04




私の耳からすぽん、とイヤホンが抜かれて緩やかに耳の奥へ流し込まれていたクラシックが少し湿っぽい空中へ漏れ出していく。遮断していた教室の騒がしさを今になって身近なものに感じながらスマホから顔を上げると、そこには仁王の姿があった。「ああ、」時計を一瞥すると、間もなく1限が始まる時間だ。おはよう、そう続くはずであった私の声は、音になる前に、彼が抜き取ったイヤホンが、どういうわけかまた耳へねじ込まれた所為で、喉の奥へ消えていった。再び耳へ流れ込むクラシックの向こうで、仁王が「めずらし」と言ったのが口の形で分かった。多分、彼がそばに来たことにも気付かずにスマホを弄っていたからだと思う。
仁王が私の隣に腰を下ろしたところで、私は彼の右肩が少し濡れているのが目に入った。

「雨でもふってた?」
「うん?」
「右肩」
「ああ、」
「朝は晴れてたよね」
「今も朝じゃけど」
「私が来る時」
「知らん」
「晴れてたんですよ」

外へ目をやると、気付かなかったことが不思議ないくらい、窓を雨が濡らしていた。仁王が来る時はもう少し弱かったそうだが、今は空からざばざばとバケツでもひっくり返したみたいな雨だ。どうりで湿っぽい空気なわけである。
私はごつりと頭を机にぶつけて、渋い顔をしていると、「傘忘れたんか」と仁王が口元に弧を描いてちょっと意地の悪い顔をした。

「残念ながら俺は持っとらんぜよ」
「それなのに右肩しか濡れてない不思議」
「来る途中で知らん女の子が入れてくれた」
「馬鹿め、人生がそんな都合良くできているはずないだろう」

と、口では言いつつも、私はこの男の人生に関しては、そのスーパー俺モードみたいなことが普通に起こり得るということをこれまでの付き合いの中で理解している。だからこそ認め難く思って、傘貸すくらいだから知り合いに決まっていると、半ばつっけんどんに私はイヤホンを外した。「いや知らん。でもまあ、向こうは俺の名前知っとったみたいじゃが」そりゃあそうだ。何せ仁王は顔は良いし、色んな意味で目立つ。それに、彼は彼と同様に何かと目立っている幸村精市という子とも知り合いらしいから、有名と有名の掛け算で有名の二乗である。学科も違うのにどういう所以からか以前一度だけ2人が話しているのを私は見たことがあった。

「まあそんな辛気臭い顔しなさんな。たかが傘忘れたくらいで」
「違うわい」
「ん?」
「確かに傘はないけど家はすぐそこですからね。でもね、そうじゃないんですね」
「おん」
「…なんと言うか、洗濯物がベランダにな…」
「…おお、」

その時私に追い打ちをかけるように、強い風ががたんと窓を叩いた。もうあの天気予報は信じぬぞと心に誓った。私の話に仁王までもが名状しがたい顔をして、ポケットから板ガムを取り出す。多分元気出せよってことなんだろうけど、ありがとうと力なく笑って引いたそれはパチンと私の手を挟み込んだ。いわゆるぱっちんガムとか言うやつである。もはや反応する気力すら失せて真顔で仁王を見上げる。

「君は人の心をとことんまでへし折るのが上手だね」
「そりゃあ光栄じゃ」
「私をいじめて楽しいか」
「結構楽しい」
「いつか己の浅はかな行動の数々に後悔する日が来るぞ」
「くわばらくわばら」

こいつ舐めてやがるな、と思った。どうしたらこんな捻くれた人間ができるのか一度親の顔が見てみたい。ああ、そう言えば、仁王には姉と弟がいるそうだが、彼らもこんな風に食えない性格なのだろうか。だとすれば末恐ろしい。確か以前仁王がちらりと零した話によれば仁王姉はやばいらしいけれど、一体どうやばいのだろう。仁王が言うくらいだからもうそういう道の人なのだろうと思う。
そんな下らないことを考えているうちに、ひょろっとしたおじいちゃん先生が教室に姿を現した。前で何やら喋っているが、教室が騒がしくって何も聞こえない。恐らく先週出された課題の提出についてとか、そんなところだ。隣で机に伏せて、前を見ていた仁王がそこで不意に、あっ、と声を上げる。

「課題、いっこ意味不明なとこあったん」
「あー、習ってないの混じってましたな」
「やっぱ」
「私は一応無理やり解いたけど」
「いつも悪いのう」
「見せるなんて言ってない」
「友達は助け合うもんじゃ」
「友人だからこそ人生が甘くないことを教えてあげるよ。私ってば優しい」
「さよか」
「つまり私こそが人生のスパイス。さあ存分に味わいやがれ」

