08




勇気が出なかった。そもそも、出そうという気概もなかったから、いつもの席より三列後ろの席にまるで身を潜めるように私は机に伏せて授業が始まるのを待っていたのだ。
私の鞄の隣にはエンドウの詰まった袋がかけられていて、なんとなく土の匂い。それと一緒に叔父さんの気まずそうな、言葉を選んでいるような、そんな表情が思い出されて私は余計に額を机に押し付けた。

教授は授業の開始から五分程遅れてやって来た。仁王はその後ろを平然と通り過ぎて講義室へと入って行く。彼の席はいつものその場所で、彼の隣の、普段私がいる場所は、既に誰か知らない男子が座っていた。
教授は覚束ない足取りで、教壇に上がると、ぼそぼそと講義を始める。そんな中私の視界の端にはどうにも銀色の髪がちらつくようで、スライドに示された数式をノートにとるのもままならない。こうなるならいっそ前の席に移動した方が良かっただろうか。

「今日のノートは使い物になる気がしない」

仕方がないから私はもうペンは放り出して、ぼんやり前のスライドを眺めるだけにした。
授業の中頃になると、仁王の頭が下がったのが分かった。彼はいつもそうだ。授業を聞いているのかいないのか、「だるい」とか何とか呟いて背中を丸くする。それなのに私より成績が良いものだからタチが悪い。
だから彼の頭の中は一体どうなっているのだろうなんて、ずっと前から思っていた。考えたって、答えにはきっと辿り着けないのだろうけど。
そうこうしているうちに、スライドを見せるために薄暗かった照明が明るくなる。そして鐘の音。「今日はここまでね、はい」しわがれた声がした。
たちまち生徒達がざわめき出して、私は結局まともに授業を聞くこともなく、一コマを無駄にしてしまったとエンドウの袋を掴んで立ち上がった。仁王のところへ行くなら今しかない。

「……って、いない」

生徒の波が彼の姿を遮る。その瞬間、私はあっという間にあの銀色を見失っていた。そういえば彼は元より机には文具をロクに出さないから、片付けも素早かったが、対して私は机の上に用具がとっ散らかっている。そのため、仁王を探すために慌ててそれを掻き集めていると、ふと隣に誰かが立ったのが分かった。

「何じゃお前さんこんなとこにおったんか」
「っにお、」
「ん」

私と目が合うと彼はのんびりと欠伸を一つ。まさかそんなすぐそばにいるなんて思いもしなかった私は、手にしていたペンを思わず床にばら撒いた。それを慌てて回収し始めると、彼は足元の一本を拾い上げて私の筆箱へそっと戻す。そこにいた仁王は、私の思っていたより何倍もいつも通りの彼だった。「今日はいないかと思った」そうこぼして、仁王は自分の座っていた席へ視線を送る。

「あー、えと、この場所にしたのは、気分転換的なそういう、あれ」
「ふうん」

仁王は思いの外関心がなさそうに頷いた。けれど、こうやって簡単に誤魔化せてしまうことに罪悪感を覚えて、「……って言うのは、嘘、です」と加えると、「まあ分かっとるけど」なんて即座に返されて私は面食らってしまう。
彼は本当の答えを待っているみたいで、彼の沈黙が私を急かすようだった。

「……本当は、仁王が私の隣に座るのは嫌なのではと思った次第で」
「嘘はいい」
「えっ」
「お前さんの方が早く来るんじゃから、お前さんの隣が嫌だと思ったら、俺が席を変えるじゃろ普通」

本当はの方が俺といたくなかったくせに、そう挑発的に笑われて、思わず言葉に詰まった。だって、実際そういう気持ちは確かにあったから。だからいつもの席に着く勇気が出なかったのだ。
だけど、私はきちんと今日仁王と話すつもりも間違いなくあった。その理由となるエンドウの袋を彼に押しつけると、彼はそれと私をしばらく交互に見てから「何これ」と問う。

「エンドウ」
「へえ、エンドウ」
「私の叔父さんが育てた」
「で? 俺は何でこんなもん渡されたんじゃ」
「それは、」

そこで言葉を切った。それは、ただの、話すきっかけに過ぎなかった。講義の90分間、隣に腰を落ち着ける勇気はでなかったが、何かしら理由をつけて声をかけに行くことはできる気がしたから。きっと気まずさを覚えているのは私の方だけなのだろうが、このまま仁王と話すきっかけを失えば、ずっと離せないままでいるような気がした。
少し話をして、いつも通りだと確認さえできれば、また前のような関係に戻れる。そう思えた。
別に先に何もなくたって良い。踏み込めなくてもいい。今までだってそれで十分やれてこれたんだから。

