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スマホの電池があと五パーセント。家まではあと五、六分。
今日は学校が終わってからはずっとバイトをしていたから、スマホなんて弄る時間は無かったのに、いつの間にか充電が瀕死を決め込んでいる。確かもう二年くらいは使っているからそろそろこのスマホも替え時かなと思う。時刻は既に二十三時を回っており、人はもちろん車の通りもなく辺りの街灯も心許ない。どうせすぐ使えなくなるのでスマホをポケットに滑り込ませて、俺は先程コンビニで買ったピザまんにかぶりついた。バイトの休憩中に夕飯は済ませたとは言え、軽くつまむ程度だし、この時間じゃあ腹も減る。

「んーまい」

ぺろ、と唇を舐める。さんがいたら『太りますよ』とか言われそう、と俺は苦笑しつつ夜食を買いに出かけた時のことを思い出していると、丁度あの野良犬が住み着いている公園に差し掛かった。
確かタマとか、名前つけたっけ。
実は今にも死にそうなあの犬を見つけてしばらく餌をあげていたのは俺だった。大家さんが、餌をやるなとかアパートに連れ込むなとか呼びかけをしていた時はちょっとヒヤッとしたけど、タマがここに住み着くようになってからはもう近所の子供達とか、爺ちゃん婆ちゃん達が可愛がって餌をやっているのを見かけたので、大家さんのこともある手前、俺はそんなに頻繁には世話を焼かなくなった。
ふらりと吸い込まれるように、足は公園へ方向転換。例の草の茂みを掻き分けると、そこにはタマの姿はなかった。

「あれ?」

そばにあった皿の中にはもう餌はない。餌を探しに出たのだろうか。毎日のように子供達が可愛がっていたのだから、飯に関しては事欠かないと思っていたのに。
がさがさと草を掻き分けたり周りを見回してもやっぱりタマの姿は見えなくて、もしかして誰かに拾われたのだろうかと俺が顔を上げた時だった。草の垣根の向こうにあるベンチの向こうに誰かが座っている背中が見えて、俺はどきっと心臓を飛びあがらせた。
こんな時間に、誰かがベンチに座っている。しかも何だか蹲っているような形で。後ろ姿から、多分女の人だと思って、いかにもじゃねえか! と心の中でツッコミを入れる。
どうしよう、まじでどうしよう。声をかけるべきか、それとも無視をするべきか。つうか、そもそも他人なんだから声をかける必要性とかないだろ。いや、でも……。そんなふうに悶々とし始めてしまえば終着点が見えないわけで、ひとまず襲いかかられても回避ができるくらいの距離まで近づいてみることにした。
じりじりと、なるべく足音を立てないように、女の様子を伺うと、俺の気配に気づいたのか、女が顔を上げた。俺は息を呑んでピタッと動きを止めた。

「……丸井、さん」
「えっ」
「……丸井さんでしょ」
さん?」

幽霊じゃないかと、半ば心配していたベンチの女性はなんとアパートの隣の部屋に住むさんだった。彼女の瞳は虚ろで、声にも覇気がない。そもそも、彼女が大学に持っていく鞄が横に置いてあるから、もしかしたら学校が終わってから今まで家に帰ってないのだろうか。もしや飲み会にでも参加していたとか。いや、でもそういうタイプには見えないし、多分まだ飲める年齢でもないと思う。

「……どうも、こんばんは」
「どうもって、……こんな時間に何してんだよ」

まさかアパートの鍵でも失くしたのだろうか。それなら大家さんに言うか、何なら自分に連絡をくれても良かったのに、と思ったところでそういえば連絡先交換していなかったことを思い出す。
さんは、どの質問にも答えないまま、ぼんやり暗闇の向こうを見つめて、「タマ、いなくなっちゃったね」と呟いた。

「もしかして、あいつを見に来たのか」
「まあ半分は」
「半分、……ていうかいつからいたんだよ」

彼女はベンチからちっとも立ち上がる気配がないので、しようがなく隣に腰を下ろす。さんは、しばらくの間の後、大学が終わってからずっと、と答えた。

「それってつまり五時間近くここにいるってこと?」
「時間を見ていないからわからない」
「もう少しで日付が変わる」
「そう」

いくら五月とは言え、今日は朝から少し涼しすぎるような気温だったから、長時間いたら身体が冷えてしまうのではないだろうか。

さん、夕飯は?」
「……」
「食べてないなら、丁度コンビニで買ったやつが」
「いらない」

ふるふると首を振る彼女は俺を遠ざけるように押し退けようとする。放っておいてほしいと、まるでそう言っているみたいだ。

「……どうしたんだよ」
「内緒」
「アパート、帰ろう」
「帰らない」
「なんで」
「昔は叱られるとよく反省しろって、家の外に放り出されたの。だから、こうやって外で頭を冷やしてる」

