「よう、こんばんは」 「丸井さん、こんばんは」 春の夜風にふわふわとポタージュの湯気を溶かして行く。ベランダからぼんやりと月を見上げていた私は、隣の部屋のベランダの戸が開いた音にふと顔をそちらへ向けた。仕切り板の向こうから丸井さんの顔が覗いたので私は会釈を返す。 時刻は0時。向こうに見える大学の明かりはとうに消え、あたりの住宅街も車や人通りがめっきり無くなり、しんと静まり返っている。夜の世界だ。 「眠れねえの?」 丸井さんは私の手の中のポタージュを気にしながら言う。カップを覗き込むとポタージュは半分程減っていて、それをゆらゆら揺らしながら「丸井さんこそ」と答えをはぐらかした。私だってそうだけれど、丸井さんがこんな時間にベランダに出ていることなんて、今まで見たことがない。と言うより、そういう音を聞いたことがないという方が正しいだろう。 「いや俺はさんが一時間くらい前にベランダに出た音が聞こえて、だけどなかなか戻って来ねえから心配になっちゃって」 「左様ですか」 「春だからって、いくらなんでもそろそろ風邪ひくぞ」 「大丈夫です」 「大丈夫ですってお前なあ……」 お人好し、とこっそり思う。確かに風呂上がりに一時間も夜風に当たっていれば多少は身体は冷えるけれど、ポタージュも飲んでいたし、少し厚手の上着もあるから、そこまで寒くはない。丸井さんは私の返答に渋い顔をしたので、駄目押しで「本当に大丈夫だから」と返すと、彼の顔が仕切り板の向こうへ見えなくなった。 「……なんかあった?」と、声がした。どこか遠慮の伺える口調だ。きっと彼はどうして私がこうしているのか何となく察しているのかもしれない。だけど「別に」と私は返してポタージュを啜った。 「いつまでそうしてんの」 「もうちょっと」 「……」 仕切り板の向こうでは、また丸井さんが口を尖らせているのが何となく想像できる。構わなければ良いのに、とそう思うや否や、再び丸井さんが顔を見せた。 「どうせ例の友達だろ」 「私に友達なんていない」 私が言うと、友達になりたい人と、丸井さんが訂正する。 「また、何かあった?」 「丸井さんには関係がないと思うんだが」 「ないけど、話はちょっと聞いちゃったし。なんだよ、もったいぶらずに一枚かませろよ」 「なんですか。儲け話じゃああるまいし」 「そうじゃなきゃ、部屋に戻るんだな」 「一人で黄昏る時間もくれないんですか」 「一時間も黄昏りゃあ十分だろい」 時間の問題ではないような気がしたが、それもそうかもしれないとも思った。黄昏ていても状況が変わるわけではない。単なる自己満足のようで、無意味だ。そうは言っても、実際に部屋に戻るか否かというのはまた別の話なのだけれど。 たかが出会って数か月の隣人に口を挟まれてその通りにすることもあるまい。そもそも仲良くもないのに、口を挟まれていること自体がわからない。 アパート前の電灯が今にも消えそうな調子でちらついている。それをぼんやり眺めながら「哀しいときはチョコレート」と、マグカップの持ち手を親指で撫ぜながら口にした。 「チョコレートを持っていないときはどうすればいいんだろう」 そんなことを聞きたいわけではなかったのに、ふと今日のことを思い出してそんな言葉を口にしていた。胸が騒めく。無かったことにして、無意味だったことにして、また明日から普通に過ごすつもりだったのに、彼の気だるげに振る右手が脳裏をチラついて離れない。思い出さなければ良かったと後悔する。 間をあけずに、「俺のとこに来れば」と丸井さんが答えた。私は顔を上げた。 「どうして?」 「話を聞いてあげられるし、チョコレートもある」 丸井さんはなんとでもないような調子で言った。元々私とは違う世界の人間だとは思っていたが、私にはその回答に至るまでの思考回路がとても理解できない。 丸井ブン太という人は基本的にコミュニケーションをとるときの精神的な距離がとても近いように思う。私のすぐ目の前だったり、すぐ隣に、さも当たり前のように立とうとする。 「なんて言うか、丸井さんってお節介だよね。どうして?」 「……お前なあ、もっと別の言い方があんだろ」 「ええと、世話焼き……やさしい?」 