気づけばいつの間にかどろどろと夢の中の微睡みに誘われて、そうして気づけばいつの間にか朝だった。 ぽたん、と中途半端にしめられたキッチンの水道から、シンクへ放り出されたままの鍋の中へ雫が落ちる。俺は、昨日のまま床に転がったクッションや雑誌を蹴飛ばしながら緩い蛇口へ手を伸ばした。時刻は十時、よく寝た。目覚ましをかけていなかったとは言え、もう少し早く起きられると思っていたけれど、まあ、何にせよ本日の授業は三限からの一コマで、もともと出席するつもりもあまりなかったから構わない。 俺は水に浸かった鍋をざっと洗いながら、ふと昨晩のことを思い出していた。 結局、昨日はあの後仁王がアパートに姿を現わすことはなかった。さんの言う通り、ここには居辛いから帰ったようだ。でも、二人が飛び出して行ったあとどんな展開を迎えたのかなんて分からないけど、帰ってきたさんはさっぱりした顔をしていたし、あの感じからして、多分二人の溝が深くなったと言うことはないと思う。というか思いたい。 「つーかさんの例の知り合いって仁王だったのかよっていう」 てっきり女の子だと思っていたのに。それにしたってあの仁王。さんはともかくとしても、仁王は何を思って彼女とつるんでいたのだろう。彼女は悪い人ではないけれど、面倒か面倒でないかという話になれば間違いなく前者であって、仁王の嫌いなタイプのように思う。それに彼があんなふうに誰かに怒りを露にするところなんて滅多に見ないから、それだけ彼にとってさんの存在というのは特別ということ、……いやいやいや。それにしたって酷い言葉をかけられたと、さんは言っていたけど。もしかしたら、仁王には何か意図があってやっていることなのかもしれない。 鍋や皿の水をきって、俺は再びベッドへ身体を預けた。酒はあまり飲まなかったはずだけれど、何だか身体が重く感じる。だけど、授業を受けるにしたってまだ休む時間はあるから、もう少しこうしていても良いだろう。 スマホを開くと残りの電池がやっぱりギリギリだったから、電源につなげて、俺はそれからそっと目を閉じた。 仁王とあんなことがあった後だけれど、きっとさんは今日も大真面目に朝早くから学校に行って、大真面目に授業を聞いているに違いない。同じ学科だと言っていた気がするから、下手をしたら仁王と同じ授業を受けている可能性もある。それなのに学校なんて彼女はタフだ。……いや、タフ、とは、少し違う気もするけれど。昨晩の、仁王へ向けた瞳の怯えの色はどうにもタフな人間がするそれではなかったから。 「あーだり、」 心なしか再び重くなる瞼を擦ってみる。 色々とぐるぐる考えてはみたものの、今彼らがどんな状況なのかとか、どうすることが正しいのかとか、さっぱり掴めていない。とりあえず、昨日のことには部外者の俺はあまり触れない方が良いのだろうか。散々話は聞いていたけれど。 そんな鈍く働く思考の中で、俺の脳裏を過ぎったのは、薄暗い公園のベンチで小さくなる彼女の姿であった。 ずっと、彼女は俺に似ているような気がしていたけれど、あの時俺は確信した。似ているのではなく、この人は俺と同じだと。 「……だから余計放って置けないんだよな」 けれど関わりすぎると、きっとよくない方へ引きずり込まれてしまう。息ができなくなってしまいそうだ。それは、怖い。 天井へ向けて伸ばした手は、空を掴んでそのまま重力に振られて落ちた。 その後、俺はまたいつの間にか寝てしまっていたのだけれど、流石に大寝坊した後にまた何時間も寝られる程、睡眠欲は強いつもりはないので、きちんと三限が始まる前には目を覚まして、大真面目な顔をして講義には出席をした。 そうでもしないと静まり返った自分の隣の部屋に、罪悪感が募るような気がしたのである。 そうして帰宅した俺は特にやることもなく、まただからと言って出かける気も起きないから、課題のレポートに手をつけていた。 ふいに玄関の外で物音を聞いたのもそんなタイミングだった。 ふと視線をそちらへ向けた俺は、てっきりさんが帰宅したのだろうと思ったけれど、俺の部屋の前を通過したであろうその人が、扉を開ける音はしない。