「は、鍋パーティー?」 「まあ、パーティーっていう程のもんじゃねえけど、一緒に飯食おうぜっていう」 「はあ」 丸井さんとその話をしたのが三日程前になる。彼と校内で会う唯一の機会と言えるフランス語の講義で、私は丸井さんにつられて相変わらず後ろの席に座っていた。あの夜の話は、あれから互いに触れてない。仁王とも、姿は見かけはすれど話はしていなかった。 講義の開始の鐘が鳴っても現れぬ講師を何とも思わないように、休み時間と変わらぬまま騒がしい講義室。唐突な丸井さんの話を私はうっかり聞き落としそうになった。 彼にはことあるごとに夕飯をご馳走してもらっていたので、パーティーなんて、改まって誘われるのも変な話だ。「どうして?」と訊くと、彼は困った顔をしてひと唸りする。 「なんとなく?」 「へえ」 「まあ俺の友達も来るから、無理にとは言わないけどな」 「私人見知りなんだよ」 「それは何となく分かってた。んーと、三人くらい野郎が来ます」 「ウワア左様か」 「じゃあさん人見知り克服大作戦にしようぜ」 「大変不本意な作戦」 きっと丸井さんのお友達だから皆良い人ばかりなんだろうけれど、見ず知らずの人と鍋を囲むのは敷居が高い。お隣さんだから、下手な嘘をついて断ることもできないだろう。 返事を渋る私に、丸井さんが「本当に無理そうなら途中で抜けても良いし」と私の顔色を伺った。気持ちはありがたいけれど、何故そこまで私を気にかけるのかが、また謎だ。お友達の輪の中に他人の私が入りこんだって、丸井さんも、お友達も楽しくないだろう。 ノートの隅に意味もなくぐりぐりと丸を書く。どうしようかな、ううん。きっと、きっと皆でわいわい鍋なんて囲んだら、私は辛い気持ちになるんじゃないかな。人見知りとか、そんなふうではなくて、こうやって集まれる友達がいる丸井さんが羨ましくて。 「うまいもん食べたら元気出るし」 その台詞で、私は彼の意図に気づいた。公園で会ったあの日から、やけに声をかけてくると思ったら、成る程、そういうことか。一応、彼は私を気にかけてくれていると、多分、そう思って良いのだろう。人が良いなとも思う。純粋すぎる好意であることに気づいて、だから正直、知らない人達の中へ身を投じるのは心配だったけれど、気付いたら私は行きますと簡潔に答えていた。 ところで鍋パーティーをするにあたって、買い物が必要になる訳だが、丸井さんのお友達が来ると言うことで、材料は被らないように買わねばならない。丸井さんは「肉、肉だけでオッケー」とか言っていたけれど、あの顔だと多分他の人にも同じようなことを言っているに違いない。 アクだらけの鍋になりそう。 料理上手な丸井さんのことだから、バランスは考えているんじゃないかとも思ったけど、念のため葉物も買おくに越したことはない。 丸井さんとの約束の時間は6時で、その日は講義も早く切りあがったから、アパートからは少し遠いスーパーへ出かけることにした。普段面倒がってあまり買い物に出かけないタチなのでここぞとばかりにものを買い込んでしまった。だから帰宅にも少々時間がかかって、私がアパートに帰る頃には、丸井さんの部屋からは楽しげな話し声が壁越しに届いた。集合時間にはまだ早いけれど、多分お友達がもう集まって来ているのかもしれない。 「丸井さん、です」 買ったものを簡単に片付けてから、必要なものだけビニールに詰めて隣のインターホンを鳴らした。すぐに足音が聞こえて、扉が開く。玄関の光が足元を照らして、丸井さんが「入って入って」と柔らかく笑って私を迎えたから、少し緊張していた気持ちがほぐれていく気がした。 「つうか、肉だけで良いって言ったのにこんな買ってきてくれたのかよ。悪いな」 「いや、肉オンリーの鍋になりそうな気がして」 「その予想結構当たってる」 「……まじか」 「ま、これで野菜も揃ったわけだしノープロだろい」 「うん、良かったよ……」 力なく頷くと、丸井さんがさりげなく私の手からスーパーの袋を取って行った。