05



こんな時どうしたら良いんだろうと、そう思う場面がたくさんある。それは誰にでもあることなのかもしれないけれど、今まで人との関わりが少なかった自分のような人間には特にそのように思うのだ。さらに、とりわけ最近は。

詰めた教材の重さに耐えきれずに手提げ部分の根元からぶっつりと切れたバッグを抱えながらそそくさと大学にやってくる自分の滑稽さは今日一番だ。そんな中、珍しいことに廊下で仁王とあの幸村精市に出くわすという、今そういう場面。出くわすと言っても、あちらは私には気づいていないようだが、以前見た時と同じように、彼らは別段楽しげでも無く何か話している。
一度話し出せばぎゃあぎゃあと騒いで笑い声をあげるような部類からはかけ離れて、彼らは大学生らしく無い落ち着きを纏ってどこか大人びていた。
私は数分前に予告もなく突然バッグとしての役目を終えたそれを辛うじて抱えて、ぼんやりと仁王を見遣った。
こんな時、仁王に声をかけるか迷う。
バッグが壊れているからと言う情けない理由は捨て置くにしても、私はきっとすんなり仁王には話しかけられない。だって、用事もないのに何で声をかける必要があるの?って、心の中で私が言ってる。でも探してみたら、声をかけてみたらって、そわそわしてる自分も確かに見つけた。だけど結局、声が喉の奥にぐっと詰まって、おはようとか、やあとか、無難な言葉もかけられそうに無かったので私は2人から視線を逸らした。
声をかけないくらい、些細なことだ。
私はいつだってこんな風に自分を殺している。

「ちょっと待て」
「うわ」

突然そんな言葉と共に首根っこを掴まれた私は抱えていたバッグから手を離した。何だか冷たい声だと思うのが早いか、ばさばさと中身が床に散らばって私の意識が床へ移る。私を引き留めたのは仁王で、彼はまさかこんな事態を招くことは予想していなかっただろうが、驚いたふうもなく、広がった教科書達を素早く回収すると、バッグの中にそれを押し込む。

「何か足りない」

彼の台詞に、多分ちぎれた手提げの部分だろうと思って、もはや唯の二本の紐と化したものを彼に見せた。仁王はそれと私を交互に見るだけで、何も言わない。いつもそうだった。仁王は私のことを深く聞かない。別に私も望んではいないけれど、少しだけ、本当に少しだけ、かなしい。
私は、そう言えば幸村精市と話していたのではとそこでふと顔を上げると、少し遠くにまだ彼の姿はあった。こちらを見て、多分、笑っている。どうしようこの状況。

「めっちゃ笑ってるあの人」
「は?……ああ、幸村」
「ていうか話していたのでは」
「話してた」
「あの、」

何で私のところに来たの。とは言わなかった。その言葉は自分を傷つける気がした。それに何だか仁王の機嫌があまり良くない。嫌だなあと思いながらバッグを抱えなおして、じり、と一歩後ろに引いた時、このタイミングで幸村精市が目の前にやってきた。バッドタイミング。
だけどそんな彼は近くで見るとすごく穏やかな空気を纏った品のある人だなと感じた。こりゃあ人気が出るわけだ。

「君がさん」
「はあ。……あー、貴方は幸村精市さん」
「うん。その鞄、どうしたの?」
「重さに耐えきれなかったみたいです」
「理工学部はやけに分厚くって難しそうな本が多いからね」
「あー……」

あー……って何だよって、自分で答えて思う。イエスともノーともつかない、他人事のような言葉。
そもそも何で彼とこんな話をしているんだろうとも思う。幸村精市は私と話していて楽しいのだろうか。つまらないのなら早急に切り上げてくれないかな。私は頭の端っこでそんなことを考えていたけれど、目の前の彼は、何が面白いのか相変わらずにっこにこして、私を見ているだけだった。

「仁王は同じ学部にちゃんと友達がいるか心配してたんだけど、その心配はいらないね」

仁王をよろしくね、そんな台詞を聞いて、幸村精市が笑っていた理由を知った。だけど、違う。私と仁王は友達なんかじゃあないよ。よろしくと頼まれるような間柄とは言えないんだよ。形式上友達をやっているとは言え、きっと仁王にとって特別な友達の幸村精市と同等な立場に立つことがおこがましく思えて、??それにきっと仁王も不愉快だろうと、否定しようと口を開くと、その前に彼が「おん」と確かに頷いた。それから私の頭に手を乗せて「持つべきもんは友達じゃあ、なあ」と嘘くさい調子で言った。思ってないくせに。

「そんなこと言っても課題は見せないのである」
「ケチじゃなあ」

思ってない癖に、何だか胸がこそばゆい。きゅっとバッグを抱きしめる腕に力を入れた時、「ああ、そろそろ2限が始まるね」と幸村精市が言った。

「俺は授業があるからもう行くよ。またね仁王、さん」

どうやら幸村精市はこちらの棟で選択授業があるようで、すぐそばの講義室の中に見えなくなった。彼は最後まで爽やかなオーラを放っていた。私はさよなら、なんてぼそぼそ言ったけど、多分聞こえてない。どうせ『また』はないから良いけど。