「そうそう。そう言うの」 「うん、わかった、君はやさしい。それはどうして?」 私が尋ねると、丸井さんは黙り込んだ。春の風がゆったりと私達の間をすり抜けて、肩にかかっていた髪を揺らした。「あのさ」沈黙を破る丸井さんがこちら側へ顔を寄せる。「散歩しねえ?」と。 「さっきの質問の答えになっていないんだけど」 「それは歩きながら話す。明日は何限から?」 「二限」 「じゃあ俺と一緒でフラ語からか」 「うん」 「なら少しくらい夜更かししても大丈夫だろい」 ちらりと部屋の奥の時計を振り返る。丸井さんともう三十分は話しているが、今から外に出るのだろうか。部屋に戻れとうるさかったのにもかかわらず、この時間に部屋の外に連れ出すのか。別に構わないけれど。 彼はここから歩いて五分圏内にあるコンビニに行くと言う。夜食を買うのだとか。そう言えば、私も飲み物のストックがもうなかったので、丁度いい。じゃあ、準備したら行きますと告げると、彼は頷いた。 「あったかい格好して来いよ」 がらがらばたん。私の部屋と隣から同時にベランダの閉まる音。隣の部屋の方へ視線を移して、肩を竦めた。変な人だ。 私は手にしていたカップを流しに置いて財布だけ掴んで玄関を開けた。一拍遅れて丸井さんの部屋の扉が開く。彼は私を視界に入れるなり、不満げな顔をして開けかけていた扉を閉じて引っ込んで行く。「あれ、丸井さん?」と私。 何かおかしかっただっただろうか。自分のグレーのスウェットをちらりと確認してみたが特に思うところはなく、首を傾げて彼が出てくるのを待っていると今度は上着を掴んだ手が目の前にずい、と伸びた。 「ん」 「何ですか」 「上着」 「それは分かりますけど」 「お前の上着」 「そうなんですか」 「そうなんです」 手早く鍵を閉めた丸井さんは、持たせていたカーキ色のジャケットを私の肩にかけると「何でさっきまで着てた上着脱いでんだよ」と、その上着に付いていたフードまでぐいぐいと私の頭に被せた。だってあの上着は暖かいけれど動きにくいから部屋用にしていて外には着ていくつもりがなかったから。 どうやら丸井さんはとっても心配性らしくって、私に上着を着て欲しいそうだったから、素直に好意に甘えることにした。だってそうしないとうるさそうだ。 ほら行くぞと私の腕を掴んだ丸井さんは、やっぱり世話焼きなんだなと思った。 「それで、質問の答えを聞いて良いだろうか」 アパートを背を向けて歩き出すと、私は彼にそう尋ねた。ああ、と思い出したように丸井さんが頷いた。 「さんにやさしくされたからかな」 「私、丸井さんにやさしくした覚えなんてないけど」 「何が親切になるかなんて相手にしかわかんねえだろ」 それは、私が気づかない間に丸井さんに親切にしたということだろうか。 通りはぽつりぽつりと灯る電灯以外に光はなく、しっとりとした暗闇がずっと続いている。 身に覚えがないので、わかったふうに頷くと、彼は眉尻を下げて苦笑した。 「ちなみに、俺もさんに親切にした覚えはないよ」 コンビニに着くと丸井さんは真っ先にお菓子コーナーを目指して行った。そう言えばたまに風船ガムを膨らましているところを見るけれど、この歳になってまで風船ガムをぷくぷく膨らます人もなかなかいないんじゃないかと思う。だって二十歳だよ丸井さん。それぐらいお菓子が好きなのだろうか。 私もそんな彼に釣られて適当にお菓子を掴むと丸井さんの隣にしゃがんで彼の視線の先を追ってみた。そこには今流行りのなんとかレンジャーのカードのおまけのついたウエハースのお菓子が何種類か並んでいて、まさか丸井さんこういうの好きなのかなと彼の横顔を伺うと、「ちげえぞ」と何も言っていないのに素早く答えが返った。 「丸井さんエスパーか」 「いやお前がそういう顔したから」 ウエハースの一つを掴んだ丸井さんは、このお菓子は弟が集めているのだと言った。だけどなかなか欲しいカードが出ないそうで、丸井さんもたまに買ってはいるらしいのだけれど、「これがまた当たらないんだよなあ」ということらしい。 「しかも俺があまりに雑魚を当てるもんだから弟が喚くわいじけるわで、文句ばっかりなんだよ」 「なるほど。