秋の記録:13


私が何を言ってそうなったかは、今となってはもう思い出せないけれど、気付いた時にはクラス中の刺さるような鋭い視線が、私に向けられていた。

ひやり、と壁の温度を背中で受け止める。もう逃げ場はなかった。いや、初めから逃げるつもりもない。いつかはこうなる時が来るだろうと、私は幼いなりに気付いていたのだ。


「お前カワイソーな奴だよなあ」


手前の男子の口角が僅かに上がる。その笑みに背筋がゾッとした。今にもしゃがみ込んでしまいそうなくらい、私の足は震えていた。おかしい。私は何を今更怯えていると言うのだろうか。


「お前がそんな性格だからさあ、父ちゃんも母ちゃんもあんま家にいないんじゃね?」
「確かにー。いつも無表情でキモチワルイし?」
「この能面女」


自分へと投げ付けられる言葉を黙って聞き流す。コイツらが人を苛める事で満足している最低な生き物だって事ぐらい知っている。そして私もその中の一人なのだということも。ゆっくり視線を持ち上げると、皆の中に紛れて、違うクラスの人気がこちらへ薄く笑みを浮かべて立っていた。私が以前、女の子全員を味方につけて仲間外れにした子だった。なるほど、私の平穏が崩れたのは彼女のせいだったか。


「ああ、お前んち金持ちだったよなあ、金持ってきたら許してやるよ」
「あーそれいい。ほら、金持って来ます許してくださいって土下座しろよ」
「…冗談」


私がそう吐き捨てれば、すぐに胸倉を掴まれて、ベランダの方へ押しやられた。頭を掴まれて思い切り後ろに傾けられる。頭の下に私を支えるものは何もなかった。
あ、落ちちゃう。


「せっかくオトモダチに戻るチャンスやったのに」
「…っどうせ、嘘、だもん」
「当たり前だろうが。誰がテメエの友達になるかよバーカ」

「死んじゃえ」





文化祭の翌日である今日は代休となっているが、俺達テニス部に休みはない。本来3年はこの時期、部活に参加する必要はないのだが、高校受験があるわけでもないし、後輩に伝えなくてはならないこともまだまだあるから、こうして当たり前のように部活に顔を出していた。とて同じ事である。マネージャは彼女だけであるから、赤也に全てを託して行かなければならない。(赤也はそれに関してはかなり心配な状況にいる)彼女は怠惰に見えて意外に仕事をこなしていたから、いなくなると実はかなり大変なのだ。
まとまりがなくなったが、つまり今日、彼女がいないそんな大変な一日が来るだろうと、俺は予測していた。
何故かといえば、もちろん昨日のの様子を見れば誰しもそう考えるのが妥当だ。今までの彼女の行動パターンからしたって。なのには平然とした顔で部活に現れたのだ。


「…、はよ」
「え…先輩、おはようございます」
「ちょりっす」


間抜けな挨拶をしながら、彼女は日誌をパラパラとめくり始め、いつもの如くマネージャー仕事を開始した。
そんな彼女を横目に、赤也が俺にそろそろと近付いて来る。聞いて来る事は分かっていた。


「ちょ、ぶちょー、昨日のあれって俺達の見間違いだったんスかね」


俺はちらりと彼女を伺う。どうだろうね、なんて、無意識に口が動いていた。いつも通り?…いや何か違う。確かにアレは彼女のいつも通りと言って差し支えないけれど、違うのだ。昨日までとは明らかに違う。あのは、エゴで自分を守っていた時の、彼女のいつも通り、そう見えた。
そこまで考えが辿り着いて、俺は気付いた。昨日の事にが関わっていることはまず間違いない。つまり、ついに彼女はに対してもエゴを使ったのだ。


「結局逆戻りだ。最悪な状況だな」
「お前もそう思うか」


独り言に柳が反応して、言葉を寄越した。仁王や丸井辺りも気付いているに違いない。アイツらは何も言わないだけで勘は鋭いから。柳は「どうする精市」と珍しく、少し困った様に眉尻を下げた。どうするって言われてもなあ。今のに俺達が無理矢理語りかけるのは逆効果だ。言葉が届く前にシャットアウトされるのがオチ。ならまだしも。しかし今回はそれが原因であるし。


「今回も原西は色々と動いてたみたいだけど」


やはり俺達と同じだ。最後まで言葉は続けなかったが、柳は微かに頷いた。それほどという人間はある意味強敵なのであると、俺は思わず息を漏らした。その時だ。後輩が遠慮がちにへ声を掛けた。レギュラーの視線が、自然とそちらへ向けられる。


「何か、外で先輩を呼んでる人が…」
「はあ、私を」


後輩は少し戸惑った面持ちだ。を呼ぶ相手が相当威圧的だったのだと分かる。彼女は少し考えた後、その人の名前は?と続けた。


「一応聞いたんですけど、良いから呼べって凄い剣幕で」
「ふうん。髪長くて美人でしょその人」


確信めいた言葉を紡いで、手にしている日誌を彼女は乱暴に閉じる。「いかないよ」それから笑って見せた。まあここにいる人間は大体察しがついているだろう。そんな図々しい奴は原西しかいない。