彼はよく気が回る。 玄関に並んだ靴はやっぱりいかにも男の子らしいそればかりだった。女の子の期待はしていなかったけど、本当に男の子しかいないのか、と思う。言われた通りそこには丸井さんのもの含めて靴が4つある。そのうちの一つだけ脱ぎ散らかしているものがあったので、自分のパンプスを揃えるついでにそれをそっと直すと「赤也靴揃えろっつったろ」と後ろから見ていたらしい丸井さんが部屋の奥へ怒鳴ったので、私は心配になってもう一度自分の靴を確認した。うん、きちんとしてる。 丸井さんは私にスリッパを出しながら、怒鳴った調子とはがらりと変わって「なんだかんだで皆良い奴だから心配しなくても大丈夫」とこっそり呟いた。「多分ジャッカルとは気があうんじゃねえの」と。それを聞いて人見知り以前に丸井さんには外国人の友達がいるのかと驚いてしまう。 じゃっかる。 想像以上に丸井さんはグローバルだったらしい。マイネーム、イズ、、アイライク、スシ、とすっかり使い物なりそうにない英語の確認をしながら、私は丸井さんに続いた。 「おーい、話してた隣の部屋の女の子が来たぞ」 「どうも。私、、……」 「あ」 「えっ」 頭を下げかけた私の視界には、小さなテーブルにミニコンロに設置されたお鍋とそれを囲む三人の男の子。一人は煮卵みたいにつるんとした頭の男の子で、その子がジャッカルであることはすぐに分かった。問題はそこではない。そのうちの二人は、とりわけ一人は私のとても良く知る人物であったことだ。 「え、丸井先輩のお隣さんってあんただったんだ」 「は、何赤也知り合い?」 「まあちょっと」 まず声を上げたのは、ついこの間保健室であった一年生の男の子で、名前は、忘れてしまった。丸井さんが赤也と言っているから、赤也君なんだろうけど。それから、初めこそ少し驚いたふうだったけれど、すっかりすました顔で丸井さんの隣に並ぶ私を見つめる仁王がそこにはいた。どういう運命の悪戯か、彼の視線に心臓がぎゅ、と押し潰されそうになる。丸井さんの横顔を盗み見ると彼は本当に意図していなかったことらい。神様って意地悪だ。じりじりと無意識に後退りする足をきちんと床につけて、私はスカートの裾を握りしめた。 「わたし、帰ります」 「え、なに、なんで」 「あー、丸井先輩、この人仁王先輩の彼女なんスよ。知らないんスか」 「……まじ」 「ちが、ちがうよ」 「俺二人が一緒にいるのよく見てましたもん」 得意げに語る赤也君と、置いてきぼりの他の皆。彼が私を知っていたのも、私ときっとまたいつか会うと思ったのも、全部私と仁王が知り合いだと分かっていたからだ。ていうかこの人達は一体どういう繋がりなんだろう。学科だって学年だって違うのに。当たり前だけれど、幸村精市とか、彼らとか、私が知らないところで彼の拠り所がやっぱりたくさんあったんだなと、彼を自分と同じはみ出しものだと重ねていたことに改めて恥ずかしくなった。 「……でも何か、……。ええとさんって、本当に仁王の彼女?」 「知らん」 「……」 「こんな奴俺は知らん」 「え」 「同じ学科にいたような気はするけど」 つん、と鼻が痛くなる。ないことにされた。私の存在、全部ないことにされた。 友達ごっこは止めようと言ったのは私だけど、しようがないって思う自分の他に、許せないとか、納得できないっていうもっと大きな気持ちがあって、痛みが喉のすぐそこまで出かかっていた。 すごく、すごく、かなしい。 しんとした部屋の中で、先に勝手に煮え立ったお湯がぶくぶく湯気を出して空気を湿らせている。隣にいた丸井さんは、このやり取りで、私の悩みの種であった友達になりたい人というのが、仁王であると、察したらしい。私の腕をそっと掴んでやおら自分の後ろへ引こうとしたけれど、頭の中までぼんやりさせていきそうな温度に、私は彼の腕を振りほどいていた。 