それでレアカードを当てて弟さんの機嫌を取りたいと」 「ん、んん。ま、まあそうなんのか」 「つまりお金で兄の威厳を取り戻す作戦」 「丸井さんそういう言い方は良くないと思う。例えそれが真実でも」 真実らしい。結局運試ということで丸井さんはウエハースを買うらしかった。あくまでも本当に運試だって。 私も付き合いでそれを一つと、あとは選んだお菓子とアイスも買ってコンビニを出た。丸井さんはもっと色々買っているらしかった。 私達はコンビニの明かりを背に心許ない街頭を頼りに夜の道へ戻っていく。早速丸井さんが袋をがさがさやっているなと思ったら、袋から肉まんらしきものを取り出して、私の隣でもりもり食べ始めたので、えええ……と思わず声を漏らしてしまった。 「太りますよ」 「お前夜食買いに出て今更それゃねえだろい」 「いやそうだけど肉まんて」 「残念、ピザまん」 「どっちでも良い」 「食べる?」 「食べない」 「太るの気にしてんの?」 丸井さんは食べていたピザまんを半分に割って、片方を私へ差し出した。だからいらないって言ったのに、とは思ったけれど、ちらちらと目の前でピザまんをちらつかされると、お腹が空くような気がしてくる。私はそっと手を伸ばすと、丸井さんが満足げに笑った。無念。 「ていうかピザまんとかよく置いてあったなあ」 「な、あそこほぼオールシーズン置いてあるんだよ」 「へー」 最後の一口を丸井さんが口へ放り込んで、左側のほっぺたが膨らんだ。ちょっと嬉しそうなこの横顔はピザまんに満足しているという顔なのだろうか。この人って喜怒哀楽がよく表情に現れると私もピザまんを齧りながら思っていると、ふと丸井さんがばつが悪そうな顔になって横目でわたしを見た。 「あー……のさ、あんま見られると照れるんだけど」 「ごめん」 「何か俺の顔についてますか」 「そうではなくて」 「うん」 「見ていて飽きないなと」 素直に答えると、丸井さんがぴたっと足を止めた。腕で顔を隠そうとする。どうしたのか問うと、彼は答える。「何かそういうのあれ、……初めて言われた」「あっそう」変なの。 それから丸井さんは私の一歩前を歩き続け、その間彼はしゃべらなかった。怒らせたかもしれない。だけどしばらくするとアパート近くの小さな公園に差し掛かって丸井さんが歩くのをやめた。私もその公園を見やる。 暗闇をぼんやり見つめている。 「そういやさ、ここに捨て犬がいるの知ってる?」 不意に、丸井さんが言った。 「そう言えばアパートで噂になってるの聞いたような気がする」 噂曰く、アパートの住人の誰かが餌をあげてこの公園に住み着いてしまったのだとか。大家さんはアパートに連れ込まれるのを嫌がって、注意するようにとそういう呼びかけをしていたのを以前見かけた。 記憶を辿っていると、少し離れた茂みからタイミング良く「わん」と吠える声が聞こえて、丸井さんは私を振り返った。 「さん、寄り道しよ」 私が答える前に彼の足は暗い公園の中を進んで行った。まるで犬のいる場所が分かるみたいに、彼はまっすぐにその茂みへ向かうと、しゃがみ込んで私を手招く。そこには小さな柴犬がちょこんと座って尻尾を振っていたのだった。 丸井さんが手を伸ばせば、犬はそこへすりすりと寄っていく。 「へえ、この子が例の、」 「捨てられちまって可哀想だよな」 「名前とかは書いてあったり、」 「してないな」 両手で犬をくしゃくしゃ撫でる丸井さんは、何だか少し寂しそうな顔をしていた。どうしてだか分からないけれど。 私はそっと丸井さんとの距離を詰めると、あの、と口を開いた。 「丸井さん、名前をつけよう」 「え、こいつに?」 「うん、どうせなら何かつけてあげよう」 「良いけど、……」 「よし、じゃあお前は今日からポチだ」 「待て待て待てそんな安直で良いのかよ」 このしんみりした空気をどうにかしようと気を回して言ったことだったのだけれどどうやら丸井さんは、私のつけた名前が気にくわないらしい。もっとかっこいい名前にしたいと言われてもパッと思いつくものでもないだろう。 