つまり、何かに反省をしているから、気がすむまで家には帰りたくないということらしい。
学校には普通に行ったというから、今日の学校で何かがあったのだろうか。ピンときたのは、彼女が友達になりたいと言っていた奴のことだ。

さんは学校に行くたびに哀しそうな顔して帰ってくんのな」
「ごめんなさい」
「いいよ、別に。どうせ原因はひとつだろい」
「……」

無言はきっと肯定ということ。
ふう、と息を吐いて、そう、と頷いた俺は空を見上げた。
星座は詳しくない。どの星も弱々しく光っているだけで、興味もわかない。

「友達ごっこ、やめることにした」

と、さんは切り出した。
隠しても無駄だと思ったのかもしれない。俺は先を促すように、うん、と一度だけ頷いた。

「向こうもね、飽きたんだって。こうなることは見越していたの。だから、本当の友達ではなかったのだし、別に構わなかった。初めは、構わないと思ってた」
「でも哀しかった」
「そう。おかしいよね」

さんの横顔はとても真剣だった。心から不思議がっているようにも見えた。
さんと出会ってから二カ月やそれくらいだし、その期間で話した回数とか言ったらそれこそたかが知れてるけれど、彼女は悪い人ではないと、思う。むしろ、多分、良い人だ。ただ、彼女には幼少期にいつの間にか備わっているような人との関わりのあれこれが欠落しているように感じることがある。

「私はいつもこうなの。誰かと関わろうとすると、哀しいことばかり起こる。人と関わるのは怖い。だけど、一人はもっと怖い」
「うん」
「だから苦しくならないように、誰も私の中には入れないようにしていたんだよ。だけどいつの間にか扉が開いてたのかな。今ひどく苦しい。誰かと関わるといつもうまくいかない。気づいたら、もう怖くてどこにも行けない」

さんは再び膝に顔を埋めた。
静まり返る夜の公園。遠くの方から電車の音が聞こえる。誕生日に彼女に連れ出されて、電車に乗った時のことが脳裏を過ぎった。
彼女は人と関わることを恐れながら本質的に誰かを求めている。もしそうでないから、誕生日のときのように、ベランダで魔法の呪文を唱えたときのように、彼女が俺と関わろうとさえしないはずだ。

「皆はどうやって生きてるんだろう。どうして皆にできて、私にはできないの」

彼女の本質はとても人間らしい。けれど、きっと彼女は考えることを放棄している。
自分が傷つくことを見越して、全て自分の中に入る前に鍵をかけて、自分の気持ちも外に出さないようにしている。
社会を自分の中に取り入れて、思考して、それを自分の外に出す。これを繰り返して俺たちは社会を生きているけれど、彼女はたぶん、そうではない。

「そんなに嫌なら逃げ出すか」

ぽつりとこぼした言葉は存外しっかりした音を持って夜の公園に響いた。自分でどきりとした。どうして、こんなことを言ったのかわからない。
さんの顔が持ち上がる。「どこへ」と彼女は尋ねた。

「どこか、美味しいものがたくさんあるところ」
「なにそれ」
「美味しいもん食べたら、元気になる」

苦し紛れに、思いついた言葉を言うと、さんがかすかに笑ったのがわかった。

「じゃあ丸井さんの家だね。いつも美味しそうな匂いがする」

ぎゅ、と胸が痛む。この痛みはなんだろう。女の子の哀しみを取り去ってやれない悔しさだろうか、逃げ出す場所がこんなにも近くにあるのに、助けてやれないことだろうか。
さんの頭をぐしゃりと撫でると、彼女は唇を噛み締めて俺を見た。

「本当は言いたかったんだ。振りじゃなくて、きちんと友達になりたいよって」
「わかってる」

ちらちら光る街灯と同じくらい、覚束ないその声が夜の闇に消えた。

「ちゃんとわかってる」

人間は一人では生きていけない。生きるために、いつだって、環境も社会も、何もかも合理化を求めながら結局自分達で複雑にして、他人と干渉し合って、最早この場所から抜け出せなくなっている。

だけど、
だけど彼女は、――俺と彼女は、他の人間よりも、とりわけそうに違いないのだろう。






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