65_最後の頁で待っていて |
ポケットの中のそれに触れるたびに、ずっとそこに私の現実が存在しているような気がしていた。これがある限り、私は私を忘れずに在り続けられると、そう思っていた。そうは言っても、今でもそれが確かに私とあの世界を繋ぐものであることには変わりはないのだけれど、今はその存在が、少し、怖くもある。いや、その存在と言うより、それが起こし得る状況が、という方が正しいかもしれない。 ポケットの存在を確かめてから、私は屋上の柵に足をかけて少しだけよじ登るとグラウンドを見下した。 「同じだけど違う世界か」 たった半年しか経っていないのに、もう随分昔からここにいるような感覚だ。きっと、この世界の人が私をすんなりと受け入れてくれたことが大きいのだろうが。 そう言えば、以前丸井先輩に「右手のような存在」と言われたのも屋上だった。今思えば、あれはきっと私達の間にある距離を硬直させる先輩なりの予防線だったのだろう。だけど、もしあの時丸井先輩に告白をされていたら、きっと今とは違う未来があったのではないかと思う。そもそもこうなった全ての原因は私であるから、丸井先輩のせいだと言うつもりはないけれど、あのことがなければ、私はもう少しだけ素直になれて、先輩に寄り添うことができたのかもしれない。 風に煽られる髪も気にせずに私は視線の先にある、夕焼け色に染まる海を眺めていると、屋上の扉の開く音がした。 「なっ、おま、ちょっと待て!」 私が振り向く間もなく、そんな切迫した丸井先輩の声が制止の言葉を飛ばしたけれど、私にはその意味が分からない。それからすぐに腕を掴まれて、柵に足をかけていた私はそこから無理矢理降ろされた。 彼はずっと走っていたのか、珍しく膝に手をついて肩で息をしている。流石に私は面食らって、先輩の息が少しずつ整い始めてからどうしたんですか、と零すと、彼は腕を掴む力を少し強めた。 「…飛び降りんのかと、思った」 「いや、そんなことしたら死んじゃいますよ」 確かにそんな風に見えなくもなかったが。ふっと、吹き出した私は、何ともないように軽い調子でそう答えた。でもそれは奇妙な感覚だった。今まで散々死にたがりだった私が、しかも、初めて丸井先輩に会ったその日もこうして助けてもらっているというのに、もはや死ぬという単語を今はもうあまり自分のリアルには感じないのである。 似たようなことを思ったのか、丸井先輩はバツが悪そうに私の手を離した。そうして私達の間にある空気を沈黙が埋めていく。自分から電話をしてきたのに、先輩はなかなか口を開こうとはしなかった。私は何となくこうなることは分かっていて、何か言わねばとふと視線を屋上の扉の方へ移すと、丸井先輩を呼んだ。 「そういえば、気づきましたか。私、自分で屋上の扉開けられるようになったんです」 「…ああ、」 「これも丸井先輩と仁王先輩の教育の賜物ですね。貴方の後輩は順調にヤンキー街道まっしぐらっすよ」 私はこんな時に一体何の話をしているのだろうと思う。言いたいことならば、他にたくさんあるのに。「あの扉、蹴飛ばさなくてもうまくひねれば開くじゃないですか、」なんて私がやけに明るくそんな話をする間も、先輩の暗い表情は変わらなかった。私の声はどんどん小さくなって、「だから、ええと、…」と、そこで全ての言葉を呑み込む。 …ねえ、丸井先輩、笑ってよ。 守れる約束とか、守れない約束とか、私が何者で、いつまでこの世界にいるのかとか消えるのかとか、そんなことの前に、私は、また、丸井先輩に笑って欲しくて、以前のように話したくて、ずっと、ずっと、それが気がかりだった。文化祭のあの日から、丸井先輩が本当に笑わなくなってしまった。いつだって仄暗い感情を押し殺すみたいに、辛そうな顔をしている。 私が貴方と過ごした、この世界の確かな存在であることを、実感したかっただけなのに。 「…家にいてもおかしくない時間、ですよね」 視界から先輩を逃がすように、私はそっと目を伏せた。そうしておもむろに口を開くと、丸井先輩が少し動揺したのが見なくても分かった。彼が私にしようとしている話について、まさか私から切り出すとは思っていなかったのだろう。 「わざわざ家から学校に戻って来たんですか」 「…」 「どうして」 それ程私に伝えなくてはならない大事な用事って何。 先輩の表情は強張っていく。言うか言わざるかを、この期に及んで決めかねているらしい。