「良く書けているな」 「へ?」 突然頭に載せられた柳の手に、私はハッと我に返って顔を上げた。あまりにノートへペンを走らせることに集中していたからか、柳が隣に並んでも気づかなかったようだ。だから柳はワザと声をかけたのだろうかと、ごめん、なんておかしなタイミングで謝ると、彼は「何故謝る」と少しだけ首を傾げた。 「いや、私に用があったのでは」 「特にはない」 「そう、っすか」 用もないのに柳が声をかけるなんて珍しいことだったので、ぼんやり彼を見上げていると、彼がふわりと笑った。完全に不意打ちだったので、思わず私は照れてしまう。そんな私に、彼は開かれたノートを指して、良く書けている、と同じ言葉を繰り返した。ああ、このノートね。 「がかなり集中していたから、誰もお前に話しかけられずに右往左往していたんだ」 「マジかよ」 「しかも赤也が話しかけてもお前は無反応だった。珍しいというか、興味深いな」 向こうでいじけている赤也が見えるのはそのためか。私はついつい昨日の首筋を噛まれました事件を思い出して、肩をすくめる。いつもならフォローに入るのだけれど、今はそんな気もしないので、「ハハハ落ち込んでらっしゃる」と真顔でそれを流した。 それから柳に赤也のことを詮索されないよう、どうすれば良いか考えていると、そこに現れた番長から斎藤コーチに呼ばれていることを告げられた。 何かヘマをやらかした覚えは、ない。そろそろ中学生の担当にでも戻してもらえるのだろうか。まあ何にしても赤也のことを突っ込まれる前に柳から離れられるのは良かったと、私は彼に愛想笑いをして、本部棟へノロノロとかけて行った。 斎藤コーチはモニタールームにいた。適当な椅子に私を座らせて彼もその前に腰を下ろす。以前まで、私は彼に敵意を剥き出しにしてきた。しかし不思議なことに今はそんな気持ちが頭の中に少しも生まれてはこなかったのだ。 「あー、何のご用ですか」 「今日の分のノートの点検です」 「は?…あ、はあ、」 いつもは一日が終わったら斎藤コーチに渡すようにしているのに、一体どうしたのだろう。彼は私からノートを受け取るとやけに丁寧にそれを眺めて、閉じた。彼の目が私をしっかりと捉える。 「良く書けていますね」 先程柳にも同じことを言われたなあ、と、返されたノートをぱらりと捲る。以前とたいして変わっていないように思えるのだけれど、二人が言うほど、何かが成長したと思っていいのだろうか。相変わらずにこにこと笑っているコーチを一瞥してから、これだけですか?と私は問うた。 「まだ何かあるから、わざわざこの時間に呼んだのでは。タイミング的に、私の新しいメニューですか」 「流石、分かっていますね」 彼が私を褒めるなんて、少し怖い。まあ中学生の担当に戻れるならどうでも良いが。コーチは「洞察力も十分つきましたね」と頷いてから、やけにゆっくりとした動きで手を組んだ。 「良く頑張りました」 その言葉の意味が、一瞬理解できなかった。まるで、もう終わりですよ、と言うかのように、彼ははっきりとそう言い切った。私はマネージャーとして、合格点を貰えたと思っていいのか。それにしても、何か引っかかる。彼の言い方といい、雰囲気といい。手放しに喜ぶのは違う気がして、私は目を泳がせた。 「…斎藤コーチ、私が今何を考えているか、分かりますか」 「ええ。ちなみに、この場合貴方の『反応』は正しいです」 「そうやってはぐらかされるのは嫌いです」 「そうでしょうね」 彼は笑ってから、椅子から立ち上がり、モニターを眺めた。高校生が映るそこには、懲りずに種ケ島がセグウェイを乗り回す姿がある。怒らないのだろうかとも思ったが、彼は遊びだけにかまけているわけではないから許されているのだろう。種ケ島はキョロキョロと辺りを見回している。なんとなく、私を探しているのだろうな、と思った。いつも追いかけてくる私がいないから。斎藤コーチはその様子を眺めて、それから私を見た。全ての種明かしをしようとしている表情だった。 「さん、貴方の一番直さなければいけなかったところは、どこだと思いますか?」 「…仲間に依存、しているところ、ですか」 「それも勿論そうですが、違います」 「なら分かりません」 「貴方は最近、自分の成長を目の当たりにしたはずです」 そうだっただろうか。