「ああ、そうだ。仁王2限に授業あるの」
「ない」
「ならどうして学校いるの」
「レポートやりに来た」
「ふうんそう」

私は2限に語学入れてるから。と歩き出そうとすると、「ちょっと待て」と再び首根っこを掴まれた。今度はバッグは落とさない。さっきから仁王は一体何がしたいのだろう。早く行かないと席がなくなるではないか。振り返った先の仁王はやっぱりどこか機嫌が悪そうだ。たまに、彼はこうやって不意に冷たくべることがあった。

「何?」
「お前さん、」
「うん」
「……」
「どうしたの?」
「何か言いたいことは」

仁王にしては珍しく、言葉を選ぶように、どこか用心深く尋ねた。
言いたいこと? と私はしばらく思考を巡らせる。それからすぐにあることに思い当たって、彼の掴んでいる襟元を叩いて、「離してほしい」と答えた。けれど、どうやら仁王が欲しかった言葉ではなかったらしい。

「俺はお前が何か話したいことがあるのかと思った」
「どうして?」
「こっちを見てたじゃろ、初め」

口をつぐむ。確かに私は彼を見ていた。「やあ、おはよう」なんて当たり障りのない会話ができたらと、少しだけ思った。

「挨拶をしようかなと思っただけ。本当だよ」
「そうか」
「無視したわけじゃない。いつも挨拶をしようかなとはちゃんと思ってる」
「声をかけられたことはないがのう」
「意味のないことは嫌いだもん」

仁王の手が襟元から離れた。先ほどまでのどこか不機嫌そうな空気はいつの間にか消えている。もしかして、時折彼が怖くなるのは、私が彼を無視していると思っていたからだろうか。それが気に食わなくて、怒っていたのだろうか。
そんな馬鹿な、と思う。仁王がそんなことで怒るような奴には見えない。そもそも、私になんて話しかけられたいと思うはずがないではないか。
どんな理由があるにせよ、私は意味のないことをするのは好きではない。何故ならそこには何も残らなくて、後で悲しくなるからだ。

「仁王は、私を廊下で見かけたら、わざわざ近づいておはようって言う?」

言うはずがない。これまでもそう。そんなことは今までに一度もなかった。

「そう言うことだよ。群れからはみ出さないように一緒に居るだけで、それ以上でも、それ以下でもない」
「確かに、そうだった」

ちくりと、胸が痛んだような気がした。

「そもそも、俺はお前に付き合っとるだけで、俺にとってはその意味すらなかった」

だからどんなに腹立たしくても一緒に居られる。仁王にとってはの存在は意味をなさないから。そう言われている気がした。
自分で言いだしたことなのに、どんどん指先が冷たくなって、どんな顔をしていいかわからなくなった。喉の奥からせりあがってくる苦いものを必死に押し込んで、無理やり笑顔を作る。

「へらへら笑うな。不愉快」

顔が強張る。逃げ道さえ閉ざされるように、仁王がそう吐き捨てた。
泣くなよ弱虫。と、瞬間的にそんな自分の声が聞こえたような気がした。泣くもんか。だって私達は友達ではないのだから、彼が心の底でそう思っていることは分かっていたことじゃあないか。

「無意味な奴に腹を立てるなんて頭が悪いよ」

しかし、私の顔が不愉快といっている人の前にいつまでもいてやることもない。
私は方向転換をした。歩き出した私をもう誰も引き留めない。これっていわゆる喧嘩って奴なんだろうか。でもそういう希望があるものではない気もする。
仁王から遠ざかる足はぐんぐん速くなる。抱えているバッグは途端にずっしり重く感じたけれど、捨てては行けぬから抱きしめる力をもっと強くする。そのまま無心に前に進んでいたら誰かにぶつかって、重石のようだったバッグがまた手から離れた。私はハッと顔を上げる。

「あ、わり……って、さん?」

足元には教科書が散乱していた。それらを拾う気はもう起きなくて、声の主の方へ視線をやると、丸井さんがいた。「大学で会うの初めてじゃん」「どうも」と首だけ下ろして粗雑に挨拶をする。それが散らばった教科書のせいだと勘違いしたらしい丸井さんは、慌ててそれを拾い始めたので、私は時計を見て「拾わなくていいです」と首を振った。

「……うん?」
「丸井さん、今から授業あるでしょう」
「あるけど、さんもだろい」
「私のはちょっとくらい遅れても平気だから」
「俺も」

なんて会話している間に彼は教科書を全部拾って、つかむ場所のないバッグにびっくりしていた。
「何か投げやりだったわけだ」丸井さんの中で事実と誤った結論が結びつけられたらしい。別にバッグに関する災難に関してはいつかこうなると思っていたので気には留めていない。だけど真実を教える義理もないので、ええまあと適当に頷いた。