下らな、と仁王が言ってそれからすぐに彼の視線が私の手元にある課題のプリントからスマホの方へと移った。すぐに課題から身を引いたから、きっと自分でも一応解いてはあるのだろう。仁王割と頭良いし。

「そういやさっきやけに真剣にそれ弄っとったが」
「ん?ああ、調べ物だよ」
「ふうん」

教室が徐々に静けさを纏い始め、私達の声も自然と小さくなる。うるさくなくたって結局聞き取りにくいもそもそとした先生の声に耳を傾けながら、私は「ケーキ屋をね」と付け加えた。画面を覗き込んだ仁王がおうむ返しに聞き返す。なんでまた、とでも言いたげだ。

「私そう言うの疎くって。仁王近くで良いところ知らない?」
「女のお前さんが知らないで俺が知ってると思うか」
「仁王ってなんでも知ってそうだからね」

そりゃどうも、粗雑な返事と彼の白けた視線は、せっかく褒めていると言うのに嬉しそうなそれではなかった。胡散臭く聞こえただろうか。仁王の台詞よりはよっぽど誠実に言ったつもりだけれど。

「ちゅうか突然ケーキ屋なんて、どういう風の吹き回しじゃ」
「いやまあちょっとね」
「ふうん」

ただ、丸井さんの誕生日を聞いてしまった手前、ケーキくらいはあげた方がと思っただけなのだが。それに、あの様子じゃあ誕生日会を改めてまた開くことはしないだろうし少し不憫というのと、これで今後のご近所付き合いを円滑に進められたらという打算的な考えもあって。
何だか変に食いつかれる気がしたので、私は仁王には丸井さんのことは伏せて、曖昧に笑うだけにした。話を濁されたことを悟ったらしい彼は、人を見透かそうとするあの視線で私の瞳の奥をじいっと覗こうとしていた。だけど興味が失せたのか面倒になったのか、彼はすぐに顔を前に戻して、白板の文字を雑に書き取りながら、「そういや」と口を開いた。

「ケーキ屋ならSHONANスイーツってのあるじゃろ。隣の駅」
「あっ、聞いたことある」
「美味いって評判みたいじゃけど」
「仁王食べたことありますか、美味しかったですか」
「いや俺の知り合いが前に馬鹿みたいに毎日通ってたんを見とっただけぜよ」

そう言って、仁王は持っていたペンをノートの上に転がした。話の知り合いの人というのはそれだけそこへ通いつめていたのか、その時のことを思い出しているらしい仁王の表情は呆れを通り越してただ苦笑しか零れないようだった。だけど、そこにはどこか優しい色もあったように見えたのは気のせいだろうか。そう言えば幸村精市という人と話している時も彼はこんな顔をする。もしかしたら、知り合いとか言って実は仲が良い人なのかもしれない。彼にこんな風な顔をさせる友達とやらをちょっと見てみたい気はするが、ひとまずそれは置いておいて、話のケーキ屋に目星をつけることにし、仁王に地図を描いてもらった。駅からまっすぐだから道には迷う心配はなさそうだ。
それに私が聞いたことがあるくらいの店であるし、調べてみると評判も良いという。ただ夕方頃は学生で混み合ったりするので売り切れるものも少なくはないらしいが。

「あと、そこイートインがあった気がするのう」
「左様か。せっかくだから中で食べるのもよろしおすな」
「……まさか1人で行くつもりか」
「さあてね」

女1人とか虚しい奴、そんな顔をした仁王は再び板書を写し始めて、もうこちらを見ることも私に話しかけることはなかった。私もそうした。
言って欲しかった訳では全然ないのだけれど、嘘でも彼が自分から一緒に行こうかと言わないあたり、なんだかドライだなあと、私の中に僅かに存在する、『友人』ってやつに対するウェットなところが吸い取られていって、干からびてしまいそうな気がした。
前にも言った通り、私達は友人だけれど、時折本当の他人みたいになる。きちんと友人を演じるのは基本的には会った直後くらいで、例えば授業が終わったらお互い無言で立ち上がってさっさと次の授業のために移動を始める。選択授業は割と仁王と違うものをとっているみたいだから、教室は一緒にならないし、わざわざ友達ごっこをする必要性がないと言えばそれまでなんだけれど。

