15



さんの寝息と時計の秒針の音だけが201号室の空間を埋めている。その中で俺はベッドの横に座り込み、布団の端で頭だけ寝かせていた。さんもぽつりぽつりと話しているうちにいつの間にか眠ってしまったようだし、仁王が戻るまで、自分にはできることがない。
白いカーテンの隙間から、橙の光がやわらかく部屋へ差し込んでいる。飾り気のないこの部屋は、さんの前にいたここの住人の趣味と似ていた。

「……性格は真逆だったけどな」

彼女がここへ越してきた日、荷物運びの手伝いで入った時にはそんなことはなかったのに、今日ばっかりはどうにも嫌なことを思い出してしまって、俺はそれを追い出すように目を閉じた。首を突っ込むんじゃなかった、と少しだけ思う。今朝自分に言い聞かせたばかりなのに、俺はどうにもという人間に構いすぎている気がする。その理由はなんとなく気づいていたけれど、いやでも具合が悪かったらほっとけねーだろ、普通、なんて自分を正当化しようとしている心が俺の中には確かにある。
どう考えるのが一番自分に良いのかは知らないけれど、たぶん俺は多少苦しくなったって、さんに関わり続ける、それだけは分かった。
どれくらい経ったか、部屋の前を歩く足音が聞こえて、それが仁王だと気づくのに続いて、玄関の扉が開いた。

「……おかえり」
「おー……。寝てたんか」
「いや、ちょっとぼーっとしてただけ」

のろりと立ち上がると、キッチンの方へと向かう。仁王は言われた通りのものを机に並べながら、さんの様子を窺っていた。何だかんだ言って、心配なのだろう。冴えない頭を振って、俺は買い物袋を掴んだ。

「今は寝てるぜ。さっきまで起きてたけど」
「ほーか」
「話聞いたらさ、お前のこと考えてたら熱出したんだと」
「は」
「愛されてるなあ」
「……アホか」
「そう言ってやんなよ」
「『お前が』、アホか」
「俺?」

何それどういうこと。使うものをざらっと並べて、俺は早速フライパンに油を引きながら問うた。仁王はそのままの意味じゃろ、とだけ答えてすっかり自分の役目は終わったように、こちらに背を向けて座り込んでしまっている。茶化すな、ってことだろうか。
それから夕飯が出来上がるまではお互い無言だった。フライパンの上のベーコンがジュッと音を立てて色づいていく。すごく、変な感じ。さんの部屋に俺と仁王がいて、俺が夕飯作って、さんが寝てる横で仁王は座っているだけ。もともと俺と仁王は性格が正反対で、中学の時に同じクラスだったけれど、教室ではろくに喋っていなかったなあと、鍋に火をかけながらぼんやり考えていた。
さんが構わないというので、夕飯はやはり三人でとった。朝も昼も食べていないからか、彼女は予想より食欲があって、少し安心する。そうして明日には学校に行きますとはっきり言い残してさっさと布団に入った。
うん、明日は学校は休みだけどな。

「なんか、すまん」
「は?」

時刻は二十時を回ったくらいで、さんの寝息が再び聞こえ始めた頃。洗い物をする俺の後ろで丸テーブルに突っ伏している仁王のくぐもった声が聞こえた。さっきまで飄々としていたはずの彼の丸まった背中からは疲れが窺える。たぶん、自分のせいでこうなったという気持ちと、それでもやはり今回のことを彼は彼女に必要なことでもあったからという彼なりに思うところがあって、さんに気を使っていたのだと思う。

「いきなり何だよ」
「いろいろ巻き込んで」
「らしくねえな、やめろよ」

皿の水を切って、そっとそれを重ねた。
夕飯を食べたら帰ろうと思っていたけれど(部屋も隣だから困ることはないはずだし)仁王はまだ居座るらしい。彼の向かいに腰を下ろして、さきほどつけたテレビ番組を一瞥する。今人気の芸人が会場の笑いを誘うようなコメントを繰り広げている。少しだけ音量を下げた。
それを見計らったように、こいつ、変な奴じゃろ、と唐突に仁王が言った。