怪訝に思う直後、隣の扉のチャイムを鳴らす音がして、何故か俺の心臓が跳ねた。続けてノック。 さんを訪ねてくる人なんて珍しいから、キーボードを叩く指を宙に浮かせたまま俺は静止した。 宅配便、……にしては乱暴な扉の叩き方だし、レスポンスがないにも関わらずチャイムとノックを何度も何度も繰り返している。苛立っているようにも聞こえるノック。まるで中に本人がいると思い込んでいるみたいだ。外にいる誰かに「多分まだ彼女は学校ですよ」と教えてやっても良いのだが、いくら何でもたかだか隣人にそこまでしてやることないと俺は頭を振ってレポートに向き直った。しばらくすると続いていたノックの音は聞こえなくなったので、多分留守であることを察したのだろう。さんが帰ってきたら、誰かが訪ねてきていたことぐらいは伝えた方が良いのかもしれない。 静かになると一気にレポートは捗るようで、珍しく余裕を持って完成させたレポートのデータを鞄にしまい込んた。そうして、さて夕飯の準備でもするかと立ち上がった時だった。再び、あのノックの音がした。 「……また来たのかよ、」 あれから一時間半も経っていない。さんの講義が五限まであるなら、あと三十分は帰らない筈だ。しつこい。変な奴だったらどうしよう。ていうかこのままチャイムを鳴らされ続けても正直近所迷惑だし、止めた方が良いのではないか。少々怪訝に思い始めた俺は、薄く扉開けた。 「あの、さんはもう暫く帰って来ないと思い、」 「あ」 「え、あっ!」 201号室の扉にもたれかかるようにして、そこにしゃがみ込んでいたのは仁王だったのだ。彼は、俺の顔を見た途端、急に疲れが押し寄せてきたような表情になって頭を押さえた。「……隣がブン太なの普通に忘れとった」そんな馬鹿な。昨日までむしろさんがここに住んでることを知らなかった癖に。 「あーないわ」 「えなにまじで忘れてたの、ないわ」 「やかましい」 どうやら本当に失念していたらしい。そんなに焦ってでもいたのだろうか。そんなことより、さんと同じ学科の仁王がどうしてわざわざ彼女を訪ねてきたのだろう。学校で会えなかったのだろうか。あちこちから疑問が浮かぶ。だけどそれを仁王へ問う前に、彼はゆるゆると立ち上がると、俺が小さく開けた扉に自分の足と手を滑り込ませた。 「え、なになになに」 「お邪魔します」 「何ナチュラルに入ろうとしてんだよ、お邪魔すんな」 「なんで」 「今から絶賛夕飯の準備だわ」 「おん、食べる食べる」 「いやお前の分はねーよ」 「俺のも作ればええやろうが」 部屋に上げるか上げないかと入り口で謎の攻防があったものの、どうして彼がここにいたのかも気になっていたので、結局は俺が折れた。 とは言え我が物顔で仁王は早速、部屋で寛ぎ出す有様。仁王の足を蹴飛ばして俺も向かいに腰を下ろした。 「ブン太、茶は」 「お前なんであそこにいたの」 「茶は」 「うるせーよ」 「こちとらずっとも外で待機させられて喉カラカラなんじゃから労って欲しいもんぜよ」 「は? ずっとっていつから部屋の前にいたのお前」 「んー今日は三限終わりやから、五時前くらいからのう」 「じゃあなに、お前一回目どんどこした後からずっと家の前にいたの」 「どんどこって、ノックのことか」 「近所迷惑だぞあれ」 「あーそれはすまん」 俺は優しいから、お茶のペットボトルをコップに注いで出してやると、仁王はそれに口をつけて肩を竦めた。困ったように眉尻が下がる。すげえらしくない仁王。本当に申し訳なさそうな顔をされたら俺もどうして良いか分からなくなる。 そもそも、今日大学でたまたまさんに会わなかったとしても、仁王がそこまでして彼女に接触をしようとするなんて、もしかして彼女に何かあったのだろうか。 「ちゅうかブン太は何も聞いとらんの」 「何もって何だよ。聞いてるわけないだろ」 「ほーか」 「そんなこと言うならお前こそ学校で会ってねえの」 「あいつ今日は学校に来てないっぽい」 「うそ、どこいんの」 「多分そこ」 仁王の指が俺の部屋の壁を差した。