と仁王雅治は所詮『とりあえず』の間柄ということを、ふとした時に思い知らされる。


雨はいつまで経っても止む気配を見せぬまま、ついには4限目を終えて帰宅時刻になっても相変わらずの空模様であった。丸井さんはもう家にいるだろうか。
私は傘を借りられる友人もいないので、鞄だけビニールで包んでそれを頭に乗せて雨の中を走り出した。アパートまで歩いて5、6分なのでそこまで雨の大打撃は受けないつもりだったが、部屋の前に着く頃には割と大惨事だった。外から見えたベランダの洗濯も、結構凄いことになっているのをバッチリ確認した。しかし確認した時刻によれば、のんびり着替えている時間もなさそうなので、私は隣の部屋のチャイムを押した。どうやら丸井さんは今日も私より早く帰っていたらしい。扉はすぐに開いた。

「へーいどちら様で、ってさんか」
「どうも、突然すいません。今お時間ありますか」
「は、」
「ありませんか」
「え、いや、あるけど、それよりずぶ濡れじゃねえか。傘持ってなかったのかよ」
「持ってなかった」
「……。ちょっと待ってて、いや、つか入って」
「いや、」
「良いから」

てっきり、傘持ってないとか馬鹿じゃねえのコイツとか、面倒くさ、みたいな顔をされると思ったのだけれど丸井さんは、そんな顔を少しも見せずに私の腕を引いて玄関まで招き入れた。先日シチューをもらった時も、ちらりとここから丸井さんの家の中を見たけれど、想像以上に整頓されている。といっても、きっちり几帳面、って言うのとは全然違うのだけれど、小綺麗で洒落てるというか、ああ、モテそうですね、って部屋。それが玄関からちらりと覗いた。丸井さんはすぐにタオルをたくさん持って玄関まで戻って来ると、一つを私の手に押し付けて、もう一つを私の頭に乗せる。それから彼は滴る雫をきゅ、きゅと丁寧に吸い取って濡れた髪を吹き始めた。まさかそんなことをされるとは思わない私は、サッと冷や汗が吹き出して「大丈夫です大丈夫です」と繰り返したが、彼は私の頭上で「うんうん」と適当にあしらうように頷くだけだった。しようがなくされるがままに頭を下げて、私は距離にして多分10センチもないくらい目前の丸井さんをじっと見つめていた。
きっと呆れられたに違いない。大学生にもなって自己管理もできないなんて。

「あの」
「なに」
「すいません」
「謝るなら今度から傘持ってけよな」
「すいません」
「良いけど」

水を吸い取るためにタオルを動かす丸井さんの手は乱暴に見えて以外と優しかった。ヤンチャ、って言葉が似合うと思っていたのに、今は何だかお母さんみたいだと、胸がじんわりした。丸井さんて不思議な人だ。
もらったタオルで顔を拭くと、丸井さんも満足したらしくて、私の頭をポンと叩いた。

「ところで、何の用だったの?」
「えっ、あ、そうそう。丸井さんはケーキ好きかい」
「…え、好きだけど?」
「買いに行こう。せっかく髪を拭いてもらったばかりだけど」
「はっ?」
「丸井さん出かける用意して、ケーキ売り切れちゃうよ」
「えっ」
「早く早く」

丸井さんは酷く面食らった顔をしたけれど、どうも私の勢いに押されたようで、かくかくとぎこちなく頷くと濡れたタオルを掴んで中へ引っ込んで行った。それから彼は財布と、スマホと、あと傘を持って玄関にやって来た。

「なんつうか突然だな、…ってそれより、待ってるからせめてさんは着替えてから行った方が」
「どうせまた濡れるから着替えてもいっしょだよ。それに早く行かないと売り切れちゃうんだ」
「風邪引いても知らないぞ」
「うん、知らなくていいよ」

丸井さんに風邪のお世話なんてさせないよ、とそういう意味で私は言ったのだけれど、彼は何故かぽかんとしばらく私を見つめていた。だけど、それから彼は困ったようにため息を零して、もう1本傘を出すと私へ押し付けた。「…お前の分の傘」私の分の傘らしい。申し訳ない。

「じゃあ風邪引いても俺は知らないけど、そうならないようにさっさと帰るから」
「うん、それが良いね」

そうして私と丸井さんは部屋を出たのだけれど、ふと丸井さんが「いけね、言おうと思ってたんだ」と急に私を引き止めた。「さん洗濯物干してんだろい。外から今にも風で飛びそうなずぶ濡れの洗濯見えたぜ」洋服も着替えないと言っているのにこの後に及んで丸井さんはそんなことを言うなんて、気にしいである。良い加減時間のロスが過ぎると思って、丸井さんの背中を無理やり押しながらホントもー私のことは大丈夫っすから、とあしらった。

