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うちのアパートの壁は薄い。誰かが出かける音に帰宅する音、話し声、ある程度のものは静かにしていればそれとなく聞こえてしまうくらい。だから、というのは言い訳になるのかもしれないけれど、私には扉の前での丸井さんと仁王の話も、聞こえていた。
責める、とはちょっと違う。心配するような仁王の声。聞き間違いでなければ、止まっているのは丸井さんだけだと言っていたと思う。その言葉の意味は私には分からない。でも、わざわざ本人のいないところに出てから私の名前も挙げるくらいだ、たぶん、私は聞かない方が良い話だったのではないだろうか。

真っ白いカップの中で、コーヒーが揺れる。日曜日の喫茶店は昼が近いこともあって、少し混んでいる。二人用の小さなテーブルに座る私の向かいの空席は、待ち合わせをしているその人の場所である。香ばしいコーヒー豆と、甘いケーキの匂いが混ざり合うこの空間で、私は踵を上げ下げしながら窓の外の慌ただしい街へ目をやった。柔らかな陽射しが、じめっとした暑さに変わり始めて、少しずつ近づく梅雨の気配。今日は夕方から雨が降ると言っていた。
誰かと待ち合わせなんて、実を言うと初めてのことなものだから落ち着かない気持ちでいると、入り口のベルが揺れた。丸井さんの姿が見えたので私は遠慮がちに手を上げる。彼はすぐにこちらに気づいた。待ち合わせの相手は彼だった。

「わり、結構待たせた?」
「平気だよ、丸井さんの言った通りきっちりきっかり三十分」
「そりゃ良かった」

丸井さんが席に腰を落ち着けると、通りがかったウエイターを呼び止める。とりあえずカフェラテで、と丸井さん。私はぎこちなく手元のコーヒーを揺らす。とりあえずカフェラテ。なんだか手慣れた感じ。
七分袖のパーカーから伸びる手が、側に立てかけてあるメニューを弾く。あまりまじまじと見たことはなかったけれど、丸井さんの腕は細いようできちんと筋肉がついていて、男の子らしい。

「丸井さんは、いつもああやってランニングをしてるの?」
「えっ、……。あー、いや」

私の視線を受け止めて、丸井さんが曖昧に笑った。ふと今朝のことを思い出す。その時も彼は似たような顔をしていた。といってもほんの数時間前の話。昨日出した熱が嘘のように回復して、すっからかんの冷蔵庫の中身の調達に出ていた私が、ランニングから帰ってきたらしい丸井さんと偶然部屋の前で鉢合わせた話のことだ。
熱の看病に関して、仁王には礼のメールを入れたけれど、私は丸井さんの連絡先を知らない。そのため、隣の部屋だからと買い物へ出る際に直接声をかけようと思ったのだが、朝の段階で丸井さんは出かけていたので、スーパーからの帰りにタイミング良くアパートの下でジャージ姿の彼に遭遇したことを幸運に思った。
少し息を上げながら、彼はタオルで額を拭って、どういうわけか今と同じように曖昧に笑っていた。

さんじゃん」
「どうも。ランニングですか」
「あーうん、まあ、体動かしたくて」
「そうでしたか、お疲れ様です。ええと、あの、昨日はありがとう」
「いいって。具合はもう平気なのか?」
「うん、すっかりね」

丸井さんの料理のお陰に違いない。そう褒めるのと一緒に、この際だからと、私はきちんと礼をさせて欲しいと申し出た。その美味しい夕飯の材料だって、丸井さん達がお金を出したそうだし。しかし彼は案の定、その話を遠慮したので、だったらそばの喫茶店で、新発売のケーキがあると言うからそれを買って簡単なお礼にしようしたのだけれど、それなら自分も行きたいと彼が答えた。喫茶店のポイントカードが貯まったからなんて言っていたけれど、それじゃあお礼ができないような、とこっそり思う。それでも結局、丸井さんも行くと言うから、ランニングウェアで支度が全く出来ていない丸井さんとは後で落ち合うことにして、私は先に喫茶店へ向かっていたわけだ。

