ぽたた、と汗がしたたる。見上げた空はやけに遠くに見えるくせに、太陽の光は私をすぐそばでジリジリと焦がしているようだった。 「悪かったなー、」 麦わら帽子の下の、小麦色に焼けたしわっとした顔が私を振り返った。「別に良いよ、叔父さん」だって毎年のことだ。続く言葉はしっかり飲み込んで、私は足元の畝に長ネギの苗を植え付けて行く。もうかれこれ一時間近くはこんなことを続けているのではないだろうか。 さて、叔父さんは、時折、私にこうして畑仕事を手伝わせることがあった。畑と言っても、家庭菜園の域を全く出ないけれど、付き合わされているのは高校生の時からずうっとだった。腰を折り曲げて土と睨めっこなんて、女子高生や女子大生のすることじゃないとは思うけど、多分、叔父さんは、自分からは顔を見せない私の様子を伺うために、こんなまどろっこしいことをさせているのだと思う。 「そういや、一人暮らしはどうだ」 「どうって何」 「ああ? お前、そりゃ色々あんだろうが。自炊が大変とか、米が炊けねえとか、唐揚げが作れねえとか」 「例えが全部自炊関連だなあ。ていうか何故ピンポイントに唐揚げ」 まあ、自炊の方は一人暮らしの味方のコンビニが付いているし、一応自分でも作ってはいる。それに、先日は丸井さんにプロ顔負けの料理をいただいた。別にこれ以上にもこれ以下にもする必要のないくらい、つまり一人暮らしには程よい食生活なのではと思ってはいる。とは言え比較対象が丸井さんくらいしかいないので、実際の所は知らないが。 「そおかあ」 間延びした言葉は、そこに意識がないことをよく示しているようだった。叔父さんの思う所はとうに気づいている私は、何も問わぬままに泥のついた手で、お構いなしに額の汗を拭った。 しばらくするとキャベツに被せた防虫ネットの向こうで、再び声が上がった。 「大学の友達は」 「えっ?」 「できたか」 「できたよ、たくさん」 咄嗟に出た言葉は当然嘘だったけれど、別段それに後悔はない。だっていつもそう答えているし、叔父さんもそれに気づいているような気がする。 私達のこのやり取りは、いつものことながら、まるで小学生の子供とその親のそれみたいだ。だけど、私にはそんなやり取りが必要なくらい、自分が頼りなく、大人の庇護の下に存在しているのだと思う。 だから叔父さんはきっと、私が本当の意味で自立するまでは、この質問をいつまでもやめないんだろう。叔父さんの言葉に、ふと仁王の顔が頭を過ぎった。 あれから仁王とは話していない。そもそも、元から私達はそんなに話す方ではないから、今回のことで特に何かが変わった訳ではないけれど。それでもなるべく顔を合わせないようにという意識は頭の片隅にある。あれだけのことを言われて、平然としていられる程タフではない。 手に持っていた苗がなくなり、ようやく腰を立てるとじんわりと体の節々が痛むようだった。これは背中を痛めそうだ。 私は、春のくせにやけに暑苦しい太陽に向かって腕を伸ばしていると、向こうからぎゃあぎゃあと騒ぐ子供が二人、こちらに向かってくるのが見えて、そのうちの少し背の高い方がテニスラケットを危なっかしく振り回していた。 「うわあ、嫌な予感」 なんて思ってしまえば、現実は大抵その通りになってしまうようにできているようで、男の子の手からすぽーんとラケットが抜けると、それは畑の柵を飛び越えて見事に私へ体当たりしてきたのだった。いたっ、と短く声を上げる。 「あっ、やっべえ」 「何これ予想以上に痛い」 もっと食パンみたいにソフトに降ってくると思ったのに、スポンッという勢いのまま、私の腹に突き刺さった。自分達のラケットが人に当たったことに気づいた彼らは、ぱたぱたと畑の方までやって来た。地面に落ちたラケットは、よほど大切に使われていたのか、使い込まれた跡はあれど、きちんと手入れがされて綺麗なラケットだった。とてもこんな風に振り回して使っているとは思えない。 畑の土で汚れたグリップの端をタオルで拭うと、そこにはローマ字で「M」と書いてあった。イニシャルだろうか。 