私は黙って先輩の言葉を待っていると、しばらくして先輩はようやく私を見た。「、お前、俺の家に来た時に、」切り出された言葉にすぐに、ああ、その話か、そう、納得した。 「リビング以外の部屋に入ったり、してないか」 「お手洗いは借りましたよね」 「そう言うんじゃなくて、…例えば、俺の部屋とか」 「え?」 入りましたよ、とは、言わなかった。 そんなこと、わざわざ学校にまで戻って来て聞くことなんですかと、私はそれを笑ってはぐらかした。電話で聞いてくれれば良いのにと。 「ああ、そう言いながら電話に出なかったんですよね、私。すいません」 「、お前、」 「そういえば私も丸井先輩に大切なお話があったんです」 「…え?」 「とっても、とっても大事なお話」 跳ねるように後退して、私は丸井先輩のそばから離れていく。そうして丁度真ん中辺りまでくると、そこで足を止めた。「私には二つ、心に決めたことがあります」それはどちらも、色んな人に背を押されて最近になって、ようやく決心のついたことなのだけれど。 「一つは丸井先輩に私の本当の気持ちを伝えることで」 これはすでに伝えてあるので、ある意味もう乗り越えたことだ。 「もう一つは、…私がずっと逃げてきた『あの子』にもう一度会いに行くこと」 「…あの子って、」 「丸井先輩ごめんなさい。小さい頃にしたそばにいるって約束は果たせません。だから二度と消えないって約束も守れません」 「お前、何言って…」 「だけど、勝手にはいなくなりませんよ」 そこまで言った時、先輩は私の意図を察して、ハッと息を飲んだ。 「でも、お前は俺に会うために来たんだって、」 「あの時は丸井先輩に会うためでした。だけど、やっぱりずっとこうしてはいられない」 「なんで…なんでそれじゃ駄目なんだよ」 ここにいればいる程、皆に優しくされればされるほど、帰るのが怖くなってしまうのだ。 だけど、私には私の本当の家族がいる。ここにいる両親は確かに元の世界の両親にそっくりだけれど、そしてゆずるもいい弟だけれど、やっぱり何かが違って、それに気づくたびに私と元の世界を繋ぐ鎖が頭をちらつく。のことも、いい加減自分なりに決着をつけなければならない。 それに、そもそもこの身体は私のものではないのだ。 私はそっとポケットからあのカッターナイフを取り出した。 「っそれ、…やっぱりお前が持ち出したんだな!」 丸井先輩の部屋で見つけたあの箱には私のカッターナイフがしまわれていた。忘れていたその存在によって元の世界へ帰らねばならぬことを思い出させられた私は、それを咄嗟に手にとってポケットに押し込んだのだ。きっとそのままにしておけば、二度とそれは私の手に戻ることはなかったように思う。つまり、元の世界へ帰ることを放棄するということだ。だけど、私は無意識のうちにそれを手にした。 おそらく、彼が突然私にこの話をしたのは、箱の中にカッターナイフがないことに気付いたからだろう。今まで開けることもなく隠していたのに、今日になって開いたのは、もしかしたら、二度と使えないようにカッターナイフを壊す気だったのかもしれない。 「!」 「来ないでください」 カッターナイフで腕を切るなんて一瞬だ。一歩でも近づけば私は自分の腕にそれを刺す、そんな脅しめいた言葉を吐けば、丸井先輩は言葉を失ったように口を閉ざし頭をおさえて後ろの柵へずるずると背中をつけた。 私はこれまでに何度か世界を移動して、なんとなく分かったことがあった。 世界の移動というのは、(というより帰るための移動というのは、)どうやら簡単な条件さえ揃っていれば難しくないらしい。 まずは自分を殺す媒体。 多分これが揃うことが一番の条件だった。過去からここへ戻る時が両方電車だったことと同じだ。 次に時間、そして場所だった。 これらは多分、あの過去へ行った時のことを考えれば、正確なものではなく、おおよそのものでいいのだろうと思う。過去へ行った時点と帰った時点では、朝だったというだけで、同時刻ではなかったはずだ。何より場所が違った。過去へ行った時は、叔父の家のある駅ではなく、二駅隣だったのだ。しかしこの世界へ返される現象は叔父の家のある駅で起こった。 多分、あまりに的外れな場所でなければ、条件次第で帰ることができるはずなのだ。 「お前が消えちまうなら…だったら次はいつ、会えるんだよ…!」 「…それは、…」 「お前はまた俺のこと忘れんのか!」 