03


別に誕生日を祝ってもらえないことに腹を立てるような歳でもないけれど、いくら何でもこんな誕生日ねえよな、とちょっとだけ思う。ベッドに放り出したスマホの画面には、ジャッカルとか仁王とか赤也とか、家に来るはずだった友人達の断りのメールが並んでいた。

「ジャッカルが店の手伝いで、仁王と赤也が断れないバイトね。はいはい」

幸村君も妹が熱を出したとかで来れなくなったことは朝の段階で聞いていたし、他のメンバーも、もっと前から予定がつかないことに詫びを入れられていた。つまり今日は一人でハッピーバースデーなわけで。
大学生にもなれば、学科も違う上にバイトも学科での付き合いもある。そうなれば当然時間が合わなくなることは分かりきっていて、たまにテニスをするために集まることはあっても、例えばこうして誕生日を祝うことはしづらくなる。それはしようがないことだ。まあ、学校で既にプレゼントは受け取っているし、別に誰かに改めて祝ってもらわずとも構わないのだけれど、それにしたってタイミングが悪い。
それだけではなくて、赤也にどうせ先輩の家に行くならシチューが食べたいなんて騒がれて、この時期にかよなんて思いながら大量に作ってしまったそれが、俺の後ろには控えている。大食らいなのは自覚しているが、どうにも今日は食欲がわかないので俺は鍋には手を付けずに、柄にもなくベランダで夜風にあたりながらゆらゆら揺れるインスタントコーヒーの湯気を夜へ逃していた。何これ俺寂しい。
春とは言えどもこの時期の風はまだ少し肌寒く思える。腕をぶらりと垂らして、そこここで灯る家の明かりを、ひとつふたつと無意味に数え始めたときだった。

「どうもこんばんは」

そんな声が聞こえたと思えば、隣の部屋のベランダの敷居から、がひょこりと顔を覗かせた。ベランダを出入りする音は聞こえなかったので、多分、俺よりも先にいたのかもしれない。それにしたって声をかけられるとは思っていなかったので、俺は面食らいながらどこか気の抜けた声で「こんばんは」と返した。ちょっと寒いですね、と彼女が笑う。

「丸井さんがベランダに出るの、珍しいですね」
「え」
「私は結構ベランダにいるので」
「はあ、」

え、何の話。
確かに普段は、洗濯くらいしかベランダに出ることがないので、俺がこんな風に意味もなく夜空を見上げることは珍しいけど。「今日はたまたまって言うか、」黄昏たい気分だったみたいな。後半の言葉は飲み込んで、そんな風に濁すと、自分から聞いた癖に彼女はあまり興味がなさそうに「ふうん、」と頷いた。視線が俺から空へ移る。以前も思ったけれど、何だかよく分からない人である。沈黙が続いてしまうかと思って、俺は適当な話題を探し始めた時、彼女が再び口を開いた。「そうそう」

「丸井さん、もう晩御飯食べた?」
「えっ……いや、まだ食ってないけど」
「左様ですか」

唐突な質問に、ふと、キッチンに残された鍋が頭に浮かんで、俺は肩を竦めながらそう答える。存外素っ気ない声が出た気がする。そんなつもりではなかったけれど。俺の返事を聞くと、彼女は何度か頷いて、顔が敷居の向こうへ引っ込んだ。え、終わりっすか。
俺は、どうしてそんなことを聞かれたのだろうかと思ったけれど、もしや今のは彼女なりに気を遣って振った話題だったのかもしれないと、ふと敷居の方を一瞥した。この人会話が下手すぎるし、いい天気ですね程度の会話だったのかもしれない。
もっと気の利く切り返しでもすれば良かっただろうか。例えば、「さんは?」とか。色々と思考は巡らせたが、この妙の間の後では何を言っても遅い気がして、とりあえず「……あの、何で?」なんて、問われたことへの疑問を素直に返した。
言ってから気づいたけどこの質問一番困るやつ。

「え、丸井さんの家の前を通るといつも良い匂いがするから、今日は何かなって、なんとなく」
「……そうなんだ、そんなこと初めて言われたわ」
「丸井さんの家の前、お腹空くよ、結構」