恐らく、壁の向こうのさんの部屋のことなのだろうけど。釣られてやった視線を、元に戻した。でも、だってチャイムを鳴らしても出なかったではないか。彼は壁の方をじっと見つめたまま、しばらく動かなかった。「死んどるかも」やめろ。 「教授にあいつんこと聞いたら風邪って連絡入ってたらしい」 「じゃあ風邪じゃねーか」 「んー……」 「何、つまり仁王はさんが心配で心配で堪らなくなってわざわざ来たの。さんのこと飽きたのに?」 「……あいつぺらぺらと」 「さん傷ついてたぞ」 仁王は何も言わなかった。いつもの読めない表情のまま、そっぽを向いている。一見して冷たい奴だけど、訳もなく人を傷つけるようなことをする奴ではないことは俺がよく知っているから、俺も深く突っ込むことはやめた。代わりに、俺は大学の帰りに寄ってきたスーパーで買ったアクエリアスのボトルとか、ゼリーとか、冷蔵庫にあるものを適当に袋に詰めて玄関でサンダルを引っ掛けた。 「おら、行くぞ」 「どこに」 「さんの見舞い」 彼の視線が隣の部屋と、俺を行ったり来たりする。だけど彼は何も言わずにすぐに立ち上がったのだった。 仁王が待ちぼうけを食らっただけあって、さんの部屋のドアを何度か叩いてみたものの、反応はなかった。中で倒れていやしないだろうかと一抹の不安を抱えながら、仁王の横顔を伺うと、彼はひどく焦ったそうに眉を顰めて、扉を蹴飛ばしたので、思わずひゅっと息を吸い込む。 「おいこら聞こえてんのじゃろ。さっさと出んかい」 「やめろよ借金の取り立てみたいじゃねえか」 「いるんは分かっとるんじゃぞ」 自分で言うのも何だけど、俺の髪は赤いし、こいつの髪は銀色だし、その上こんな調子じゃ、はたから見たら間違いなく変な奴らだと思われる。それにさんだって、ビビって出てこねえよ。 俺は努めて穏やかな口調で彼女の名前を呼んだ時、玄関の扉がやけに重々しく開いた。中からは大き過ぎるマスクで顔の殆どが隠れたさんの顔が覗いた。スウェットに何枚も羽織を羽織って、瞼も重そうだ。具合が悪いことは一目瞭然で、無理に玄関を開けさせてしまったことを申し訳なく思う程に。やっぱり反応がなかったのは辛くて起き上がれなかったからなんだろう。めっちゃごめんさん。 「……まるいさん、っごほ、」 「仁王から具合が悪いって聞いてさ、大丈夫、……じゃ、なさそうだな」 「におう、……」 「うん」 「あの、うつしてしまうので、帰ってください……」 「え、でも」 「、昼飯食ったんか」 「きもちわるくてたべてない、」 「朝は」 「……。……では」 どうやら、今日はまだ何も口にしていないようだ。怒られると思ったのか、すす、と扉が閉まりかけたのはすぐに分かった。しかし仁王がそれを見逃さずにお得意の侵入術で、それを阻止して扉をこじ開ける。ただでさえ弱っているというのに、そんなさんが、仁王の力に対抗できる訳もなく、難なく扉は開いた。申し訳なく思いながらも仁王に続いて俺も玄関へ上がる。 「あああこまるよ、でていってよ」 弱々しく俺らを押し出そうとする彼女など知ったことかとでも言うように、仁王は自然に彼女を担ぐと、部屋の奥へ連れて行き、俺はそんな背中にやっぱり心配だったんだなと小さく笑う。乱暴な言葉を投げつけておいて、仁王の、彼女をベッドへ寝かせる手つきは丁寧だったから。 彼女の部屋は全体的に物が少なかった。生きるのに必要なものだけが整列している、というそんな具合に。女の子の部屋は、もっと可愛いクッションとか、置物とか、そういう物があると思ったのに、それとはどうにもかけ離れている。 「ブン太、このアホになんか作ってやってくれんか」 「ん、ああ、オッケ」 「まるいさんかたじけない、」 「いーよ」 「俺にも言うことあるじゃろ」 「だって、仁王は借金取りみたいでこわかったし、」 「はは、言われてるし」 「お前さんが俺に会いたくないとかで休んだのかと思ったんじゃいアホ」 「……そ、そんなことしないよ」 布団の中へ顔を隠したさんを一瞥してから、自分の家から持ってきた材料をざらっとキッチンに並べていく。しっかり料理ができるようなものは持ってきていない。