「でも来ないと呪い殺すとかなんとか物騒な事騒いでます」
「やれるもんならやってみろよ」


にしては珍しい挑発的な台詞だった。彼女は原西に対してそんな風な物言いはした事がなかったから少なからず俺達は驚く。
しかし彼女にそれが通用するかは、また話が別だ。


「おっせえんだよ!呼ばれたらすぐに出て来い!」


突然部室のドアが蹴破られた。言わずもがなで原西、と、その後ろに。後輩は飛び上がって部室を出て行った。少し可哀相だな。
まあそんな事より、原西は顔をしかめるの前にドンと立ち、二人は対峙する。「何の用」沈黙を破ったのはだった。


「話があるってが」
「わざわざ部活まで来られてもね」
「全国終わったんだから暇でしょアンタ達」
「いや暇じゃねえよ」


最後だけ答えたのは赤也だった。まあ今はそこはどうでも良いんだよ赤也。の様子を伺うと、どうやら彼女も無理矢理連れて来られたらしい事が見て取れる。さて、素直に口を割るだろうか。

「…分かったよ。話は聞くけど、場所変えない?」
「駄目よ。テニス部がいる、ここで」


原西は俺達を見回し、再びへと目を戻した。は苦虫を噛み潰した様な表情を浮かべる。そんな彼女に、がようやく口を開いた。


「悪いけど、私アンタに話なんてないから」
、いい加減に」
「そうね、何か言ってあげるとしたら、いい加減テニス部に寄生するのやめたらあ?」
「はあ…!?」


心底意味の分からないと言った風には声をあげた。俺達もその言葉にぴくりと反応する。は表情を変えずに、だってそうでしょとわざとらしく首を傾げた。その仕草が妙に腹立たしく思える。それを狙ってやっているのだろうか。


「エゴエゴ言って、周りを遠ざけて孤立アピール?笑っちゃうんですけど。何、悲劇のヒロイン気取りなの?」
「そんなんじゃな、…っ」
「ソノちゃんに聞いたけど、合宿中に皆に迷惑かけたんだって?貴重な練習時間なのに何やってんのアンタ」


ぎりぎりと自分の唇を噛み締めて彼女は俯いた。俺達も原西も、の勢いに完全に飲まれてしまっている。
合宿の事は何もだけが悪いわけではないのに。きっとも分かっているはずだ。それなのに、ここまでを遠ざける理由は。それは一体なんだろう。


「別に合宿に限った事じゃなくてさあ。…ていうか、立海が全国で決勝で負けたのってアンタのせいなんじゃ、」
「テメエ黙って聞いてりゃグダグダわけ分かんねえこと言いやがって!ふざけんじゃねえぞ!先輩がどんな思いで、」
「赤也」


もう良いよ。はそう、笑った。目が充血しかけていた赤也はそれに拍子抜けしたように、に掴みかかっていた手を緩める。
その場の空気にあまりに不釣り合いのその表情は、その場にいた全員の不安をより一層掻き立てるものだった。


「うん、はい、の言い分はよく分かりました。私も実はそうなんじゃないかと思ってねー」


吐き気がするほど感情が籠っていない。今は何を考えている?
彼女は、ドアの前に立っていた原西を退かすと、ノブを掴んだ。どこに行くの、。俺はようやく言葉を発した。しかし彼女を「引き止める」には遅すぎると思った。


「どこ?うーん、どこだろう」
「アンタ馬鹿にしてるの?」
「え、違うよ。…ああ、そうだありがとね。知りたかった事がね、分かったの」


怪訝そうにを見つめるは、それでも彼女を止める様な素振りは見せずに、そこでジッと身を強張らせている。いや、もしかしたら動けないのかもしれない。表に出ていないだけで、かなり戸惑っているのかもしれない。


「前に言われた事があったんだけどね、ようやく私が『人に嫌われる理由』が分かったよ」
お前、…何言ってんだよ。俺が言った事忘れたのか」
「私のどこが、って話じゃないんだね。私がいるから皆に迷惑がかかるし、嫌な思いをする」
!」


ブン太が彼女の腕を掴んで制止しようとしたが、は止まらなかった。彼女は腕を振り払ってドアを開ける。この場から逃げようとしているとか、そんな様子ではなかった。むしろ『どこか』に行こうとする意志が見える。


「今までごめんね。でもね、あの時私を助けたのはだよ。あそこでベランダから落ちてたら少なくともここにいる全員に迷惑はかけてなかったはず。だからね、そこはまあ、おあいこって事で、」
「黙りなさい」
「それじゃあ」
!」
「私がいらないならもう『こんなとこ』から解放してよ!」


最後に垣間見えたの本音が、俺達の足をその場に縫い止めた。
誰もその場から動けなかった。はそのままドアの向こうに消えた。

扉が閉まる瞬間に見た彼女は、どこまでも、ちっぽけで弱々しい――エゴイストだった。




思い出は息を潜めて
(そして君の心を蝕んでいったんだね)

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更新完全に再開しました。ただいまっす。
想像以上に暗くなって私自身がくぶるなんですけどもどうしよう
130225>>KAHO.A