「……仁王のあほ」 「……」 「ばか!」 「さん、」 「仁王なんていなくなれば良い!」 続けざまに酷いことを言った。言いようのない怒りがついに口から零れて、丸井さんがすぐに私を窘めようとしたけれど、私は止まらなかったし、止まれなかった。彼の手のスーパーの袋からネギをひったくるとそれを力一杯仁王へと投げつけたのである。 「喰らえネギ!」 「あぶな、」 赤也君が首を竦めた。ネギが床に転がっていく。腕でそれを弾いた仁王が私をぎっと睨みつけた。今まで黙って行き先を見守っていた外国人のジャッカルが「おい、やめろって……」とようやく口を開く。日本語だ。 ネギを丸井さんに突っ返して立ち上がる仁王に、瞬間的に私は殺されると思った。瞳の奥がひどく静かな癖に、視線は刺すように鋭い。丸井さんも赤也君も流石にやばいと思ったのか、(むしろこの人達にやばいと思わせるくらいのことをしてしまったと思ったら冷や汗が噴き出す思いがした)止めに入ろうとしたけど、「お前さんらはすっこんどれ」なんて、今までに聞いたことがないくらいの仁王の乱暴な声が飛んで、心臓が鷲掴まれたみたいな気持ちになった。 「わたしかえる、」 「待たんかい」 「や、」 パーカーのフードを掴まれて、私はもうだめだと思った。一時の感情で大きな選択ミスをした。どうしようもないので私はパーカーを脱いで仁王の手から逃れる。スリッパも放り出して玄関へ駆け出した。体当たりするみたいにドアに飛びついてめいいっぱいノブを押した。 まるで堰き止められていたように入り口から風が吹き込んで、湿度に満たされた空気を攫っていく。意を決して息を吸い込むと私は靴を適当に引っ掛けてアパートを飛び出していった。踵が収まっていない靴をぱこぱこ揺らして、走り方もおぼつかないまま、どこかへ逃げて行こうとした。けれど、靴が脱げてしばらく走ったあと、その場に倒れこんだ。 すぐ後ろから足音がして、私の頭の横で誰かの足が止まる。 「あほ」 「におう」 「それ俺ん靴じゃ、あほ」 体を起こして足へ目をやると、確かに私の足に収まっているのはお気に入りのブラウンのパンプスではなく、いかつい黒のスニーカーだった。道理で走りづらかったわけだ。じゃあ彼は一体、と思えば彼もまたちょっとゆるそうなスニーカーを履いていたのであそこにいた誰かのものなのだと思う。仁王に腕を引き上げられて、ふらふらと立ち上がると「殺さないで」と私は呟いた。頭を叩かれた。 「俺があほ? お前さんのがあほで間抜けでどーしようもない」 「……わかってる」 「わかってない」 逃げられないようにがっちり腕を掴まれて、私は俯向くことしかできなかった。言うなれば最後の抵抗だった。足元のぶかぶかの靴が私の情けなさを助長させてる。 仁王はきっとこんな私とよろしくやるつもりな微塵もないのだろうから、今から何を言われるのだろうと足がすくんだ。 「何でネギ投げたん」 「……かぜに良いから」 「ぶっ飛ばすぞ」 「ひえ、」 「言うことあるじゃろ」 「……ごめんなさい」 「ん」 「いなくなれって言って、ごめん」 「……」 「……仁王にはいなくなってほしくないのである」 「友達ごっこやめたいって言うたんはお前さんじゃ」 「……そうだけど」 そうだけど。でも、本当は、ちゃんとした友達になりたかったんだ。欲張るのが怖かったから、声は出なかったけど、離れていく仁王に待ってって、叫びたかった。だから心の中だけでは、ずっと叫んでいた。そんなのは自分勝手だって分かっていたけど。ぱた、と視界をにじませていた涙がアスファルトに落ちてそこが黒く濡れる。 「わたしは仁王とちゃんとした友達になりたかったの」 「ほー」 「でもわたしつまんない人間だから、できそこないだから、やだって言われたらどうしよって、怖くて」 「俺がどう思っとるかなんて何もわかっとらんくせによく言う」 顔を上げた先の仁王はこちらを向いていなかった。