面倒になったか、さんの顔はもうこちらを覗かなかったし、俺もそうしなかった。敷居があってもきちんと声は聞こえるので困りはしない。それでも彼女が笑ったのがなんとなく分かって、彼女もこんな風に戯けるんだなあと、俺は冷め始めたコーヒーを啜った。それからすぐに「今日はシチューだけど」と聞かれてもいないのに俺はそんなことを言った。まだ手はつけていないけどな、と付け加えて。さんとはきっと話が合いそうにないと思っていたけど、話してみれば、言葉は殊の外抵抗なく口から出て行くようだった。
「ほう、シチューとは良いね」と隣のベランダからぶらんと腕が伸びるのが分かった。

「本当は今日友達が来る予定だったから、そいつらと食べるはずだったんだけど結局皆都合悪くなったみたいでさ」
「ありあまっているわけかあ」
「まあ、そういうこと」
「ふうん、だから丸井さんはさっきから元気がないわけだね」
「え?」
「え?」

元気じゃないでしょう? なんて可笑しな問いが飛ばされて、彼女が再び顔を覗かせた。あからさまに元気なつもりはなかったけれど、元気がないつもりもない。それにまだひと月やそこらの付き合いの彼女に(というか、顔をあわせるのさえ数回程度)、テンションの度合いを指摘されるとは思わなかったが、言うほど暗く見えるのだろうか。いやそもそも、付き合いの長い友達と一回都合が合わなかったくらいで落ち込む程メンタルは弱くないつもりだ。否定すると、「あ、そう」意外そうな彼女の返事は形だけで、視線がまるで俺の心まで見透かそうとしているように見えた。

「友達を集めて手料理をふるまうくらいだから、てっきり今日は特別な日なのかと思った」

ピンポイントな言葉に俺はどきりとする。見透かそうとしているのではない、とっくに見透かしていたんじゃないか。
俺は思わず言葉に詰まったので、彼女はどうやらそれを肯定と捉えたらしく「4月が誕生日でしたよね」と続けた。思わず息を飲む。いくらなんでも計り知れなさすぎる。誕生日がいつかなんて話したことがあっただろうか。

「いや学生証を見せてもらった時にちらっと。日付けまでは覚えてなかったけど」
「……ああ」
「もう過ぎたのかなって思ってたんですけど、今話を聞いててもしや今日が誕生日会とかだったのかなって」
「鋭すぎだろい……」
「うーん、恐らく友人の……そう、友人の影響というやつである」
「なに、お友達も鋭いの」
「まあ、そんなところかな」
「へー……」

さんが曖昧に笑った。それがどこかぎこちなさを感じたのは俺の気のせいだろうか。
彼女の話に、なんとなく自分の友人を思い出しながら、俺はどこにでもそう言う奴はいるのだなあと思った。というか、さんを含め自分の周りにはとりわけそう言う人間が多いような気もする。ちょっと恐ろしい。

「今日なんですか、誕生日」
「あ、まあ、そう。4月20日」
「ふうん。それじゃあ、ハッピーバースデー丸井さん」

ふっと敷居からポッキーの箱が差し出された。ざら、と急かすように箱が揺れる。多分誕生日プレゼントってことなんだろう。今はこんなものしか手元にありませんが、なんて箱を押し付けられて、俺は断る間も無くそれを受け取った。
彼女は自分の手元にもまだお菓子を持っていたらしい。飴を口に放り込んで、それから、まあ、何にせよ、と切り出した。

「また後日やるんでしょう、誕生日会」
「え、いや、どうだろ」

言われてみれば結局延期なのか中止なのかははっきりとしていなかった。恐らく次に集まれると言ったら、来週以降になる。5月に入れば、今度は別の人の誕生日もあるわけだから、改めてやることは無いだろう。学校で皆に祝ってもらったし、プレゼントも回収したから、心残りはあまりない。それに中学の時も、高校の時も、そういう誕生日会を開けない年は何度かあった。
だけど、そういう時でも、家に帰れば、必ず家族が祝ってくれていたから、今年みたいに黄昏ることはなかったけれど。だがまさか20歳になってまで、友達に祝ってもらえなかったからって家に帰るのも何だか格好がつかない。兄ちゃん恰好悪い、なんて昔は素直だった弟たちにからかわれる様子が想像できた。だから言葉だけで十分有難いからな、と、俺は良い人ぶって、気にしてない風を装った。
口をつけた手の中の珈琲は、いつの間にかすっかり冷え切っている。

「ま、この年になってわざわざ誕生日を祝うこともないし」
「さいですか」
「おう」
「それで、本心は?」
「え?」
「年齢と誕生日を祝うことって、私は正直関係ないと思うんだけど、違う? 何歳になっても祝えば良いし、手放しに喜べば良い」