「ほら、なんて言うか、この間は喧嘩別れみたいになったから。ああ、いや喧嘩っていうのは違うと思うけど、私が一方的に話を切って行っちゃったし、そう言うのをもろもろ含めて」
「お詫び?」
「お詫びっていうか、深い意味はないよ。一番はおじさんに貰ったエンドウが一人で食べきれないくらいあって、誰かに渡そうと思ってただけだから」

嘘だった。エンドウは一人分しかもらっていない。
仁王は袋の中を覗き込みながら言った。

「例のお隣さんは」
「お隣さん? 渡してないよ。何度かお世話になったけど、まさかそういうとこまで気を回さないといけないのかな」
「さあ」

仁王から言いだしたのに、と思う。
確かに丸井さんにも渡したって良かったけれど、私はお隣さんとは気軽に挨拶ができるくらいの関係が気づければよいので、これ以上丸井さんと親睦を深めるつもりはない。彼からしてもこれ以上私と関わったところで得はしないから、関わってくることもないだろう。

「直す仲もないのにわざわざご苦労さん」

ずきり、と胸が痛んだ。仁王のいつも通りを確認で来たら、私もいつも通りに戻ることができる。と、安易に考えていたけれど、そうだろうか。仁王はいつも通りだろうか。私のいつも通りはどんなふうだっただろうか。
息がつまりそうになったから、意識的に吐き出す。それはため息に近い呼吸だった。
仁王が壁にかかっている時計を確認する。鐘がなるまで五分といったところだ。もうい移動した方が良い。
いつの間にか教室にいた学生たちは次の授業のためにほとんどが教室を出て行ってしまっていた。遅れてその流れに乗ろうと背を向けた仁王の服の裾を、私は無意識に捕まえていた。自分でも、驚いていた。

「仁王はさ」

こんなの自分の予定にはない。

「どうして私が勝手に始めた関係に付き合ってるの」

こんなことを聞いてどうするつもりだろうと思った。自分の情けなさが浮き彫りになるだけだ。
それでも私はじっと自分の足元を睨みつけていた。上を向こうが涙が落ちるときは落ちるし、なら俯いて泣き顔を見られない方がずっといい。

「私なんて、誰かとつながりを保っていくのが下手で、自分の意思を伝えるのもうまくない。一緒に居たがる人なんていなかった。ずっとそうだ。仁王は変だよ」

こうして自分の悪口を言うたびに、胸の底に、黒いインクを落としたみたいなシミがぽつりぽつりと増えていく気がする。嫌いだ、こんな自分、大嫌い。

「そんなことない」
「……」
「とかそう言われるのを待っとるのか」

仁王が振り返る。裾から手が離れて、私は宙に浮いた手をそっと握りしめた。自分がどんな顔をしているかもわからないから、顔はあげない。
私は、自分を擁護してくれる言葉を待っていたのだろうか。そうだったのかもしれない。

「そういうところが好かん」
「そう」

静かに頷いた。私も、こんな自分が大嫌いだ。

「お前さんに付き合っとんのは単なる暇つぶし」

でもそろそろ飽きてきた。仁王は淡々とそう言って教室を出て行った。胸が冷えていくような思いがした。

「哀しいときはチョコレート」

呟いてみたけれど、あいにく私はお菓子を持ち歩かない人間だ。





だからって自分でもどうしてこんな短絡的な行動に出たのかちっとも分からないのだけれど、私は正直、今の自分の状況に落ち込んでいた。

「わあ、見かけによらずいっぱい食べるんだね」
「っなん、」

大声で泣きたいような、そんな気分になることはなかった。腹が立ったわけでもなかった。ただ、心の中の重要な部品をすぽんと抜き取られてしまったみたいに、そこ抜けた気持ちになった。それは哀しいというか、どこまでも寂しいという感情に近い。
おかげで私という人間の機能が一時的にいくつか停止したみたいだ。
何も考えずに足が向かったのは食堂だ。この時間なら人無少ないだろうと、真っ白な頭の片隅でそう考えたのだろう。
加えて私は律儀に食券まで買っていた。お腹なんて空いていない。どういうわけか頼んだ食堂のメガ盛りカツ丼を目の前に色んな感傷に浸っていると、気配もなく隣に現れたのは幸村精市である。
よりによってこの人。何がよりによってかは分からないけど、多分この場ではその言葉がきっと正しい。気がする。
彼はさりげなく隣に腰を下ろしたので、私は慌てて立ち上がって、席を一つ横へずらす。
きょとんとした瞳が私を見つめているのが視界の端にでもよく分かったが、直ぐにそれは微笑みに変わった。仁王と同じで良くわからない人だ。

