「ぶは、なんや?それで謙也はそんな怒っとるんか」
「白石、笑い事ちゃう!」


忍足のヒステリックな声が寒空の下に溶けていく。朝練開始早々肩を怒らせて現れた忍足と、何事もなさげに後ろに続く私を出迎えたのはその様子を怪訝そうに見ていた白石君だった。そんな彼に忍足は大体のいきさつをべらべらと語って聞かせ、現在に至る。相変わらず白石君はけらけらと肩を震わせて私達を交互に見、私はというと面倒なことになったないと自分の足元のアリさんと戯れている。いや、ただ眺めていただけだけれど。
そもそもの始まりは学校に少し来る前。私と忍足が二人乗りをしている時まで遡る。単純な話だった。私が忍足謙也の思い出せなかったと、そういう話なのである。ただ問題なのが、それがど忘れとか、分かっていても口に言葉として出てこなかったとかそういう話で終わらないところだ。

私は、本当に彼の名前が分からなかったのだ。知らないと言ったほうが正しいのかもしれない。名前を聞いて、どこかで聞き覚えがあるような、と、そう思ったくらいである。しかしそのことを言うのはなんだか憚られてこの二人には言っていないけれど。
いつの間にか忍足の恨めしげな視線が私へ注がれていたことに気づいて、私は取り繕うように


「もともと私は人の名前を覚えるのは苦手だしね、うん」


と大きく頷けば「今更!?もう三年間一緒におるのにっ」と彼は顔を歪めた。逆効果だったようだ。「うーん、時の流れって早いねえ」「そういう話やないわアホ!」ああ、とってもめんどくさい。


「ていうかさ、忍足って名前覚え辛いって言いますかね…」
「なんでやねん!引いたり押したり、謙也です!」
「…傷つけまいとずっと黙ってたんだけどそのギャグ超絶面白くないよ」
「ほなら何で今言ったん!?」
「何か瞬きしたらもう忘れちゃってるくらい印象薄くてつまらなくて、これはお笑いとして致命的だと思った私の優しさから」
「その優しさが俺を抉る…ッ!」


そんなやりとりを繰り返す横で白石君は笑いを堪えるのに必死そうであった。私はと言えば、そろそろ騒ぐ忍足が面倒になってきたあたりだったので、隙を見て部室の方へ逃げることにした。後ろで待たんかいとか聞こえたけれど、知らない知らない。部室のドアを閉めてホッと息をつこうとした時、そこにいた先客に気づいた。
着替え中の財前が、ウェアからもそもそもと顔を出しながらこちらへ振り返る。別に背中をちらりと見たくらいで悲鳴を上げるほど私は乙女なつもりはないけれど、小さくはねた心臓をこっそり押さえつけて「ごめん、すぐ出て行くね」と彼の隣のロッカーから部活ノートを取り出す。
そして私がロッカーを閉めたタイミングで、「先輩、」と私を呼ぶ声。


「…なんだい?」
「何騒いではったんですか」
「へ?」
「謙也さんの馬鹿みたいな声が中まで聞こえてきましたわ」
「…ああ、何か私、忍足の名前が出てこなくてさあ。忍足に怒られちゃったよ」


変だよねえ、とへらりと笑って、さっさと部室から出て行こうとした私であったが、それは叶わなかった。掴まれた腕に、ぎりりと力がこもったような気がする。途端にとても居心地の悪さを感じた。胸騒ぎを覚えた私は振り返らぬまま、彼の言葉を待つ。


「何もおかしなことはありませんよ」
「…は?」
「やってあんた、謙也さんの名前だけは覚えようとせえへんかったやろ」


彼の台詞は予想だにしなかったものだった。そもそも言っている意味が理解できずに振り返れば、「何やねんその顔」とあからさまに苛立ちの色を浮かべられてしまう。いや、意味が分からないんだけども…


「それはこっちの台詞ですけど」
「ごめん、ちょい待って」
「待ちませんよ。あんたここで何しとるん」
「ざ、財前?分かるように言ってくれるかい?」


私は似たようなやり取りを、感覚を知っている。つい先ほどきた立海大附属の人からの電話でも、こんなような理解し難いことを並べたてられた。彼は私との距離を詰めて掴んだ腕をそのまま後ろの壁に縫い止める。「俺にも分からん」彼が首をもたげる。


「気づいたらこうなっとった。気持ち悪いことに、俺ん中でもあんたの存在が当たり前やって感覚がある。けど、それはちゃうやろ。それだけは分かる。あんたのいるべき場所はここやない」
「…何を、」
「あんた誰や」


『君は、誰?』


反芻するその言葉を、私はきちんと理解する前に拒絶した。そんな台詞は聞きたくない。私は誰になんと言われようと、ここのマネージャーで、ねえ、そうでしょう。黙らないでよ。
怖い。私はこの恐怖を知っている。以前、どこかで感じた。自分の居場所がどこかわからない、あの恐怖。傷つけられたくない。自分の居場所がここじゃないならどこに、行けば。


先輩、」
「やだ、」
「あんたまたそうやって」
「知らない知らない聞きたくない!やだやだやだやだ」
「あーもう先輩!」


ぎゅ、と抱き寄せられた私は、一瞬だけ頭が真っ白になって視界がちらついた。「…別に先輩を拒絶しとるわけやなくて」財前が困ったようにボソボソと言葉を紡ぎ、私はたっぷり間をおいてから、うん、と、小さく頷く。なんだかこの感覚も知っている。懐かしい、気がする。


「先輩聞いてください」
「…」
「先輩の事は、俺らやなくて、別の人が待っとるはずです」
「…りっかい?」
「…なんや、分かっとるんですか」
「ちがう、でんわで、りっかいのひとにも同じこといわれた」
「それで、先輩はなんて?」
「どちらさまですか、て」


電話で話したことをありのままに伝えると、財前はそれはもう盛大にため息を吐いて私を自分の腕から解放する。「あんたがいるこの場所は四天なんやし、また嫉妬されますよ」


「嫉妬…?」
「…」
「…」
「まさか何も覚えとらんとかいう」
「…」
「…はあ、…何やそれ。そこまでとか、むかつく」
「え、一体何の話を、っわ」


先程から財前の言っている意味がよく分からなかった。まるで私が以前立海に嫉妬されたような言い方である。記憶を探れどもそんなことは身に覚えがないわけで、そもそも立海ときちんと接触したことなんて、夏合宿の時だけだ。その時に何かあったというのだろうか。そんな風に首をかしげる私に、財前はなぜか痺れを切らしたらしい。バン、と先程よりも強く、再び壁に縫いとめられると、彼は私の唇すれすれのところに噛み付くようにキスを落としたのである。


「…ひ、ちょ、何を…っ!」
「次会った時にそんな事言いよったら次はラケットで殴りますわ」
「はあ…?!」


それから彼は私の額にかなり強烈なデコピンを食らわすと、颯爽と部室を出て行き、取り残された私は、部室の扉が閉まる音と同時に床にぺたりとへたり込んでしまったのである。



もう、私には訳がわからなかった。



景色がぼやけてく
(この世界は本物?それとも、)

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( やっぱり非日常 / 140221 )