確認させてもらった限りでは、冷蔵庫の中も、あまり使えそうなものはないようだ。ただ調味料はかなり揃っているみたいだし、口に入れやすいスープでも作ろうと思う、けど。……仁王とさんを二人にした方が良いなら、自分の家で作ってきた方が良いのかもしれない。さんの苦しそうな呼吸音だけが響く薄暗い部屋の中で、彼らの方へ振り返ろうとすると、仁王は殊の外すぐ後ろにいたから、俺はどきりとした。「材料足りんかったら買ってくる」なんて、俺が出て行こうとしたのに、自分がいなくなろうとしている。 「いや、それなら俺が、」 「看病はお前さんのが適任じゃ」 とんと、キッチンの方へ押しやられて、俺はさんの方を見やった。きっと残ったら余計なことを聞いてしまいそうな気がして、だけど、俺の足はどういうわけか動かなかった。じゃあ、これ、と仁王に買うものの走り書きを渡して、俺は彼の背中が玄関の向こうに見えなくなるまで見送った。 取り残された俺は、彼が帰ってくるまで、俺がキッチンで出来ることはないので持ってきたアクエリアスを彼女に渡してやる。熱っぽい手がペットボトルを掴んで、俺を見つめたので、朝から今の今まで具合が悪いことに気づいてやれなかったことを申し訳なく感じた。そんな俺の渋い顔に何を思ったのか、布団で顔の半分まで覆いながら、彼女が俺を呼んだ。 「あの、迷惑をかけてごめんなさい」 「ん? 別に俺らが勝手に上がりこんだんだし気にしなくて良いって」 ベッドのそばに座り込んで、彼女に柔らかく笑いかける。ぼんやり天井を見上げた彼女の横顔を見ていると、「たぶん、」とマスクで少しくぐもった声がする。 「仁王とふつうに話せて気が抜けたんだと思う。わたし、いつもこうなので」 「……昨日、何があったか聞いて良い?」 「仁王に怒られた。欲張れないわたしに、仁王がアホって」 「うん」 「わたし、ほんとは怖いくらい欲張りなのに、口に出せなくて、きっと、仁王はそんな私の背中をずっと押していてくれたのかもしれない。でも、友達には、ならないって言われちゃったけど」 苦笑気味にさんは言った。真っ白な天井に向かって、彼女の手が伸びる。ぐ、と何かを掴んだみたいに、空で拳を作って、彼女はそれを大事そうに胸に戻した。 「仁王曰く、私は自分が思うより、どうやらきちんと人間だったらしい」 知ってる、と胸の中で返した。彼女は誰よりも素直に人間らしい。 丸い瞳がこちらを向いて、その中に俺を捉える。以前のように、迷ったり、不安を抱えた色はないようだった。 「すっきりしたよ。つきものが落ちたみたい」 さんはそう言って、笑った。 「でも、仁王にはまだ言いたいことがあったの。それが何かはわからなかった。感情としては胸にあったけど言葉にならなくて、だからまだ何も言わなかった。だからちゃんとこの気持ちの正体を掴んで、私が言いたいことを見つけないといけないなって、一晩考えて、考えて」 「熱が出たのか」 「うん。きっとそう」 やっぱり、二人の溝は深くなっていないようで、安心した。俺のせいで仲違いしたなんてことになったら、どう責任を取ればよいか分からない。 だけど、それと同時に、胸の底に俺は確かにひっかかりを覚えた。ひたむきに自分の感情に向き合おうとする彼女を、素直に喜べない俺がいるようだった。 「そういうのは焦らなくても、きっと本当に必要なときに言葉になる」 俺の台詞に、彼女が不思議そうにこちらを見た。 「俺はさんはそのままだって十分だって思うぜ。確かに直すべきところはあるのかもしれないけど、焦らなくたって、良いんだよ」 「そうかな」 「おう」 俺は何を言っているんだろうと、勝手に喋り出す自分に、まるで他人事のように、俺の中のもう一人が問うた。きっと俺は彼女に良くないことを言っている。だけど、俺の中にはそれを止めようとする心はどこにもいなかった。いや、きっといても、見つからないくらいに、奥に眠ってしまっている。 。 ああ、どうやら俺は、彼女に器用に生きてほしくないと思ったらしい。 ( 180330 加筆修正 ) ( 151228 ) |