「お前も相当だけどな」
「そういう話は今はいい」

切れ長の瞳が少し細まって俺を睨んだ。話を折られたのが気に入らないらしい。俺はへらりと笑って肩をすくめる。仁王が何かを語りたがるのは珍しいことで、何か意図があるのかもしれないと少しだけ落ち着かなかった。それでも彼の視線はぼんやりテレビの方を向きながら、意識はどこか別の場所にあるようだ。

「大学の入学式のときじゃ。何を思ったか俺は気まぐれにに話しかけてたん。それが始まり」
「……ふうん」
「こいつ初めは肩に力ばっかり入ってて、ちっとも余裕のなさそうな奴で。交流会の時も一人だけ難しそうな顔をしとった」

入学式の後に行われる交流会なんて、どの学科もぎこちない。しかもこの歳じゃ、積極的に交友関係を作って行こうとミエミエの態度で仕掛けていく気もせず、ただ愛想笑いが飛び交う空間に成り下がる。普通でもそうなのに、人との距離感が掴めないさんと、そういうものに興味のない仁王がその中で浮いているのは容易に想像が出来た。

「俺もも、隅の方にいた。たまたま隣に並んだから、気まぐれに聞いてみたんじゃ。『楽しいか』って」
「なんて答えたの」
「『とっても楽しい』って、満面の笑みで」

作ったような笑顔に吐き気がしたと、仁王は言った。しかし俺には満面の笑みを作るさんを想像できない。
さんは彼の言うように、嘘を貼り付けていた。たぶん、この後自分がその世界で円滑に生きるための、彼女なりに考えた手段として。だけど、仁王にそれは通用しないし、彼自身、接待など求めてはいなかった。

「下手な笑い方。人付き合いが向いてなさそうで大変だな、って言ってやった」
「お前もっと言い方があんだろい」
「でもそん次の日からだよ。どんなに遠くにいてもすすーっとやって来て俺に付きまとい始めたんは。変な奴じゃろ」
「ふうん」
「難しいことを考えなくてもよさそうだから、友達のふりをしてほしいって。初めっから正体がバレてたから他の奴とつるむより楽だと思ったのかもしれん。正直空気みたいな奴やったから勝手にさせたんじゃけど」
さんがいつの間にか自分の中に仁王の侵入を許したのも自分を知られてたからかもなあ」

俺がお茶を口にしながら思ったことを言うと、彼は不思議そうに首をかしげた。
彼女がどうやって人と関わろうとしてきたのか、実は彼はきちんと聞いたことがないのかもしれない。
仁王もきっと、こんな彼女に勝手にさせているうちに愛着でも湧いたのだろう。

「そういやさんって二年になって引っ越してきたけど、その前は実家暮らし?」
「アパートに引っ越すまで叔父さんのとこに住んでたって聞いた」
「あー、……あの野菜の」
「知っとるんか」
「ん、まあな」

てっきり実家から大学に通うのが不便なのだと思っていたのだけれど、どうにもそうではないらしい。だって叔父さんの家はここからそう遠くはないし、そもそも実家ではなく叔父さんの家にいたということは、そちらの方が都合が良かったからのはず。何故わざわざアパートに引っ越す必要があっただろう。
柔らかく切り込まれてゆくというその人を俺はやはり遠ざけようとはしていなかった。そのままさんの寝顔を見つめていたら、ふと仁王の視線を感じて、俺は内心ぎくりとする。どういう意図を持っているのかは知らないが、たぶん彼は俺の反応を観察している。誤魔化すように今日はよく喋るな、と言うと、仁王がゆるく笑っていた。

「ブン太が知りたそうな顔しとるから」
「……俺が? んなことねえよ」
「ほーか、俺はてっきりに親近感でも覚えとるんかと思ったもんじゃから」
「何の話」
「わかっとるくせに。……は、」

