秋の記録:22


からからと遠慮がちに扉を開ければ、そこには既に仁王がいた。

彼はベランダに出てぼんやりと放課後のグラウンドを眺めていて、それから小さくあくびをした。そんな彼を横目に私はわざと大きな音を立てて鞄を近くの机に置く。すると「おー来たかあ」と仁王は間延びした言葉を吐いて、教室に入った。


「真田どうじゃった」
「もーカンカンだよ。まああのやり取りを見てればそうなるのは当然だけど」


肩をすくめて見せる私に、仁王は、小さく笑った。しかし私からしたら笑い事ではない。仁王の分まで部活を休む話を幸村にしに行ったら隣りにいた真田にガミガミとやかん先生以上に執拗に怒られたのだから。


「まあ、そんな事より、…意外だね」
「なんが」
「仁王の事だから罰掃除サボると思った」
「まー…部活にも出れんしのう」
「そっか」


私は頷いて、それから黙った。言葉が出なくなってしまった。いや、無理に喋る必要はないのだけれど、なんだか気まずい気がした。
思えば仁王と完全に二人きりになるなんて、お祭以来ではないだろうか。そう考えるとますます体が強張った。


「あー…えっと、掃除やろうか」
「んー」


モップを彼に差し出すとやる気なくそれを受け取る。しかし彼からは掃除を始める気配はまったく伺えず、相変わらずそとを眺めていた。そんな彼に妙な切なさを覚える。


「仁王は、放課後って好き?」
「いきなりどうしたん」
「なんとなあく。――私は結構好きだよ。部活をやってる掛け声とか、野球部のボールを打つ乾いた音とか、テニスのストロークの音とか」


私が彼の隣りに並んで外へ目を向ければ仁王は「そやのう」と呟いた。やっぱりそこには少しだけ淋しい響きがあった。
この切なさの正体は一体なんだろうか。
横目で彼を伺いながら私は言葉を続ける。


「なんかさ、もう3年の10月とか信じられないよなあ」
「確かに、早いもんじゃのう。…今考えると色々あったわ」
「こうやってあっという間に大人になるのかねえ」
「…さあ」


いつかこうやって「放課後の音」に耳を澄ませた事も記憶に埋もれて消えてしまうのだろうか。ありふれた日常が、今はとても大切に思えるけれど、きっと大人になればそれは取るに足りらないことになる。毎日が忙しなく、守らなければならないものも増えて。
私は夕焼けに手を透かすように前に腕を伸ばした。指の間から顔にオレンジの光が零れる。


「今は何もかも大切で、両手いっぱいに色んなものを抱えているけど、そのうち指の隙間から『余分』を振り落として、隙間に引っ掛かる大きなものだけを大切なものとして抱えて生きて行くのかなあ、とか思うと、なーんか切ない」
「…」
「でも私は、大切なものに順位をつけたり、切り捨てて生きていきたくない」


そう、思えるようになった。それは皆のお陰だった。


「皆のせいで私、欲張りになったよ」
「ええんよ。それで」
「…」
「そんくらいの方が、きっと人間らしい」
「仁王、…」


彼の優しい声色に、いつもと、なんか違う、私はそう続けようとする。しかし口を開くのを妨げるように、彼は私の頭をわしゃわしゃ乱暴に撫でまわした。しかしそんな態度すら珍しいものだった。撫で方が、丸井みたい。
なんだか気恥ずかしい思いがしたので、乱れた髪を整えるフリをして、前髪をそっとおさえて顔を隠した。


「…まるで子供扱いっすね」
「こんな子供いらん。お前さんは子供っちゅうか、妹?…こんな妹もいらんけど」
「失礼な奴だな」


近くの椅子を引きずってきてそれに座る仁王は、ムッと口を曲げた私を見て笑った。最近仁王はよく自然に笑うと思った。――なんだ、私と同じじゃないか。(なんて前から知っていたけど)彼もきっと何かに縛られていたのだ。それから抜け出せたに違いない。


「ほんと、は人騒がせな妹じゃ」
「…さっきから妹妹って。妹なのに、あんなことしたのか」
「ん?」


思わず口が滑った。しかもしまったとモロに顔に出してしまう始末。私の言う「あんな事」とは、お祭の時の、キ…接吻の、ことで。
彼は初めは何の事か理解していないようだったが、しばらくすると思い当たる節を見つけたのか、ああと声を漏らした。


「らしくないのう。気にしとるんか」
「いやまあ最初は野良犬に手を噛まれたくらいにしか思ってなかったんだけど」
「相変わらずひっどいのう」
「でも、今になって、なんかそうやって流しちゃいけない気が、…した」


話しているうちに、むしろ掘り返すべきではなかったのではと思い始め、つい言葉尻が小さくなっていった。
しかし仁王はただ一言「忘れんさい」と、言うだけだった。


「仁王、」
「もうええん」
「…」


私が、自惚れていなければ、仁王は恐らく私にそういう感情を抱いていた事になる。流石にあれで気付かない程鈍感ではないつもりだった。しかし私は逃げていたのだ。仁王も普段通りだから、それでいいと思ったし、それが良いと思っていた。でも、


「ごめんね。私は未だにそういう…曖昧な感情、よく分からないんだけども」
「ん」
「でも、ありがとう」
「ん」


仁王は外を向いたまま、こちらは決して向かなかった。どこか遠くをじっと見つめて、全部分かっとるからと、言った。

彼には一体、どこまで先が見えているのだろう。
私にいつかこの「曖昧」が理解できる日がくるのかどうかも、知っているのだろうか。


とは、こうやって馬鹿やってふざける方が、俺には性に合っとる」
「私も、仁王と悪戯したりふざけるの、結構好きだなあ」


ふっと息をついて、それから外へ視線を映した。

「夕日が綺麗やのう」
「明日も晴れると良いですねえ」


私も彼と同じように、茜に染まる空の、その先を見つめてみたけれど、ただただ茜色だけが鮮明に瞼の裏に跡を残すだけで、やはり私にはまだ、何も見えそうになかった。




そこからなにが見える?
(過去?)(未来?)(それとも――)

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ストックがーなくなるー。どないしよー。
130307>>KAHO.A