最悪のコンディションだった。いや、決してコンディションだけの問題ではないのだけれど、差し当たって今の気持ちを簡潔に表すならば「最悪」だ。鞄の中の三枚の小テストに走り書きされた点数はどれも芳しくない。 まず一つに、今日の私は完全に睡眠不足というやつだった。コンビニなんて寄って浮かれていた昨日の私は帰宅してからというもの目がすっかり冴えて、まるで眠れなかった。丸井さんのせいだとこっそり心の中で思った。言わないけど。 それから大学に来るとやっぱり仁王のことが頭を過って心がたちまち慌ただしくなる。彼とは多くの同じ授業を受けているわけだからしようがないと分かってはいるのだけれど、集中が出来ないのだ。 だけど、一番の原因はテストの存在をまるで忘れていたということ。しかも二限から五限まで全ての科目がそうであった。どうやら丸井さんは準備ばっちりだったようだけれど。 語学で隣に座る丸井さんのペンの動きは軽快だった。ていうか、せめてフラ語のテストのことを昨日少しでも話題に出してくれればこんなことにはならなかったのに。 やっぱり心の中だけででも丸井さんの所為にしたい。 「……こんな酷い点数はとったことがないよ」 哀しくなって小テストで飛行機を作った。よく飛ぶそれの作り方は知らないので、半分に折って角を少しめくり返す在り来たりなやつ。飛ばすつもりはなかったけど、それは突然背中にぶつかった風に煽られてひゅんと舞い上がった。 「まじか」 紙飛行機は昨日丸井さんと寄った公園の方に飛んで行き垣根の向こうへ滑り込んで行く。 公園は夕暮れ色に染め上げられて、遊び疲れた子供や、その母親達で賑わっていた。その中に小走りに割り込んで行く私の心臓は「なんか紙飛行機とんできた」という男の子の声にびくりと跳ねた。声の方へ振り返る。 「だれの?」 「わかんね。でも何かこの名前知ってるような」 「少年、それは私のなんだ。申し訳ないけど返して欲しい」 飛行機を拾い上げたらしい少年が、まん丸の目で私を見上げた。その子を私は知っていた。少年も私を覚えていたようで、彼の口が「あ」という声を漏らす。 「エンドウ女」 「エンドウ女ってお待ちよ、私のアイデンティティにする程エンドウ出てたか」 「つうかこれお前のテストかよ頭悪っ」 「華麗に流されたという」 先日叔父の畑で出会った少年は、やっぱり弟をそばに連れていた。弟君の方は紙袋を抱えて私をじいっと見上げていた。何だろうこの紙袋。洋服みたいなのが沢山入っているように見える。 ふとそんなふうにして紙袋へ移った私の意識は目の前にちらつかされた自分のテストにすぐに戻った。 「あ、返してくれますかそれ」 「こんな低空飛行な点数恥ずかしいもんな」 「いつもはもう少しマシな点数を取るんだけれどもね」 「ふーん」 「はい信じてないやつですね分かります」 別に良いけどね、君にどう思われようと、大学の成績にはまるで影響しないから。彼の手から三枚をすっと抜き取ると手早く折りたたんで鞄の中へそれを押し込んだ。兄君はもう少し私をからかおうと思っていたらしくって、テストを抜き取られたことに一瞬不服そうな顔をして見せたけれど、私はもちろん動じない。 そのうち、いつの間にか公園の賑やかな声は夕暮れの道に遠ざかって行って、その場にいるのは私とこの兄弟くらいになっていた。「ていうかさあ、何であんたがここにいるの」と出し抜けに兄君の方が口を開く。 「何で、と言われても大学の帰路としか言いようがないですが」 「じゃあまさかあんたあのアパートに住んでるとか?」 「あんたじゃなくてさんだよ」 「」 「うん良いけどね、ハナから期待してないし」 「あそこに住んでるのかって聞いてるんだけど」 「住んでるよ」 ここから少し先に見える四階建てアパートを指差す彼に今度は素直に頷いてやると、弟君の方が「お兄ちゃんと一緒だあ」なんて私を見上げた。へえ、君らのお兄ちゃんもあのアパートなの。では大学も立海大ということだろうか。 「じゃあ君のその紙袋は兄殿のお届け物ですかな」 「そう。ぶんにいの服」 「ぶんにーがね帰ってくるのね、待ってるの」 「左様か。それはご苦労様で、……んん、あれ? ぶんにいって、」 先日会った時も、彼らは兄殿のことをぶんにいと呼んでいたが、改めて聞くと何だか引っかかる名前だ。私と同じアパートで、ぶんにいって、それまさか。と私にはその兄殿が誰であるか何となく思い当たる節があって、ふとアパートの、自分の隣の部屋のベランダの方へ目をやった時、兄君の方が、私の服を遠慮のない力で引いた。