しい顔を再現してみると、仁王は口元を押さえて笑った。そんなに面白かっただろうか。袋を仁王へ手渡すと、彼はそれを素直に受け取って、ふとテニスコートの方へ視線をやった。玉ねぎの袋は、仁王の纏っている雰囲気とちぐはぐで何だかヘンな感じだ。
仁王のこと知ってるっぽかったよ、とサムライボーイと話した内容を簡単に伝えると、お前さんとんでもないもんに声かけたのうと仁王が言った。


「私じゃなくて向こうから声かけてきたんだけどね、何かまずかった?」
「あいつの名前はダーサナって言ってな」
「だ、だーさな…。日本人代表みたいな顔に見えたけど、外国の方なのか…?」
「俺も詳しくは知らん。ただ人を殴るのが趣味っちゅうくらいあいつ凶暴じゃから、何でもかんでもケチつけて攻撃してくるぞ」
「えー……厳格そうな人に見えたけど」
「赤也はあいつに殴られて歯が取れたことがあるんじゃ。玉ねぎまずかったらぶん殴ってくるかもしれん」
「まじかよやっべえええどうしよう。次から見かけたら逃げるようにします」
「それがええかもな」

とまあ仁王は赤也君とサムライボーイにそれぞれ不名誉な嘘を私に植え付けたわけだが、それが仁王の戯言であることを知るのはもう少し先の話である。
とにかく私は今後あのサムライボーイに会わぬように最善の注意を払って生きてゆくことにする。歯が取れるのは勘弁である。


午後になると予報通り雨が降り出した。しとしとと穏やかな雨だ。今日の昼は弁当を用意していなかったので、食堂で済ますことにした。仁王は午後の授業をサボるようで、とっくに家に帰ったようだ。雨に濡れる前に、ということだろう。先程届いた彼からのメッセージには、ノートと代返頼む、なんてふざけた内容が記されていた。ノートは見せてやってもいいが代返をするつもりはさらさらない。そもそも女の私が仁王の代返をできるわけないだろう。きっと彼も冗談で送ってきているのだろうが。窓の外をぼんやり眺めながら、私は携帯をポケットにしまいこんだところで、向かいの席が引かれた。

「やあ」
「幸村精市」
「こんにちは、さん」
「え、ていうか何でここに座るんですか」
「相席良いかな」
「えええ良いですけど」

席は他にもたくさんあると言うのに、わざわざここを選ぶ理由が分からない。幸村精市は今日の特別メニューの鰹のフライが添えられた定食をお盆に乗せて、私の向かいに腰を下ろした。それから言った、調子はどうだいと。彼の箸が鰹のフライを摘む。
彼の言葉は、仁王とのことを示していることはすぐにわかった。そう言えば、彼と最後に会ったのはまだ彼とのいざこざがちっとも解決していないさなかだった。

「仁王から何か聞いてないの」
「聞いてるよ」
「じゃあどうして私に聞くんだ」
「君がどんなふうに感じてるか聞きたくて」

私が、どんなふうに。言葉を繰り返すと、幸村精市は頷いた。
どんなふうに、と聞かれると困ってしまうが、言えることはあった。今の私にどういうわけか悲しい気持ちはないということ。結論として友達にはなれなかったはずなのに、私の心は確かに、以前より満たされていたのだ。

「え、君達まだ友達じゃないの」
「仁王に聞いたのでは」
「うん、話は『全部』聞いたけど、仁王は一言もそんなことは言わなかったな」
「さようで」

お茶をすすりながら話を聞き流していると、幸村精市は束の間、酷く疲れたような顔をしたように見えた。小学生じゃないんだから、良い加減そういうの終わったと思ったけど。と彼がため息と一緒にこぼした。他にももっとたくさん言いたいことはありそうだったけれど、私にはそういうものを汲めるような察しの良い人間ではないので(そもそも、それができたならこんな状況にはならぬはずだが)終わってないんですね、と簡単に答えるだけにする。

「じゃあもう俺と友達になろうよ」
「は、何ですか突然。なにゆえ」
「いや、実は仁王が先の方が良いと思って待ってたんだけど、もう待つの飽きちゃったから」
「え、話が見えない」
「要はそろそろ俺も君と仲良くしたいって話さ。君俺を見るたびに親の仇みたいな顔するし。それはちょっと悲しいからさ。それに仁王を出し抜くのも面白そうだ」

親の仇……と自分でつぶやいて納得した。自分がどんな顔をしているかは分からないが、確かに仁王と仲が良い幸村精市には、嫉妬に近いものを抱えていることは否定しない。私は友達が欲しくて欲しくてたまらないけれど、この人とだけは仲良くしたら負けなような気がしていた。まあ、くだらない意地だ。

「私と仲良くして、君に何かメリットが」
「さあ。でもそれは君が決めることじゃないから。俺から見た君の価値は俺が決めるよ」
「でも私は君のことよく知らないので、何ていうか、もっとこう、何かして親睦を深めたい、です。親愛イベントみたいなやつ」
「例えば?」
「えっ、えええと、……交換日記、とか」
「交換日記? 良いよ、やろうか」
「ふお」
「じゃあ君からスタートだよ。言い出したんだからね」

適当に言ったはずの言葉が、たちまち現実味を帯びて私の元へ返ってくる。また明日ここに私がノートを持って集合することになると、彼は紙を取り出してさっとボールペンを走らせた。差し出されたその中をそっと開くと、そこには彼の連絡先がのっている。
何か都合が悪くなったら互いに連絡できるようにしておいた方がいいだろ、なんて、そりゃそうだろうけれど、こんなにあっさり幸村精市の連絡先が手元にやって来るとは思わなかった。
話の展開についてゆけぬまま、これ、私の連絡先も教えた方が良いのか、と真顔で言うと、当たり前だろ、と彼が肩を竦めたのだった。

幸村精市と別れてから、私は忘れぬうちにと彼の連絡先を携帯へ打ち込んだ。身内と仁王の分の連絡先しか登録されていなかった私の携帯に、幸村精市の名前が加わる。
それから、メッセージに私の番号を添えて、幸村精市へ送り返すと、すぐさま登録しました、よろしくね、と返事が来たので、誰も見ていないのに私はつい周りをきょろきょろと確認してしまった。

「な、何だかとんでもないことになったぞ」

小学生のときにすら一度もやったことのない交換日記が、かくして私と幸村精市との間で始まろうとしていた。






←こっち げんかん あっち→

( 180330 加筆修正 )
( 160311 )