「私は去る者追わずなんですね」
「いや洗濯物は追ってやれよ」
「良いから丸井さん早く」
「…洗濯物飛ばされても俺は探してやんねえからな。それも『知らねえ』からな」
「おっけーおっけー」
「ていうか何で突然ケーキなんだよ」
「丸井さんは質問ばっかりですね。誕生日ケーキって言ったじゃんすか」
「いや一言も聞いてねえよ」

あれ、言ってなかったか。
私は彼の誕生日に持ち合わせのポッキーしかあげられなかったのにシチューまで頂いてしまったから、そのお礼も兼ねていたのだが。
そう伝えると彼は突然石になったみたいにその場でぴたっと止まって私じゃあ押してもびくともしなくなった。

「もうホントそこまで気を遣わなくて良いから」
「君は誕生日に気を遣って貰わずしていつ気を遣われるつもりだ」
「…でも申し訳ねえし」
「本音を言うと私にはこのケーキで丸井さんとの付き合いが円滑になれば良いなって下心があります」
「…は?」
「だから丸井さんは私に利用されてください。その代わり貴方は美味しいケーキが食べられます。それで如何ですか」

どうですかって、…丸井さんの瞳に困惑の色。まだ会って1ヶ月とかそこらだけれど、この人って、一瞬のうちに頭の中でいっぱいいっぱい考える、いや、考えられる人なんだなあと思った。良いことも悪いことも、何で?って思うことも、彼の頭の中では見落としたり流れて去ってしまわずに全部掬い取られて頭の中をぐるぐる巡る。きっと頭の良い人だ。
だからかもしれない。私といるとすごく変な顔ばかりする。私以外の人といるところも見たことがないけど。私の言うことがきっと変で、だから彼は一生懸命理解しようと言葉を咀嚼してる。でも今はケーキが売り切れるからそれを待ってる暇はない。

「もたもたしてると欲しい物何にも手に入らなくなっちゃうよ」

丸井さんの難しい顔がふっと解けた。ほらまたびっくりした顔。どういうことだ。

「迷ってるならとりあえず早くおいで」

私がそう言って彼の腕を掴むと、彼は小さく笑って「俺めっちゃ食うから」と石になっていた彼の足が動き出した。

「私は丸井さんが慎ましい人だと信じているよ」
さんに言われて今日は遠慮しない日って俺決めたからな」
「そっかあ困ったなあ」

ありがたいことに、アパートの下までやってくる時には、雨脚は少しだけ弱まっていた。周りのアスファルトは平らではなく所々ぼこぼことしていて、そこに水がたくさん溜まっていた。それを避けつつ私達は駅まで急ぐ。
まだ帰宅ラッシュの時間ではないけれど、駅からは傘をさした人達がぞろぞろと吐き出されて、やけにかさばって見えた。傘なだけに。そう言ったら丸井さんは曖昧に笑うだけだったので、もう言うのはやめようと思う。気まずくなった空気を変えるためか、丸井さんがケーキ屋の名前を訪ねてきたので、SHONANスイーツだと答えた。するとどうやら中学の頃からの丸井さんの行きつけらしい。今更行き先は変えられないけど、いつも行く場所じゃあ丸井さんはつまらないかなとこっそり申し訳なく思った。まあしようがない。
電車の中は湿気と暖房でちょっと気持ちが悪いくらいだった。ざあざあと横切っていく風景を目で追っているとふと丸井さんが「さんて変、…いや、不思議な人だな」なんて言った。視線を彼へ移すと、丸井さんは少しバツが悪そうに私の視線から逃げる。

「よく言われるけど、自分ではそんなつもりないよ」
「…まあそりゃそうだ」
「私はちゃんとしてるつもりなんだ、自分では」

せっかく拭いた服も、電車の中の湿気をどんどん吸い取って私を気持ち悪くさせるようだった。傘の先からぽたぽたと垂れる雫を突きながら私は、「だけどね」と言葉を続ける。隣にいる丸井さんが私の方を見たのが分かった。

「だけど、私が周りと合わせようとする度に人が離れていくんだよなあ。不思議だ」

うーん、どうしてだろう。丸井さんなら真面目に答えてくれそうな気がして、純粋に疑問を零すと、それを遮るように私達の目的の駅へ着いた電車の扉が開いた。冷たい空気がさあっと中へ流れ込み、私達は人の流れに乗ってホームへと降りる。
私は服でぱたぱた自分を仰ぎながら電車の中、気持ち悪かったね、と言うと、彼は「ちょっとな」なんてやっぱり悲しそうな困ったような、そんな変な顔をして答えた。



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