ここ数日間の自分の行動を振り返っては見たものの、イマイチ思い当たる節がない。答えが知りたくて、わざとらしく、大きく首を捻る私に、斎藤コーチは苦笑を零した。 「貴方はネガティブだったでしょう」 「…いや?全然」 私がネガティブとか、いやいやいや、むしろポジティブ過ぎて笑えるくらいなんですが。真顔でそう答えたけれど、どうやら私は自分を測り損ねていたらしい。斎藤コーチ曰く、私はネガティブを極めていた。 自分の代わりはたくさんいると、自分の能力を過小評価し過ぎているし、誰かにからかわれただけで悪い方へと考えて行く。それが一番私の成長を止めていたのだと。 「必要なのは、自分の価値を認めること。確かにポジティブ過ぎるのも考えものではありますが、貴方にはそれ程の価値があるんです」 「だから、私を高校生のところに?」 「どこでもやって行けると、そう思うことができればと思って。加えて種ケ島君の自由気ままな性格が貴方に良い効果をもたらすと考えました」 どうやら、斎藤コーチの判断は正しかったようだ。私は高校生に宣言したように、今では自分に価値があると思っているし、実力も自慢できる程はあると感じている。なんだかこの記録を取り続けてきたノートも誇らしく思えてきた。 「良い結果になったのはわかりました。それで、私は次は何を?」 「はい。貴方には家に帰ってもらいます」 「…は?」 彼は最後の試練ですかね、と続けた。は、家に帰るって、合宿から出て行くってこと、だよね?理由を求めるように顔を挙げれば、彼はこう言った。「最後に必要なものは、離れていても仲間を信じる心」と。 「まあ僕はたかが合宿を離れただけで何とかなるようなものではないと考えていますが、やらないよりは良い経験になるかと。それに、君も知っていると思いますが、明後日あたりに、海外遠征組がここに戻ってくるんです」 それは自分でも調べた。ここには確実にいない人間の名前が書かれた名簿があったのだ。同じことに気づいていたらしい堀尾君とも意見が一致している。まだこの合宿には何かが隠れていると。ちなみに言うと、海外遠征組には、懐かしい名前もあった。立海のOBである、毛利の名前だ。私は彼が大の苦手だけれど。 「海外遠征組の皆さんは貴方のような存在を恐らくは受け入れないと思いますし、少々荒っぽいところもありますから、貴方に危害が加わる場合もあると思います」 「つまり、明後日には出て行けと」 「単刀直入に言えば」 「…そうですか」 何だか、拍子抜けだった。自分はもう帰れるのかと。斎藤コーチが私をこの合宿に招待したのに、追い返すのはどういうことだとは思ったが、多分私の成長に時間がかかり過ぎたのだと思う。コーチが私の成長に関して見誤る以外に、こんなに急な帰宅を強いられる理由が見当たらなかった。仕方がないと、妙に納得している自分がいた。立海の皆と離れるのは少し、ほんの少しだけ寂しいけれど、別に一生会えないわけではない。すぐに彼らも帰ってくるのだから、ここに残りたいと駄々をこねる気は起きなかった。 ただ、何と言うか、焦燥感があっただけである。 私は目の前のテーブルに伏せて、そうですかそうですかと呟き続けた。するとその時、柳がそうしたように、斎藤コーチの手が頭に乗って、優しく頭を撫でたのである。 「お疲れ様です」 その言葉がストンと胸に落ちた。ああ、私は頑張ったのだな、と。全国大会の時に残してきたわだかまりを、皆を全力で応援して、サポートして、そうした仲間として大切なことをきちんとやりきれた気がして、私は小さく息を吐いた。 ただ、斎藤コーチに撫でられていることが気恥ずかしくて、その反対に心地よくもあって、その狭間で落ち着かない自分を鎮めるために、私は口を開いた。 「…最後だから言いますけど、私、貴方のこと大嫌いです」 「知ってますよ」 自分は最後まで可愛くない。そんな私を、彼は笑っていた。 コーチと柳は、なんとなく似ているなあ、と思った。 ありがとうって言いたかったんですが (まあ、多分伝わってるよね) ←まえ もくじ つぎ→ ( のどが痛い / 130928 ) |