「でもぶつかっちゃってごめんな」
「私もごめんなさい」
「あ、授業どこなの」
「204で語学の、フランス語の授業」
「あれ、俺と一緒じゃん」

丸井さんが歩き出して私もそれに続いた。彼が私に気づかないならともかく、彼の髪色を一瞥しながら、私はどうして今まで彼の存在に気づかなかったんだろうと思った。二人して教室に着く頃には丁度鐘が鳴って、私達は後ろの端の方へと腰を落ち着けた。いつもは真ん中より少し前で授業を聞いているので、白板までの距離がやけに遠い。

「俺いつもぎりぎりに来てここに座ってる」
「会わないわけだね。私はここより6列は前だよ」
「ふうん。良い席?」
「良いかは人によると思うけど、授業は聞きやすいのでは」

話しているうちに出席カードと授業の資料が前から回る。だけど資料がどうやら一部足りないようだった。後ろの席はこういうことが起こるから面倒なのだ。先生もさっさと授業を始めてしまったので今更この中を取りに行ける雰囲気でもなく「丸井さん使って良いよ」と差し出すと、彼は私とそれを交互に見てから立ち上がった。丸井さんは堂々と階段を降りていく。うん?
そうして彼は先生に声をかけると資料を一部掴んで何食わぬ顔で戻ってきた。一時中断した授業は、何事もなかったように、また先生の声が空間を埋めていく。

「ん」
「え」
「こっちは俺が貰うから、さんは今持ってきたやつどーぞ」
「ど、うも、」

差し出された資料を受け取った。この人って度胸ある。ていうか髪の色がこんなな時点で度胸の塊か。
横目で丸井さんを盗み見る私の隣ではさらさらっと資料の上に丸井さんの文字が並んだ。かっこいい字書くなあと思った。私のまん丸の字とは大違いだ。先生の板書を写しながらとろとろ進んでいく授業にしばらく耳を傾けていると、不意に横から資料をすすっと差し出された。

『言い忘れてたけどこの間はケーキご馳走様』

そう言えば、丸井さんとケーキを買いに行った日は想像以上に散財をした。だってこの人遠慮がないから。いや、遠慮するなと言ったのは私だけど、まさか15個もケーキを食べるとは思わないじゃないか。

『あれ俺的に30パーセントくらいしか本気出してない』
『そうですか、その食欲不気味ですね』
『失礼な奴だな。でも今度お礼するわ』
『誕生日のお祝いにお礼は変なのでは』
『でも結構お金使わせちまったし』

こんな風にずらずらと互いの紙で会話をやりとりするのは正直初めてだった。何かヘンな感じだ。授業を受けているはずなのに、そんな感じちっともしない。いつもやって来る眠気も、今日は不思議なくらいない。今日は何限で授業終わり?さらっと書かれた文字に、5と端的に返すと、丸井さんは文字の代わりにうげ、と渋い顔をした。

『大変だな、まあ、それなら寄り道せずにまっすぐ帰ってこいよ』
『アパートまで歩いて5分の私達に寄り道するような場所なんてないけど』
『それもそうか』

丸井さんはそう小さく笑った。それからすぐに何かを思いついたようにポケットから飴玉を取り出して、それを私の手元まで転がした。『やるよ』なんて、丸井さんは次から次へと話題が沸くのだなあと思う。不思議と面倒には感じなかった。
そっと息を吐く。重たい何かが身体から抜けていくような感覚。胸がじわじわと温かい何かに溶かされている。丸井さんのお陰だろうかと、手の中の飴玉へ目を落とすと、ふいに仁王の顔を思い出した。
意味すらなかった、と言った彼の瞳は何を映していたのだろう。どんな顔をしていたのだろう。きっと冷たかったに違いない。仁王にとって私は無駄なものだから。
ぼんやりそんなことを考えていたら、ぱた、とプリントに滴が落ちた。涙だとすぐにわかった。
よりにもよって、なぜ今涙が出てくるのだろうと、私は慌ててそっぽをむこうとする。丸井さんはしばらく私のことをじっと見つめていたが、ゆっくりと頬へ腕を伸ばして、服の袖で私の涙をぬぐった。まるで、本当は最初から私の胸に影を落としていたものの存在に気づいていたかのように。

「何か投げやりだったわけだ」

と丸井さんは先程と全く同じ言葉を言って、微笑んだ。きっと丸井さんは、人の機微を察知することに長けているに違いない。
気を遣わせてごめんなさいとつぶやくと、彼は何のこと? とやわらかく笑うのだった。

人に優しくされるって、温かくて、いとおしくって、すごく、こわい。






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ずっしり重く感じたけれど、捨てては行けぬから抱きしめる力をもっと強くする。
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