彼の指がメニューの上を滑る。それは大玉の苺がのった、例の新しいケーキとやらを通過して、喫茶店の定番のパフェで止まった。

「丸井さん、ケーキは」
「ケーキはメインディッシュ」
「なるほど。ケーキの分は私が奢るので勘定から省いていただいて結構」
「知ってると思うけど俺かなり食うよ」
「……奢るのはケーキ一つ分、に、訂正するよ」
「ハハ、ジョーダンだよ。で、さんは何にすんの」

私はあまりお腹が空いていなかったから、メニューの隅にこっそり載るくらいの、小さなシフォンケーキを指差した。丸井さんが身を乗り出してこちらを覗き込む。えー、それ? なんて。ごちん、と額がぶつかった。視界の上の方で、赤い髪がちらつく。私は身体がたちまち強張って口をきゅ、と結んだのだけれど、丸井さんはちっとも気に留めぬ様子で、こんなんで足りんのかよなんとかかんとか、と一人で喋ってから私の視線に気づいて、ちょっと恥ずかしそうにぎごちなく笑ってから席に座り直した。丸井さんは食べ物のことになると周りが見えないようだ。

「ごめん」
「う、ううん。じゃあ私はこの小さいのにするから」
「欲がねえのな」
「そうかな、私は欲張りだよ」

丸井さんの視線が持ち上がる。欲張りだと丸井さんに言うのは何度目だろう。ふーん、そうかね、と彼は今までで一番訝しげに呟いた。その視線に少しばかり居心地の悪さを感じ始めた時、ウエイターがテーブルへカフェラテを持って現れた。ちょうど良いのでデザートも頼んでしまって、その背中がカウンターの向こうへ消えていく。それを見送ってから、私はコーヒーに口をつけて、そういえば、と空気を変えるように話を切り出した。

「あの、気になってたんだけど」
「うん?」
「丸井さんは、仁王や鍋の時にいたハーフの人とか、あのくるくる頭の……」
「赤也?」
「そう、アカヤ君と、学科も学年も違うのにどうして知り合いなのかなって、」
「別に特別な何かがあるわけじゃねえよ。部活が一緒だっただけ。中高でな」
「あ、そうだったんだ」
「うん。……さんは赤也とは保健室で会ったんだっけ?」
「彼に聞きましたか」
「そう。……ていうか、やっぱさんって、外部から来た人だったんだな」
「え?」

丸井さんが小さく笑った。確かに私は立海生になったのは大学からで、それまではずっと東京の方にいた。だけど、私のこの問いが、何故外部生と判断される要因になり得たのだろう。腑に落ちないながらも、質問には肯定を返してから、ところで部活って、テニスだよね、と半ば断定的に言って見せた。どうして自分でもそう言い切れたのかは分からない。だけど、ふと丸井さんの弟達に会ったあの日、彼らの抱えていたテニスラケットと、揺れる彼らの瞳を思い出したのである。

「仁王にでも聞いた?」
「まさか。仁王はあんまり自分のことを話さないんだ」
「知ってる。でも、じゃあなんで」

丸井さんがカップを緩く回した。本当は彼の弟達が、丸井さんのラケットを持ち出していた話をしようと思ったけれど、彼らはそのことを内緒にしていたようだったので、私は何となくだよ、と酷く頼りない言い訳をする。丸井さんの視線が白けたように一瞬だけ冷たくなった。たぶん、丸井さんは嘘だと気づいている。

「ふーん、そう」
「……そう。ええと、丸井さん、何でもそつなくこなしそうだから、テニス、うまかったんでしょう?」
「そう見える? じゃあそういうさんは高校の時何してたの」
「えっ」
「当てようか」
「……いや、帰宅部だったので」
「文芸部とか入ってるかと思った」
「ええ……」
「だってなんか詩人なんだもん」
「詩人……」

何だそれは、と思ったし、あからさまなはぐらし方だった。さり気なさを装わなかったのはわざとで、拒絶を示したいがためだったのだろうか。そうとは思っても、懲りずに私の口からは今度はおずおずと、サークルは? と溢れていた。
大学のサークル。「表面的な印象」では私と違って、丸井さんは友達が多いのだろうし、大人までのこのモラトリアムを謳歌しているように見える。見えるだけだ。それらしいところを見かけた試しはない。だけど、本音を言えばもはや丸井さんの所属を知ることよりも、彼の反応の方が、私には気にかかっていた。