さんこの時間授業ないのかな? 俺もなんだ」
「……」
「……まさかサボり?」

サボりだった。私は冷静じゃなかった。すごく後悔している。
彼はその無言を肯定ととったらしく隣で呑気に弁当を広げ始めた。意外だね、と言葉を添えて。私が真面目な人間に見えていたということだろうか。まあ、どう思われていてもいいけど。
幸村精市は仁王の大事な友達。そんな事実が今は少し悔しい。私は相変わらず沈黙を守り続けていると、「食べないの?」と彼が丼を見た。

「俺の友達にもそれくらい軽く食べちゃう子いるよ」
「これは、間違えたんです」
「間違えた?」
「血迷ったというか」
「やけ食いは身体に良くないよ」
「そんなこと誰も、」
「言ってないけどそういう話だろ」

私の気も知らないで、幸村精市はさっぱりした調子でそう言った。挙句「仁王と何かあったの」ピンポイントに触れて欲しくないところへ踏み込まれる。
私は何も言っていないのに、仁王は確かに難しいところがあるからとか、皆そう言ってるとか、私の知らない人達の名前を挙げて勝手に納得していた。まるでなんでも分かってるふうな話し方。いや、きっとなんでも分かってるに違いない。

「友達、たくさんいるんですね」
「君にもいるだろ」
「いません」
「仁王は?」
「仁王は友達じゃないんです」
「へえてっきり友達だと思ってたよ」
「仁王は、人を騙すの上手いの貴方も知ってるでしょ」
「でも君を見てもそう思ったけど」
「私は、……」

私はそっと目を伏せた。

「いつの間にか勘違いをしていたと言うか、」
「勘違い?」
「浮かれて、友達になれたらなって、思ってただけで」

きっと仁王はまた明日も、普通に声をかけてくるだろう。だって今日のやりとりも、この間のやりとりも、全部彼の中では気にする程のことではないのだから。
私の望んでいたことだ。都合の良い友達を続けてくれるのだから良いではないか。いつだって多くは望みすぎてはならない。だって、そうやって失敗してきた。

「全部全部、春の風に浮かされてただけなんです」
「……そう」
「……」
「まあ、俺は浮かれたって良いと思うけど」

彼が頬杖をついて私を見た。顔を上げた私は彼と視線がかち合って、だけど直ぐに視線をそらす。

「だって冬を越えて花はようやく芽吹くし、桜は綺麗だし、新しい何かが始まる予感もする。春はうきうきする季節だ」
「……」
「事情は知らないけど、仁王も新しい何かをしたかったのかもね」

そう言った幸村精市は、事情を知らないという割に、本当は全部見透かしてしまっているような口ぶりだった。それはどういうことか聞きたかった。だけど、いつの間にか彼の弁当の中身はいつの間にか空っぽで、丁寧に手を合わせると彼は立ち上がったので、すっかりタイミングを逃してしまう。その上君と話せて良かったよ、なんて、私はさっきまで逆のことを考えていたのに、そんなことを言われても今の私にはなんて返したら良いかわからなかった。
結局、何も言わずに彼が去るまで俯くしか私にはできなかった。だけど足音が少し後ろで止まって彼がこちらへ振り返ったのが音で分かった。「それから、」

「俺は仁王に騙されたことないよ」

私は振り返る。幸村精市はやっぱり何でも分かってそうなその顔で笑っていた。それなのに彼がどういう意味でそう言ったのか、私にはいまいち分からなかった。どうして何も知らないはずの彼が、私より知った顔をしているのだろう。……ううん、でも、もう良い。考えるのはやめよう。
幸村精市の背中がすっかり見えなくなってから、私は一口も手を付けていないどんぶりを見やった。ひとまずこの目の前のメガ盛りをどうにかしなければならない。丸井さんがいたらなと、ケーキ屋に行った時のことを思い出して携帯を開いたけれど、当然の如く連絡先など聞いているわけもない。

「何をやっているんだ、私は……」

自己嫌悪に陥った私は、再びテーブルに額をぶつけるのだった。







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