「すんませーん」 「あーこらこら、そこ踏まない」 「すんませーん、ラケット返してくださーい」 「今言ったこと聞こえなかった?」 土を払いながら、彼らに差し出したラケットを、今度は背の小さな方の男の子が大事そうに受け取った。彼の腕の中にはすでにもう一本のラケットが抱えられていたけれど。中学生と小学生、というところだろうか。正直きつく怒ってやろうかとも思ったが、小さな男の子の方が、恐々と私を見上げていたので、そんな気も失せてしまった。こちらの子には悪気があるらしい。まあ、ラケットを投げたのは君ではないが。 「危ないからね、次からは気をつけようね」 「ごめんなさい…。ほら、兄ちゃんも」 「すんませーん」 どうやら、二人は兄弟のようだが、兄の方は聞き分けがあまりよろしくないらしい。別に怒ってないから良いけどさ。弟君もいつか、こんなふうに生意気になるんだろうか。叔父さんとお揃いでかぶっていた麦わら帽子を脱ぎながら私はそんなことを考えていると、叔父さんが私の名前を呼んだのに続けて「お、悪ガキ共じゃねえか」と声のトーンを上げた。 「何、叔父さん知り合い」 「よくここら辺で遊んでるガキ共だよ。キュウリとかトマトとか、おやつにするから寄越せってうるさくてな」 「ふうん、あげてるんだ」 多分、この二人のことを気に入っているんだろう。悪ガキだと呼ぶ割には顔がにこにこしている。今日はもう一人はいないのかと叔父さんは問うたが、弟の方が「ぶんにいは今日は遊ばないって」と小さな声で言った。へえ、まだ兄弟がいるんだ。 「ねえ、おじさん今日は何かないの?」 「こいつぬけぬけと」 「しょうがねえ奴だなあ、でも全部もう取っちまってねえんだよ」 「…ま、エンドウはありますが」 「あーあれか!」 「それで良いよ」 「あのね、君。叔父さんもだけど、」 収穫前のエンドウがあると言ったのは確かに私だが、その前に一言言わせてもらいたい。だが叔父さんは「ちょっととってくるから待ってな」なんて言うと、ばたばたと格好悪い走り方をしてエンドウ畑の方へ行ってしまった。あんな叔父さんは初めて見た。彼らのことを相当可愛がっているに違いない。きっと、私が彼らのようなタイプではないから新鮮で、それに可愛いからあれやこれやとしたくなるのだろう。少し複雑である。 叔父さんの姿が見えなくなってから、私は二人に向き直った。 「君達名前は」 「人に聞くときはまず自分から。おばさんの名前は?」 「おばさんじゃないし、君は私にラケットをぶつけたのだからもう少し申し訳なさそうな態度をすべきじゃないかな」 「だって、痛くなかっただろ」 「ふうん、君は痛くないなら別にラケットを人にぶつけても平気だと思っているの。ずいぶんと頭の悪い理屈をごねるね。じゃあ痛くなければ今私が君にラケットをぶつけても良いんだね。ちょっとそのラケット貸してくれるかな」 そう言って、私が小さな男の子の方へ手を差し出すと、彼は怯えた瞳でラケットを抱きしめる腕に力を込めたようだった。 私は手を下ろして再び兄らしい方へ向き直った。 「ちなみに、ラケットにぶつかったとき、とても痛かったですけど、まあそんなことを言ったところで君には分からないだろうね」 「だってそんなのそいつじゃないんだから分かるわけないだろ!」 「分からないんじゃなくて分かろうとしていないだけでしょう。今回のことだけじゃなく、人の痛みに気づけない人はいつの間にか独りぼっちになるよ。少なくとも私は今の段階で君が大嫌いだ」 「…別にお前になんか好かれなくても、」 「叔父さんも君達に甘いのは君達が子供だからだ。だからそんな甘ったれていられるのは今のうちだよ。君達がいづれ自分の始末を自分でつけなければいけなくなる頃、同じことをしていたら周りの人間全てに恨まれているだろうね」 「……にいちゃん」 言ってから思ったけれど、ここまで責め立てる必要は無かったんじゃないかと、俯いた兄君を見て、続く言葉を飲み込んで口を噤んだ。自分だって人の気持ちを考えるのがすこぶる下手なくせに、何を偉そうに、と思う。