「入ってるように見える?」
「いや……実はそんな気配は感じなかったけど」
「じゃあそうなんだよ」

ふわんと甘い匂いがして、ケーキとパフェを持った、今度はウエイトレスが視界の端に入ったので、私は口をつぐんだ。テーブルにそれらが並べられる。伝票が側のケースに挟み込まれてごゆっくりどうぞ、とテンプレートの台詞を聞き流していると、丸井さんは待っていましたとばかりにスプーンを取り上げて早速苺を掬った。私もそれに倣って、シフォンケーキにフォークをさっくり差し込んだ。紅茶の柔らかい甘さが口に広がる。

「仁王、……はテニスのサークル、とかやってるのかな」
「確かやってたと思うぜ。つってもあいつ気まぐれだからたまにしか出てねえんじゃね」
「はあ」
「……。ま、もう勝たなくちゃいけない理由も俺達にはねえしな」

かち、とスプーンの先が皿の上に落ち着いた。勝たなくちゃいけない理由って、どういうことだろう。丸井さんの視線はガラスに隔てられた街の喧騒の方でうやむやになる。すごく寂しそうな横顔。丸井さんはテニスをどうでもよさそうに語るけれど、本当はテニスをやりたいのではないかと思ってしまった。何故なら彼はまるで昔の話を出すことを避けているようには見えても、それは嫌悪からではなく、もっと別の何かがあるような気がしたから。

「つうか、本人に聞けばいいんじゃねえの。仲直りしたんだろい」
「そうなんだけど、……ああ、あの、もう一つ聞いてもいいかな」

自分でももうやめれば良いのにと思う。でも止まらなかった。丸井さんが大袈裟に肩を竦めた。

「お前らって俺に質問するの好きな。ビッグスターなのも困りもんだわ。事務所通せ事務所を、」
「私は丸井さんの言いたくないことを聞いてるんだろうか」

間髪を入れずに問うた。冗談でかわそうとしていた丸井さんの瞳が一瞬だけきゅ、と細められる。彼の言うお前ら、というのは、私と多分昨日の仁王のことなのだろう。あのさ、と丸井さんの低い声が私の心臓を震わせた。

「どちらにせよ、俺がその質問に答えるならノー、だろい」
「そうですね」
「んじゃあ俺にも聞かせて」
「え」
「そっちの質問にばっか答えてちゃフェアじゃねえし」

丸井さんのカップの中身はいつの間にか空になっていた。
私は腑に落ちないといった声でひとうなりする。私が丸井さんの質問に答えたとして、果たしてそれはフェア、だろうか。丸井さんは初めから私の質問にまともに答えていない。私の話にすり替えたり、自分から明確な答えなど明かしていないのだ。
この数ヶ月、丸井さんには色々と良くしてもらったけれど、振り返ってみれば丸井さんはいつも、心はどこか遠いところにある人だなと感じることが多かった。丸井さんの核心というのは、どこにあるのだろう。

「丸井さん、あの、」
「俺が質問する番なんだけど」
「でも、」
「質問も、魔法の呪文もいらない」

カップを掴む手に少しだけ力がこもった。コーヒーはすっかり冷めている。表情にもそれが見て取れたのか、丸井さんは苦笑して、さんはさ、何を開くつもり? と極めて嗜めるような、そんな口調になったのである。

「初めっからもう全部開いてんのにさ」

なんでも開いてしまう呪文は、言い換えてしまえば、相手を嘘つき呼ばわりする言葉だ。それが相手に優しく響くこともあれば、不愉快にすることもある。丸井さんは、頬杖をついて、どこか責めるような瞳を私に向けたので、不用意に丸井さんの核心を暴こうとしていた自分の好奇心(本当は好奇心とは、少し違ったけれど)がひやりと冷めていくのが分かった。

「ごめん、やめよう」
「うん?」
「今言ったこと聞いたこと全部忘れて。私も忘れます。私は丸井さんとはぎくしゃくしたくないから」
「うん、俺もさんとぎくしゃくしたくない」

私の言葉に、丸井さんはあっさり頷いた。ぴりぴりとした空気はもう感じられない。それから、全部忘れる、と、丸井さんは続けて言うと、笑った。




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