何だか気を引くようなちょっと乱暴な力だ。どうしたどうした。 「なー、今日は何かお菓子持ってないの」 「君はいつも誰かにそうなのか」 「お腹すいた」 「……あのね、そんなにいつでも食べ物を持ってるわけじゃあ、……ん」 お腹をぐるぐる撫でながらヤイヤイ騒ぐ兄君を諭そうとしながらも、私の左手は一応鞄の中を探っていた。甘やかすのはいけないぞ、と心の中の自分が自身をたしなめるが、葛藤が起こる前に、昨晩丸井さんに釣られて買ったナントカレンジャーのウエハースを鞄に入れていたことを思い出して、そこで私は言葉を止めた。「何かあるってよ」と弟君を振り返る兄君。 まだあるなんて言ってないよ。あるけど。 どうせ自分で食べるためというより、成り行きで買ったものだから、あげたって構わない。鞄からヒーローレッドの写真がプリントされた袋を取り出すと、弟君の目がきらりと光った。 「ニンニンジャーウエハースだ……っ」 「にんにん……、……そうか、今のヒーローはニンニンジャーと言うのか」 「あけていい?」 「良いよ。中のカードもあげる」 「お前なんでニンニンジャーのお菓子持ってんの」 「ああ、それは、」 お隣の人の付き合いで、と答えようとした私の声は、「きばおにげんげつだ!」と興奮気味の声が飛んで掻き消された。兄君が振り返る。「本当だ、幻月じゃん。良かったな」どうやら当たりのカードらしい。背景が虹色に光るように加工されたそのカードには般若のような厳しい表情と鎧をつけたいかにもらしい悪役が描かれていた。 変なところで運を使ったなと夕焼けを反射して煌めく悪役のカードを何だか眩しく思っていると、ふいにすぐ後ろで砂を踏む足音がした。 「あれ、お前ら何してんの?」 聞き覚えのある声だった。だけど私の頭に浮かんだその名前を呼ぶ前に、少年達は「あっ」と声を上げて、私の横をかけて行く。 「ぶんにー!」 「おっそいよぶんにい俺待ちくたびれたし!」 「いや待ってるの知らねえって」 私が遅れて振り返った先には、やっぱり私の隣の部屋に住む丸井さんがいて、入り口で丸井さんに飛びついた弟君の頭を撫でている。そんな彼の姿に妙にしっくるくるような、そんな不思議な感覚を覚えながら眺めていると丸井さんの視線が上がった。 「あれ、さん」 「どうも」 「ぶんにいと知り合いなの」 「知り合いっつうか、部屋がお隣さんなんだよ」 「まじかよー言えよー」 「いや私もさっき察したばかりでしてな」 「つうかお前らこそどういう繋がりだよ」 丸井さんが首をかしげた。 ええとどこから話せば良いのか。まず私が畑の手伝いをしていたらラケットを食らって、それで私が怒って兄君が泣いて、と頭に浮かんだ説明は要領を得ない。物申したいことは幾つかあったが、どれも声になる前に、兄君の「はあの畑のおじさんの姪なんだって」という簡潔な言葉で遮られた。それで彼は大体のことを悟ったらしい。なるほど、叔父さんのことを、丸井さんも知っているのか。 「ふうん世間って案外狭いな」 「あ、ぶんに、がニンニンジャーのレアカードくれた」 「え、それ幻月じゃん。良かったな」 丸井さんは自分のポケットを探りながら、「さんありがとな」とはにかんだ。いやいや、別にこれくらい構わんですよ。 彼はどうやら自分が昨日買ったカードを探しているようだった。 「あっ、ほら、にいちゃんも黄ニンジャーあるけど」 「それ持ってるからもういらない」 「……あ、はい」 どうやら丸井さんの兄の威厳を取り戻す作戦は早速失敗したらしい。ポケットから出した黄色いカードに苦笑いを零しながら、彼がそれをしまおうとしたので、私は自分でもよく分からないうちに手を伸ばしていた。「じゃあ私にください」と。こんな年で、レアでもないこんなカードを欲しがる私を三人は同じ顔をして惚けて見ていた。やっぱり兄弟だなと思う。 「え、欲しいの」 「欲しいです」 「この黄ニンジャー」 「そのレアカードはあげるのでトレードってことで」 「全然構わねえけど」 手渡されたカードはきらきら光っているわけでもなければキャラがかっこいい訳でもないけれど、ちょっと、大切にしようかなって、何故か私にそんなふうに思わせた。そして大事そうに財布のカード入れにそれを差し込んだ私を見て、兄君は「変なの」と笑うのだった。 一方の丸井さんは少しホッとしたような顔だった。まあ、自分が弟のために買ったカードを受け取って貰えなかったわけで、それを捨てるにしろ捨てないにしろ、彼は少なからずきっと寂しい気持ちになるに違いない。