痛っ、と仁王が小さく声を上げた。
突然途切れた話の中へ、プライバシーの侵害だ、とさんの声が割り込んだ。いつから聞いていたのか、彼女の足が布団から飛び出してその前に座っていた仁王の背中を蹴飛ばしている。さんはどちらかといえば礼を尽くすような、そういうタイプだと思っていたから、足癖の悪さに少しだけ面喰らう。いや、そういえばネギも投げてたっけ。大学生には見えない、子どもらしい感情の表現だ。まるで、ずっと止まっていた成長がようやく動き出したような。
別段取り乱したふうもなく、仁王は頭をかいて彼女の足を掴んでベッドの中へ追いやる。

「起きてたのか」
「起きてたよ、ずっと。……私が本当に寝たら二人とも帰るに帰れないでしょう。なのに聞いてたら個人情報ぺらぺら喋ってさ」
「大した話でもないやろうが。どうせブン太もそのうち知ることじゃ」

彼女のおかげで話は途切れたけれど、おそらく、仁王が言及しようとしたことは、彼女の話だけではなく、俺のことについてもだったのだと思う。だから『何』を言いかけたのかは考えるまでもなく分かったし、それが――仁王が俺に言おうとしていたことが――俺にとって図星であることも確かであることを知っている。だけど俺は気づかないふりをする。幸村君や真田がしたように、仁王は今更説教でも垂れるつもりだったのだろうか。俺は何も悪いことはしていないのに。

「個人情報の漏洩により丸井さんによくない印象を植え付けた気がする」
「いや、そんなことはねえけど、なんつうか、さんって仁王のこと蹴るのな」
「アアアアホラアアア」
「お前の自業自得やろうが。ちゅうかコイツに良い顔したって何もええことないぞ」
「そんなことないよ! 丸井さんは仁王の百万倍優しいし、素敵だし、ご飯美味しいし、ビーナス」
「え、何どんな猫かぶっとんのブン太」
「うるせえよ」

何、ビーナスって。猫なんてかぶっているつもりはないのだけれど、隣人という他人行儀の行方が彼女の中では優しさに落ち着いたのかもしれない。日ごろの行いの差だろ、と鼻で笑うと仁王の足が机の下で俺の足を蹴飛ばした。この二人は足癖が悪いな。
それから結局、俺達がさんの家を出たのは二十一時を回ってからだった。流石にあたりは暗くて、街灯がぼんやり道を照らしている。さんがきちんと施錠したのを確認して俺は隣の部屋のドアに手をかけた。じゃあまたな、と背中を向けたまま仁王へ告げようとする声を遮るように、のう、と彼の声。

「一つだけいいか」

やはり説教をするつもりなのか、どうやら逃す気はないらしい。気怠げに振り返って俺はしぶしぶ閉まりかけの扉を押さえる。

「やだ」
「残念。でも言うぞ」

言うんじゃん。だったら問う必要なんてないだろうに。どうぞ? と顎をしゃくって彼の言葉を促した。どこか梅雨の気配がするゆるやかな夜の風が俺の部屋の中へすり抜けて行く。たぶん今は緊張する場面なんだと思う。だけどこのやわらかい夜風がそうしているのか、存外俺は落ち着いていた。それは幸村君や真田の時も、そういえばそうだった気がする。

「お前は勘違いしてる」
「はは、何を?」
「お前とは似てたとしても同じじゃない」
「は?」
「止まっとんのはお前だけじゃ」
「突然何の話だよ」
「だから、分かっとるんじゃろ」

分かってる。何の話かは分かっている。でも、どうしてそんなことを言うのかは分からないのだ。
皆、同じことばかり言う。心配だともいう。
俺は誰にも迷惑なんてかけていないし、自分が何か辛い思いをしているわけでもない。確かに時折全部嫌になったり、無気力になったり、そういうことはあるけれど、それって学生には誰にでもあることだろう。よく分かんないけど、成長の狭間の葛藤ってやつ。
俺は昔とは違うし、以前持っていたものを失っていたりする。だけどそれは今考えれば淘汰だ。大人になること。止まっているのではない。俺は進んでいるのだ。


「ブン太はひどく臆病な人間になったね」


そう。不安になることはない。俺はちゃんと進んでいる、

……どこへ?







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