「忘れませんよ。でも、きっともう」 もう、会えない。 私はそうしてカッターナイフを腕にあてがった。あの日は自分を殺すことに躊躇いなどなかったのに、戻るためだと分かっても、今は、怖い。震える手を落ち着けるように、そっと息を吸った。 私が立つこの場所は、私が自殺をした場所の丁度真上に当たる。 大丈夫だ、きっと、戻れる。 「わがままでごめんなさい」 「…俺、…いつもお前のこと死なせちまってるな」 「…」 「どうしたら良い、どうしたら、俺は」 「…消えるなよ」弱々しいその声に、私は首を振った。 違いますよ先輩。 「私は消えたり、死ぬわけじゃなくて、帰るんです」 「…、」 「丸井先輩、生きるために、帰るんです」 そう、私は、生きるために帰るのだ。 「さよなら、丸井先輩」 「っ、、待っ!」 ぐっ、とカッターナイフを腕に押し込んだ瞬間、来るだろうと構えていた痛みの代わりに光がはじけて目の前が霞んだ。意識が遠のいていく。それは世界を移動する時の、あの感覚と同じものだった。 がたん。そんな何処かに落とされたような衝撃と共に私は目を覚ました。窮屈で埃臭いこの感じを、私は知っている。 私は、人が1人ようやく入れる程のスペースに私は押し込まれるような形でぽつんと立っていた。 「…やっぱり出口は掃除用具入れだ」 目の前の木の扉を押して、私は用具入れから出ると、教室の窓からは眩しいくらいの夕日が差し込んでいて、私は思わず目を細めた。だけど、ああ、やっぱりそこには切原君の姿は、ない。 「帰ってきた、のか」 だけど少し違和感のある教室。2年D組と記されているから自分の教室で間違いはないのだけれど。ずっとあの世界にいてあの教室に馴染んでいたから、僅かな違いが目立って見えるのかもしれない。 そうして私はふらりと自分席へ行こうとした時、息を飲んだ。夕日に照らされた自分が、透けていた。光に手をかざすと、向こう側の夕日が透けて見えるのである。なんで、どうして。ぐるぐると考えを巡らせたところで答えをくれる者はいない。速くなる心臓を押さえつけて、ひとまず落ち着こうと自分に言い聞かせていると、ふと廊下から誰かの足音がした。ひゅっと息を吸う。その足音はずっとこちらに向かってくるようで、そのまま行方を伺っていると、ついに足音が教室の前で止まったのが分かった。 「…。、か…?」 振り返るか、否か。躊躇っていた私の名を呼ぶその声に私は耳を疑った。 嘘だ。そんなはずはないと。 どうして私の世界に、丸井先輩の声がするのだと。 バッと後ろを振り返るとそこにいたのは、やっぱり、丸井先輩で、 「うそ…」 でも、違った。 私の知る丸井先輩ではなくて、制服でもない、もっともっと大人びた丸井先輩だったのである。 先輩はふらりと教室に入ってくると、目を擦りながら「あれ、透けて見えるし、幻覚だったりして」なんてぎこちなく笑いを浮かべている。 「…丸井先輩」 「…本物…?」 「なんで、…最後にこんな、…っ」 過去の次は、未来だなんて。 そこで私は気付いた。この身体が透けて、ふわふわとした不安定な感覚は、ああ、きっとこの世界には長く留まれないと、そういうことなのだろうと。 「お前どうして、ここにいるんだ」 「…」 「また、逃げてきたのか」 「…っ最後に、丸井先輩に、会いに、来ました…」 じわりと視界が滲む。せっかく最後に丸井先輩に逢えたのに、前が全然見えなくて、慌てて涙を拭いながらへらりと笑おうとすると、優しく腕を引かれてぽすんと、先輩の腕の中に包まれた。「逃げてきたんじゃなくて、安心した」と、そんな言葉と一緒に。 「俺も、実はお前に会いに来た」 「…え…」 「いや実はさ、最近色々あったんだけど、無事皆就職先決まって、」 「…ってことは、先輩、大学生…」 「おう。んで、せっかくだから皆で久々に中学見に行くかって」 「…」 「何となく、お前に逢えるような、そんな気がして、俺だけふらーってこっちにな」 あんなに私がぼろぼろに傷つけてしまった丸井先輩は、前よりもずっと優しく笑うようになっていた。 多分、仁王先輩とか、他の人達も学校のどこかにいるのだろう。先ほど一通り見て回って、懐かしい先生にも会えたから、一旦解散になったのだと、丸井先輩は言った。 「それにしてもお前…マジで変わってねえな…」 「…そうですかね」 「なに、人魚って年とらないの」 「…まだ信じてるんですか、そんなの」 「俺にとっては、…お前は永遠に人魚姫なんだよ」 まるで、二度と届かないことを悟ったような、言い聞かせるような、そんな言葉だった。