もしかしたら、私がカードを引き取ったのも、そんな丸井さんを見たくなかったからだったりして。 「ああ、そうだ。そういやお前ら俺を待ってたって言ったけど」 丸井さんが出し抜けに言った。彼の注意は弟君の紙袋へ行く。 「そう、ようふく持ってきたの」 「ぶんにい、家が近くにあるからってもともと服そんな持ってかなかったし、服ボロくなったってこの間言ったろ」 「あーサンキュ」 「あとこれパンツ」 「ばっ、出すなっつうのお前は!」 どうやら少年達は丸井さんに自宅から下着や洋服などの必要なものを届けに来たらしかった。袋からぴゃっと飛び出したのは多分トランクスだと思うけど、それは真っ青で、他に小さい赤い丸と、目のような白い丸が二つ見えた。このキャラクターは私も知ってる。「お気に入りのドラえもん!」弟君が屈託のない笑顔で丸井さんに追い打ちをかけた。 彼が素早く私の顔を伺う。違うこれは、みたいな顔をしていた。 「俺のお気に入りじゃなくって、弟のお気に入りなの、まじで!」 「そんなに否定しなくても」 弟さんのリクエストパンツなんだろうなってことは、なんとなく分かる。だって少しの間だけど、今見てて、丸井さんって弟君さん達に好かれてるんだなってことがよく分かったし、それは丸井さんが彼らをよく可愛がってるからってことがあるからなんだと思った。 微笑ましく思って私がゆるく口元に弧を描く。丸井さんは私が勘違いをしたのだと、勘違いしたらしく、(ややこしい)「だから違うって!」と激しく首を振った。いや分かってるけど。 「くそ、めっちゃ恥ずかしい」 「えーそうでしょうか」 「そうだよ!」 「ではこうしましょう。フェアじゃないからこちらも下着の柄を明かします」 すっと私は潔く右手をあげる。丸井さん達は、はた、と目を丸くしてお互い顔を見合わせると、すぐに視線を私に戻した。 「は!?」 「フェアに行きましょう。スポーツマンシップに則って」 「スポーツ関係ねーだろ!」 「黒です」 「ええええ呼吸をするように口にしたんだけどまじかよ」 「いやまあ嘘ですけど」 「嘘かよッ!」 「丸井さんがテンパってるようだったので場を和ませようと思って」 ていうか下着の色や柄なんて本当に教える訳ないだろう。たとえフェアじゃなかったとしても。ちなみに本当の色は水色である。 丸井さんはやけに落ち着きがなかったところを見ると私の場を和ませる気遣いはうまくいかなかったらしい。酷く疲れた顔をした彼に、「余計なことしましたね私」と零すと、彼は弱々しく笑った。 弟さん達とはその後すぐに別れた。もうすぐ暗くなるし、彼の実家に近いとは言っても、電車で四つは隣の駅だ。帰りが遅くなると彼らのお母さんも心配する。 日も暮れて、アパートまでの少し暗くなりかけた道を丸井さんと歩いた。彼の右手の方でぷらぷら揺れる紙袋を目で追いながら、私は何故か畑であの二人に出会った時のことを思い出していた。 「丸井さんて、」 「ん?」 「弟さんと仲良いですね」 「あー、そうかもなあ」 「昨日、丸井さんの話を聞いてて、丸井さんは弟さんと上手くいってないのかなって正直思ってましたけど、実際そうじゃなかったし」 「はは、まあな」 「それに、別にカードで威厳回復なんてしなくても、そもそも失ってすらないじゃないですか」 「どういうこと?」 彼の不思議そうな瞳がこちらを向いた。 だって、丸井さんは友達たくさんいるし、強いし、かっこいいし、女とかイチコロだって、兄君が言っていたくらいなのだから。むしろ尊敬されているんじゃないだろうか。ただ、彼はどこかムキになって言っていたようにも見えたのだけれど。 私は何気なくあの二人と会った日のことを丸井さんに簡単に話していると、彼は途中からすっかり無言になってしまっていた。 彼の横顔はじっと前だけを見つめて、こちらを見ようとしない。 「丸井さん?」 何かまずいことでも言ってしまっただろうか。私はいつだって知らない間に誰かを傷つけている。怖くなってもう一度彼の名前を呼ぶと、アパートの下についたあたりでようやく彼がこちらを向いた。だけどちっとも怒っているようには見えない。「ああ、わりい、ちょっと考えごとしてて」そう言った丸井さんが階段を上り始めたので私もそれに続いた。 「考え、ごと」 「うん。何か、世間って狭いよなあって思って」 「……はあ、」 彼がどういう意図でそれを言ったかは知らない。でも、さっき聞いた言葉とは、似ているようで、それはまったく違う意味で言われているのではないかということだけは、分かった。 ( 180330 加筆修正 ) ( 150909 ) |