「もう少し代わった名前にしようぜ」 「じゃあ、タマ」 「えええ」 「何ですかその名状しがたい顔は」 「名状しがたい感情を精一杯表現してるんだよ」 「犬にタマって名前はなかなかないでしょう?」 「そうだけど……」 まだお気に召さないのだろうか。でも彼は「タマだってさ」と犬の頭を撫でたので、多分納得したのだろう。それでも何か言いたげに、じとりと細くなった丸井さんの目を一瞥しながら私は犬を抱え上げると、ふわふわとした顔が首元に擦り寄ってきたので思わず強く抱きしめたくなった。大家さんは嫌がっていたけれど、タマをこのままにしておくのは少々可哀想な気がする。 「だけど、大家さんに飼ってんのバレたらヤバいぜ。あの人怒ると超怖いし」 「超怖いのか……引っ越してきたばかりで怒られるのはやだな。……うむ、ここは丸井さん男を見せるしかねえですぜ」 「あれこれ俺が代わりに怒られる流れ?」 「冗談です」 「冗談かよ」 ぽこんと、丸井さんの手の平が私の頭にのった。大家さんが怖そうなのは見ていてなんとなく分かる。ていうか、丸井さんは大家さんに怒られた経験がありそうな口ぶりだったけれど、私の思い過ごしだろうか。まあなんにせよ、住ませて貰っているのだから、提示されているルールはきちんと守るべきだ。犬は飼えない。それはきちんと分かっていた。 でも、 「でも、犬は一匹じゃ生きていけないよ」 「……そうだなあ」 「人間だってそうなのに」 「確かにこのまま放っておいたらもしかしたら、」 そこまで言って丸井さんは立ち上がった。私もタマを元の場所に戻す。申し訳程度にそばに用意された皿には餌がまだ乗っていた。 つられて私も立ち上がると彼は私を見る。 「いや、意外に人間より生きていけたりしてな」 彼はそばのブランコにひょいと足をかけると、立ちながらゆっくりとそれを漕ぎ始めた。しんと静まり返る夜の公園に、ブランコの錆びた音が響く。 「どうして」 「犬ってこの世界でも時間が経てば野生に戻れるけど、俺達人間は社会がある限り野生にはなれないから」 「難しいことを言うね」 「そうか? 犬に干渉するやつはいなくても、人間に干渉するものはいくらでもあるだろい、そういうことだよ」 「……たとえば?」 「お前なら、その例の友達になれない奴とか、後ろ指差す奴らとか、全部だよ。そういう奴らは皆さんの社会の一部だ」 「丸井さんも?」 「そう。俺もな」 丸井さんの瞳が束の間鋭い光を孕んだように見えた。ひゅ、と息を飲む。 錆び付いたブランコの揺れる音を聞きながらブランコの前の柵の所までやって来ると、彼は少しずつ漕ぐ力を緩めていく。もう降りるつもりだろうか。 「そう考えると人間って案外不自由だよな」 丸井さんがその言葉を口にした後、彼はブランコから飛び降りた。私の目の前で綺麗に着地した彼に、思わず足を引いたけれど、彼は私の腕を掴むと少しだけ自分の方へ引き寄せた。彼のまっすぐな瞳に絡め取られて一瞬呼吸の仕方さえ忘れそうになる。 「だからちょっとでも身軽になるように、余計なものを背負わないようにしているのは、俺はナシじゃないと思う」 「へ……」 「アリでもないけど」 なーんてな、と丸井さんが笑った。 冗談、だったのだろうか。 私は何も言わなかったし、言えなかった。けれど、心の中にはぽつんと疑問が浮かんでいた。丸井さんの言葉に、引っ掛かりを覚えていた。違うよと、否定したかった。ただ、一体どこが違うのかは、わからなかった。 丸井さんがいう周りにいる人が私の社会なのだとしたら、きっとそこに馴染めない私は、社会と関わりたくはないし、やっぱり仁王にしたように、社会に踏み荒らされないための領域を作るだろう。入り口に、鍵をかけるだろう。 私の中に自由に出入りをされて、気づいたら荒らされていたなんて、ゾッとする。 私達の間を夜の闇と沈黙が埋めていく中、私は次の言葉を決めかねているとふいに丸井さんがふっと笑みをこぼした。 「帰ろうぜ」 私はようやく頷いた。 なんとなく、その時丸井さんの中に、私に似た何かを確かに見たような気がした。 ( 180330 加筆修正 ) 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