まるで、本当は祝われなくて寂しいくせにと、そう言われている気がした。いや、まあ、寂しくないといえば嘘になるけれど、大したことでもないし、そもそもそんなことを言う年でもないではないか。実際に言い返しはしなかったけれど、まるで自分に言い聞かせるように心の中で並べ立てた言葉はとても言い訳がましく思われて、妙に体裁が悪くなる。

「何故強がるの。誕生日くらい、正直になっても罰は当たらないと思うよ」
「強がってなんかいないけど……」

ていうか、何で大して仲良くもない隣の部屋の人とこんなことを話しているんだろう。先日は挨拶だけしてさっさと前から立ち去ってしまうくらいのドライさだったのに、いくら俺の考えていたことが全部顔に出ていたとしても、今日はどうにもずかずかと踏み込んでくる遠慮のなさを感じる。いや、遠慮のなさと言うよりも、愚直と言う方が近いかもしれない。
それでも、そんな彼女に自分もまた饒舌であったのは、寂しさを紛らわすためだったのではないかと、心の片隅でこっそり感じた。
俺は言葉が出ずに沈黙を守ったままでいた。夜風がふわふわと頬を撫でていく。不意に、さんの顔がこちらを覗き込んだ。

家に伝わる正直になれるじゅもんがあるんだけど、知りたい?」

何だそれ、と思った。俺がそんなふうに怪訝な顔をしたからか、彼女はどこか得意げに笑って人差し指を立てる。それをくるりと回した。

「オープンセサミー」

日本語で「開けごま」。とてもメジャーな呪文だ。だが、正直になることと、繋がりは見えない。

「なんだよそれ」

と俺が言うと、彼女は目をしばたかせて首をかしげた。ひどく幼い顔つきだ。

「開けごまだよ。知らない?」
「それは知ってるけど、何でそれが今出てくるわけっていう」
「昔私が嘘を吐いた時にお母さんが良く使っていたまほうの呪文」
「ふうん」
「ごまって昔は宝物のように重宝されていたから、このじゅもんって、『ぎっしり詰まった素敵な宝物よ、早く出ておいで』ってそういう意味なんだろうなって思う」

つまり、素敵な本当の気持ちを隠していないでそこから出ておいでと、そういうことらしい。そうやって、呪文を唱えられて抱きしめられたら、もうお母さんには嘘がつけなくなってしまうのだと、さんは言うのだった。

「だからね、私も丸井さんに魔法をかけて本音が聞けたらと思うけど」

ちらり、と彼女の瞳が俺を見上げた。遠慮がちな、そっとした視線だ。

「そんなんで人の心が開けたら苦労しないと、私は思う」
「そりゃあそうだ」

自分で言うんだなあと、俺はこっそり苦笑する。だったら何のために俺にその魔法をかけたんだろうと、カップに視線を落とすと、珈琲はもうすっかり残っていなかった。
「それだけ」と彼女は告げた。

「来年は素敵な誕生日になりますように」

と彼女が言って、敷居の向こうに見えなくなって、俺は気づいた。さんは本音を聞きだしたかったわけではないのだろうということに。きっと彼女は、人の気持ちをとても大事にできる人なんじゃないかって。
春の風が柔らかく髪をなでる。じわりと胸がほどけていくような気がした。

「あのさ、さん」

敷居の向こうに見えなくなったさんを追うように、今度は俺が顔を覗かせる。彼女は今にも部屋に戻って行こうとしているところであった。彼女は、ゆるくこちらへ振り返る。

「なんでしょう」
「シチュー、好き?」
「え?」
「たくさんあるんだよ。嫌いじゃなかったら、貰ってくれると嬉しい」

何故自分でもこんなことを言い出したのかは分からない。彼女に諭されたからなのか何なのか、何か言わなくてはなんて、唐突に俺を焦らせたものの正体は分からぬまま、俺は春の夜に今にもふっと溶けていってしまいそうなさんを見つめていた。するとすぐに「おおー」なんて間延びした気の抜ける声が返る。

「これは有難い」
「うん、」
「器持って伺いますね」

そうしてさんは部屋の向こうに見えなくなった。多分、数分もすることなく玄関のチャイムが鳴ることだろう。

隣の部屋に引っ越してきた彼女はやっぱりどこか変で、ついでに俺の調子も狂わせてしまことが良く分かった。
でも、まあその人のおかげでひとまずシチューは予定よりも早めに片付きそうだ。





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