明後日の方向を向いて、なんだか渋い顔をしている。あーもー、なんて、そう言いたそうである。 「そんなに俺なんかと友達になりたいんか」 「なり、たい」 「変な奴」 「それでもいい」 ふーん。仁王の中途半端な返事。それがどんな意味を示してるのかなんて、察しの悪い私に分かるはずもなく、仁王の次の言葉を待っていると、彼が横目で私を一瞥した。いつの間にか、幾分か柔らかい光を宿していたように見えたのは、私の都合のいい妄想だろうか。 「俺は、」 「……うん、」 「の本音を聞いてみたかった」 「は……」 「お前さんは重要なことは何も言わない。見てると焦れったいから、どうにかしてやろうって思った」 「どうにかって、なに、……なんで、」 「春だから」 新しいことしたくなって。 気の抜けるような回答だった。涙なんて全部引っ込んでしまうくらい。頭をかいた仁王は「俺も春に浮かされとったみたいぜよ」 と零した。 まるで、こんなはずじゃなかったと、そう言いたげに。 よく分からないけど、仁王は、私が一歩を踏み出せるようにってわざと突き放していたって、そういうことなのだろうか。春だから、そういうことがしたくなって。うん、全然意味がわからない。 「人間らしいとこ、ちゃんとあるな」 仁王はそう言って、私の頭を乱暴に撫でた。痛いけど、優しい。胸がじんわりする。 彼は本当は私を嫌ってはいなかったと思っても良いのだろうか。それなら、私は願っても良いのだろうか。 じゃあ、私と、… 「私と友達に、」 「なるかあほう」 「えっ」 「群れるなんて面倒なだけなのにこれ以上簡単にほいほい友達になってたまるかい」 「……左様か」 期待して損をした。それから仁王は、何を思ったか唐突にその場にしゃがんで、私の足を掴むと「靴脱げ」と爪先を叩いた。代わりに彼の履いていた、私にはさらにぶかぶかの靴をよこされて、黙ってそれに足を入れる。「俺はもう帰る」そういうことらしい。 「え、友達の話は、」 「知るか」 「じゃあ、鍋は如何なさるおつもりか」 「こんな状況であそこに帰れるかい」 「荷物は」 「もともとポケットの財布だけじゃ」 「な、なるほど……」 じゃあそのまま帰れますね。なんだかやることはすべて終えましたみたいな、さっぱりした顔で仁王はいきなり踵を返した。「じゃ」と言われて、また明日なんて釣られて返す。また明日? 明日もこうやって仁王とお喋りしていいんだろうか。え、本当に? 友達じゃないのに? じゃあ仁王と友達になるにはどうしたら?? 「に、仁王!」 「お前さんがきちんと友達の作り方が分かったら考えてやってもええぜよ」 彼には私の言いたいことがお見通しのようだ。ゆるく背中を丸めて、ゆったりした足取りで帰って行った。私は仁王の姿が見えなくなるまでそこにいた。何だかなあと思った。 あとはこの靴を返さなくてはいけないので足をぱこぱこ言わせながらアパートの丸井さんの部屋まで引き返すことにした。 部屋に帰ると、すでに鍋は始まっているらしく、腹の空くような匂いがして、ジャッカルが私の顔を見るなり申し訳なさそうに箸を置いていた。別に先に食べていても構わないのに。 「さんおかえり」丸井さんが言った。 「あの感じだと大丈夫とは思うけど仁王と仲直りしたの?」 「……分らない」 「つまり友達にはなれなかったのか?」 多分私用の皿なんだと思うが、きっと私がもう鍋を食べると思って肉をその皿へ引き上げながら丸井さんが問うので、正直に、なれなかった、と零すと、彼はへえ仁王って面倒くさいなと丸井さんは大真面目な顔をして山盛りに肉や野菜を装った皿を私へ突き出した。 うん、よくわからないし、面倒くさい。なんだかんだで結局状態は何も変わらなかったのだから。 「でも、言うほど哀しくはないんだ。不思議だね」 ( 180330 加筆修正 ) ( 151207 ) |