切なさがこみ上げて、先輩の背中に回す腕の力を強めると、そう言えば、と呟く。 人魚は千年くらい生きると聞いたことがある。 「千年かー…長えなあ」 「…はは、長いですね」 「でも千年くらい生きるんなら、俺の7年なんて一瞬だな」 「…」 そう。一瞬のようだった。過去の貴方の過ごした9年間も、私が貴方を傷つけて去った後の7年間も。 でも、でもね、丸井先輩。 貴方と過ごした半年は、今まで生きてきた中でも一番大切で、そんなに一口に語れる程薄っぺらくなくて、きっと、私は、一生忘れない。 「たくさん傷つけてごめんなさい。…それから、…私に大事なことをたくさん教えてくれてありがとう。あの日、私の腕を掴んで、死のうとするのを止めてくれてありがとう」 「んな礼言われるほどたいしたことしてねえよ、俺は。…最後お前のこと困らせたし」 「…そんなことないです。本当はずっと、丸井先輩の側にいたかったけど、けじめをつけないといけなかったから」 そう、私にはまだやることがある。きちんとのお墓に行って、たくさん謝って、こんな私をずっと見守ってくれててありがとうって、そう言わなくちゃ行けない。 先輩からそっと離れると身体の力が抜けていくように、床につく足がふわりと浮くような感覚がした。 「でもまあ、良かったよ。お前がまた自分のとこで辛い思いして、俺のとこに来たんじゃなくて」 「先輩は相変わらずお節介焼き、ですね」 「お前だけにな」 「…」 「なあ、いつかまた、会いに来るだろ」 そう信じさせて。丸井先輩が寂しそうに笑う。 私も、そう信じたいと思う。そもそも私にも未来に行くなんて、予想していなかったのだ。二度と会えないなんて、誰が言えるだろう。きっと会える。願っていればまた、会える。 「未来には何が起こるか分からないですから」 「じゃあ、その時は本当に帰してやらないから覚悟しろい、ってな」 「望むところです」 「じゃあ、最後に、はい」 先輩が差し出したのは、あの青リンゴのガムだった。今度はちゃんと食べろよ、なんて先輩のそんな戯けた表情を最後に、一気に身体の力が全て抜けて、今度は目の前が暗くなった。それでもうけとったガムは絶対に離さないように。 まったく、あちこちに飛ばされて、忙しい身体だ、と思う。私のからだなのに、ちっとも私の言うことを聞いてくれない。だけど、今度は気を失わずに、気づけばいつの間にか自分が何処かに横たわっているのが分かった。相変わらず目の前は真っ暗で、というか、私は目をつぶっているようだ。 どうやら私は眠っていたらしい。 少し冷たい風が頬を撫でて、カーテンの揺れる音がする。この消毒のような、独特な匂い。病院だ、と思った。 私は重い瞼をゆっくりあげると、真っ白い天井が見えた。顔を微かに横へ向けると、そこには『妹』のゆずるがいる。そばにある花瓶の花を取り替えているところのようだ。 ゆずる、口から溢れた声は、思いの外掠れて弱々しいが、彼女にはしっかり届いていた。目を見開いたゆずるは、ベッドへ駆け寄ると私を覗き込んでたちまち泣きそうに、くしゃりと顔を歪めた。 「っ、お姉ちゃん!?…そう、ゆずるだよ!分かる!?」 「ん、…」 「…お姉ちゃん、何ヶ月もずっと目、覚まさなくて、それでっ、…あ、ま、待ってて、先生とお母さん呼んでくるからね…っ!」 慌ただしく病室を飛び出していくゆずるの背を見送ってから、私はぼんやりと、数か月も眠り続けていたのかと、それならば、今までにあったことは全部夢だったのではないか、そう思った。だけど、ふと左手に何かを持っているのに気がつき、腕を上げるとそこにはカッターと青リンゴのガムが握られていた。 ――夢なんかじゃ、ない。 私は確かに、ここではない別の世界で、誰よりもまっすぐに生きようとしている人達と、一緒に過ごし、生きる意味を見つけて、前に進む勇気をもらったのだ。 鼻が痛んで、じんわり熱くなった目を腕で隠すと、涙が頬を伝った。 この空気も、風も、音も、夕焼けも、全部、私の知る、私の世界のものだ。 ああ、帰って来た。 「…っ、ただいま」 ただいま、私の世界。 私は、まだこの世界に、生きてる。 chapter03 END 終幕 return index あとがき ( LOGOUT 終幕 // 150504 ) |