重いバッグを抱えてアパートの階段をゆるゆる上る。途中で住人とすれ違えば、相手は持ち手の切れたそれを怪訝そうに見やりながらこちらに軽く会釈を寄越す。すかさずどうもこんばんはとなるたけ笑顔を作って挨拶を返した。 こんな反応は今日1日だけで慣れるほど見たが、それも本日はこれにてひとまず解放される。私はそっと息を吐きながらまた一段足を持ち上げた。 1番端に位置する私の部屋の隣、つまり丸井さんの部屋には当然のことながらすでに明かりが灯っていた。ふわりと夕飯のいい匂いがする。今日の献立は何だろうなあなんて思いながら、対する自分はこれから夕飯の用意をしなければならないことにどっと疲れが押し寄せる思いがした。すっからかんの胃袋をバッグで押しつぶす。確か冷食のパスタが残っていたような。面倒でスーパーに寄って来なかったけれど、これで冷蔵庫に何も残っていなかったらどうしよう。バッグはどんどんと重さを増すようで、思わず部屋の扉に額をごつんとぶつけながら沈黙していると、突然隣の部屋の扉が開いた。 「誰かが帰って来たような音が聞こえたと思ったけど、やっぱさんだ」 「へ」 「おかえり」 「た、ただいま」 開いた部屋の玄関からは暖かい光が足元に漏れ出して、ひょこりと顔を覗かせたエプロン姿の丸井さんと目が合った。今朝泣き顔を見られてしまった手前、少し気恥ずかしいのだけれど、丸井さんはちっとも気にしていないような風体で、こちらを覗き込んでいた。 彼にとってはきっと瑣末なことだったはずだ。気にしているはずがないかと一人で納得をして、もそもそとバッグへ手を突っ込んで私は取り出しづらい鍵を探る。この間が苦手で、私は今日の夕飯は、と仕方なく丸井さんへ尋ねた。 「夕飯? ハンバーグだぜ」 と彼は答える。ぐう、とお腹が鳴いた気がした。うちは何があったかなあ、と私が冷蔵庫の中身を思い出そうとしていると、 丸井さんはふと視線を逸らして何かを思案するような素振りの後「あのさ」と口を開いた。半開きだった扉が完全に開かれて、フロアにはサンダルの足が現れる。 「入る?」 「はい?」 「つうか、…あー、元々そのつもりだったんだけど」 「へ?」 バッグの中で鍵に触れたその指がぴたりと止まる。そのつもりってどういうことだろう。いや、その前に、入るって、まさか丸井さんの家? 意図の読めない丸井さんに私は首をかしげざるを得ない。 「ほら、今朝会った時、俺、寄り道せずに帰って来いって言っただろい」そう付け加えた彼に、私はああそう言えば確かにそんな話をしたけれど、と曖昧に頷いた。 「つまりだな、腹減ってるだろうし、夕飯でも作ってこの間の…ケーキのお礼しようかなって、そういうこと」 「はあ」 「で、夕飯作ったから、入って良いぜ」 「はあ、そうなん、……あれ、それはなうですか」 「なうだけど」 「私のぶんの夕飯、できてるんですか、なうですか」 「おう」 「ひええ」 「もしかしてさん夕飯の用意してある?」 「いや、ないので丸井さんの申し出はとても助かりますが」 「んじゃあ入れよ」 丸井さんはそう言ってホッと息を吐くと、私のバッグを自然に持ち去って中へ引っ込んで行った。まさかこんな展開になるとは思っていなかったのだけれど、荷物も持って行かれてしまったし、せっかく用意して貰ったものをむげにはできないので私も遠慮がちにそれに続く。これで丸井さんの家に入ったのは3回目だ。と言っても、玄関より先に進むのは今日が初めてである。そもそもこうやって大事な用があるわけでもないのに身内でない知り合いの家に上がったのすら初めてかもしれない。 適当に座ってと言われ、丸テーブルのそばに腰を下ろすと、ぴかぴかな真新しい洒落た皿にはハンバーグとそれから炒め物が並べられた。どうやら私は丸井さんの料理レベルを舐めていたらしい。これは食べに来て正解である。 「丸井風おろしハンバーグに、ブロッコリーとじゃがいものガーリック炒め、ってな」 「全部手作りですか」 「あったりまえだろい」 「もうプロじゃんすか」 「まあな」 丸井さんがはにかんで、それから箸を皿へ伸ばした。私なんて、一食を白米とインスタントの味噌汁で済ますことなんてざらにあるのに。というか、下手をしたら朝夜はその全く同じメニューである。そっと手に取った食器も、どことなく高級感があって、料理を余計ぴかぴかさせているようだった。 「あ、この食器友達に貰ったんだよ。なかなか良いだろ」 「こんな食器をプレゼントしてくれるなんてよほどセンスが良いご友人なんですね」 「んー、まあ、センスは良いのかもな。でも普段こういうことしない奴だから貰った時はビビったけど」 「よく見たらこれスプーンとかと全部セットのやつなんですね」 「そう」 丸井さんはそんな話を挟みつつ、いつの間にか夕食の半分以上を平らげていた。私はまだちっとも手をつけていなかったので追いつくように慌てて箸を進めると、丸井さんは小さく笑って「ゆっくりで良いよ」と言う。今朝も少し思ったが、丸井さんの笑顔は、人を和ませる。彼はよく居る排他的な人間に近い人だと思っていたけれど、どうやらそうでもないらしい。 