きっと彼らの方が私よりうまく生きているし、生きていける。 弱々しく兄君を呼んで下から顔を覗き込もうとした弟君は、兄君の顔を見てからはっと息を呑む。 ぱた、と土に何かが落ちた。多分涙だ。 一度怒り出したら止まらないのは私の昔からの悪い癖だ。 「い、今のは無し。仕切り直します」 「……」 「私の名前はです」 「……っそっから仕切り直すのかよ! ばかじゃん、お前ばかじゃん、おばさん!」 「いや、おばさんではなく、私はまだ19です」 「ぶんにいと一緒だ」 「一緒じゃねえよばか! 兄貴はもう20歳だろ! つうかサバ読んでんじゃねーおばさん!」 「ほ、ほんとだよ。泣きながら怒らないで欲しいな。叔父さんに私が怒られる」 慌てて何かないかとポケットを探ると、飴玉を見つけたので、それを兄君の方へ押し付けた。「これで仲直りしよう」すると、弟君の方が、いいなあと目を輝かせた。良いのか、これで良いのか。悪いが一つしか持ち合わせがない。代わりに麦わら帽子をかぶせてやると、彼はちょっぴり嬉しそうな顔をした。本当にこれで良いのか。 一方で、兄君は、受け取った飴玉をじっと見つめるだけだ。 「……飴玉きらいですか?」 「……」 「いらないなら、弟君に、」 「いるし!…これで許してやる」 「さ、左様でござるか」 首にかけていたタオルで兄君の涙を拭ってやると、彼のほっぺたは飴玉で丸く膨らんでいた。何だろう、誰かに似てるような気がするんだけど。まあ、良いか。 額の汗をぬぐってから、話題を変えるためにラケットの方へ目を落とした。 「ところで、君達はこれからテニスしに行くのかな」 「うん」 と、弟の方が答えた。 「でもこれ、ぶんにいのラケットなの。勝手に持ってきたの」 「へー、怒られないと良いね」 「べっつに怒らねえよ。兄貴はもうずっとテニスしてねえし」 なんとか場の空気を持ち直そうと無理やり振った話題は、思いの外、明るくなさそうな話題を引き出しそうな予感がした。 兄の方は、やけに乱暴な口調で話すので、まさかぶんにいという人と仲が悪いのかとも思った。だけど、表情には少し寂しそうな色が見えたので、そういうわけでもなさそうだ。 「でも辞めた割にはラケットが綺麗なような」 「たまあに、手入れしにくるの」 「テニスが本当は好きなんだよ。だから、俺達がテニス上手くなって兄貴と出来るくらいになれば、またやってくれるかなって」 「ふうん、そうか」 「あのね、ぶんにいね、きっとテニスする相手がいないからやめちゃったんだって、にいちゃんが」 弟君が、そう言って兄君の方を見る。でも年齢を聞く限りでは、お兄さんは大学生のようだから、テニスする相手がいないって、そんなものは、サークルに入ったりスクールに入れば、いくらでもいるだろうに。 相手がいないというのは、『そういう意味』ではなく、もっと何か別の理由があるのだろうか。 「お兄さん友達がいないの?」 「んなわけねえだろ!兄貴は友達たくさんいるし、強いし、かっこいいし、女とかイチコロだし、」 「い、イチコロか。そいつはすげえな…」 「お前みたいな友達0人そうな奴とは違う」 「今のは傷ついた」 ダイレクトに傷口を抉られた。こんなことでいちいち落ち込んでも仕方がないのだけれど。 それよりもだ。その強くてかっこよくて、女はイチコロスキルを持ち合わせた人でも何か抱えるものがあるんだろうなと、自分のノースキルかつ、お先真っ暗な人生に、私は足がすくむ思いがした。仁王とだってきっとこのままだろうし、私はずっとずっと、一人なんじゃないだろうか。 そうこうしているうちに、叔父さんがようやくエンドウを掴んで戻ってきた。子供二人では到底持ち帰れない量だ。叔父さんは、袋を二つ取り出して、一つを彼らに、もう一つを私へ託した。 「持ってけ」 日に焼けた肌の中で、ニッカリと見えた白い歯が眩しかった。土まみれのエンドウをしばらく見つめていると、ふと丸井さんが言った言葉を思い出した。 ( 180330 加筆修正 ) ( 150819 ) |