「美味しい」 「サンキュ。美味いもん食うと疲れも吹き飛ぶだろい」 「これなら毎日食べたいですな」 「はは、いつでも来て良いぜ」 「……。どうも」 社交辞令だろうから私は曖昧に頷いた。それからは話すことがなくなって、私はずっとじゃがいもを咀嚼していた。ハンバーグの一口分は、最後まで取っておこうと思った。 丸井さんは、しばらくテレビを見ていたのだけれど、彼のコップの中身がなくなった頃、「あのさ」と彼がこちらを向いた。 「ひとつ聞いて良いか」 私は首をかしげる。「内容による」と答えた。コップの中の氷が、からんと音を立てて崩れる。 「今朝、何で泣いてたの」 直球だなあ、と一番にそんな感想を抱いた。私はフォークをそっとお皿の上に置く。その質問が来るような気はした。「聞かない方が良い?」と丸井さんが続ける。 「質問がふたつになってるよ」 「じゃあ初めの方を答えてよ」 「それは困ったな」 自然とこぼれた涙の理由を問われても、答えるのが難しい。「丸井さんに優しくされたからかなあ」と言うと、彼はえ、俺のせい? と肩を竦める。そういうつもりではないけれど。 私は再びじゃがいもにフォークを刺しながら答えた。 「優しくされることはとっても怖い」 「どうして」 「もっと優しくされたくなるからだよ」 「駄目なのか?」 「駄目じゃない。ただ、私には返せるものがないしさ」 丸井さんは、眉をひそめて話を聞いていた。納得の言った顔ではなかった。 「今日、丸井さんと話していて、同じふうに優しくしたりされたり、会話できたらなって思う人が頭に浮かんだ。そうしたらどうしてか、涙が出た」 「友達と、喧嘩でもしたのか」 「違う。友達じゃないし、喧嘩でもない」 そうだったら良かった。これが喧嘩だったなら、きっともっと簡単だったに違いない。 仁王にとって、は無意味なものだと改めて証明されたことへの怒りも哀しみも、行き場があっただろう。でも、今の私にはない。こうなることはわかっていたのだ。だから、自分の中にそれらを生まないために、そもそも彼との線引きをして、人付き合いを始めた。それなのに、いつの間にか、自分からその線を踏み越えようとしている。いや、違う、気持ちだけがその先へ行こうとしている。愚かしいことに、その先に何もないことを忘れて。 自分で言い出したことなのに、可笑しな話だった。 「友達じゃないなら、何なの。さんが一緒に居たいって思うような人なのに、友達じゃないのか」 「難しい質問だね」 私は笑うだけで、答えは口にしなかった。丸井さんに話したところで、理解されるはずもない。彼には無縁の考え方だろう。はぐらかされたことを丸井さんも気づいただろうが、それ以上は追求しては来なかった。 「私達は意味のない者同士じゃんねって、私から言いだしたの。そうしたらさ、相手はそう言えばそうだった、って当たり前のように言ったわけだ。向こうは悪くない。事実だもの。でも、何かさ、ああそっかあって力が抜けて」 丸井さんは、テレビの電源を消した。ぷつんと、静寂が降ってきたように賑やかな音が途切れた。彼が神妙な顔をして私を見るので、肩を竦めてみせた。 「別にもう哀しくないよ」 「さん」 「そんな顔しないでほしいな。もう、ちっとも哀しくない。嫌な言葉も慣れっこなんだ。相手にとって私は意味のないものだし、私にとってもあの人は意味のないもの。そんな人たちの間にある言葉って、やっぱり意味がないよね。空っぽなんだよ。哀しい言葉も全部」 そうでしょう、と続けようとしたとき、丸井さんは突然立ち上がって、キッチンの方へ歩き出した。え、丸井さん? と彼の背中に投げかけた言葉も、届いていない。彼はキッチンで何かを探しているようで、しばらくすると小さなお菓子のようなものを掴んでこちらへ帰ってきた。私の横に腰を下ろす。一体何事かと、問う隙も与えず、彼は私の腕を掴むと、口の中に何かを押し込んだ。後ろへよろめきそうになりながら、釣られて口に詰め込まれたものを咀嚼をする。 甘い。どうやらそれはチョコレートらしかった。 「でもお前は泣いたんだろ」 丸井さんは言った。 「哀しいから、泣いたんだろ」 詰め込まれたチョコレートを飲み込むと、丸井さんは再びひとかけらを口に押し込んだ。私も馬鹿みたいにそれを噛んで、呑み込もうとして、その度に、自分の中の何かが砕けていくような気がした。 空っぽの言葉なんてあってたまるかと言って、丸井さんが服の袖で私の目じりをぬぐう。どうやら、私は泣いているらしかった。 「……まるいさん」 「覚えとけよ。哀しいときは、チョコレート」 哀しいときはチョコレート。 心の中で反芻する。 私と丸井さんは出会って一か月やそこらなのに、ただの隣人なのに、――丸井ブン太という人は私にやたら親しく話しかけて、チョコレートを口に押し込んで、私の涙をぬぐう。とても変な人だ。 丸井さんの甘ったるい思考にふやかされながら、たとえば仁王に、友達だったらよかったね、なんて、言える勇気が私にあったら、――その価値が、あったならと、そんなことを考えていた。 ( 180330 加筆修正 ) ( 150810 ) |