64_いっそ泡になるところから始めよう

ぱき、と折れたシャー芯が私の手元に転がった。顔を上げるとその行方を辿っていたらしい切原君と目が合って、彼はあからさまに苛ついたような表情をしてみせる。

「…シャー芯が折れたのは私のせいではないんだが」
「んなこと分かってるっつうの」

この時期の放課後の教室はひんやりとして、少し肌寒い。切原君の手元には本日出された数学の宿題が広げられており、これだけ見れば、学校に居残りをして宿題を片付ける事実に感心もしたくなるが、実際のところ、これは今日提出の宿題を忘れてきた罰則の上に成り立つものであった。部活もあるだろうに(しかも部長だし)、学校一厳しいと定評のある数学の先生に目をつけられてしまった切原君は、どうせ宿題をやって来ないのならば学校でやって今日提出して帰りなさいと言われてしまい、今に至る。自業自得なのだけれど、そんな苛立つ切原君に捕まってしまえば彼を助けない訳にも行かず。まあ、切原君とはいつの間にやら以前のように普通に話せるように戻ったので、それは構わないのだけれど。
せっかくだからと自分も宿題にペンを走らせながら、私はふと先日の丸井先輩のあの鋭さを孕む瞳のことを思い出していた。
説明するまでもなく、あれから丸井先輩との接触はない。それはつまり同じように避けられたり電話に出てもらえなかったりしているということなのだけれど、今回は私もそこまで積極的に先輩に会おうとしていないこともあって、それが会えない何よりの理由に思われた。
私が守れる唯一の約束のために、会ってまた話をしなければならない。だけど、私がたくさん傷つけてきた丸井先輩に関わることは果たして正しいことなのか、なんて。

「…?」
「…え、あ、はい?」
「これ、二枚目の問い8番、これって掛け算していいの?」
「あー…うん、多分。私はそうやってるけど」
「ふうん」

突然かけられた声に、ハッと我に返った私は頼りない言葉を返した。説明にいまいち納得のいかなさそうな顔で切原君が浅く頷いてから、彼は器用にシャーペンを指の上で回した。それからすぐにペンが紙の上を滑る音がする。私は柳先輩みたいに、頭が良いわけじゃあなくて、学力なんかどこにでもいる生徒のそれで、宿題が出されればその中で自信満々に解けない問題が2、3個は出てくる。不安ならば私なんかより先輩に頼った方が良い。

「お前には初めからたくさんは期待してないから良いよ別に」
「うん、教えてもらってる人の態度じゃないよね」
「違くてさ、何でも完璧にやれる奴なんかいねえだろって話」

あ、柳先輩とかは別か。小さく笑いながら切原君は教科書をめくった。ええと、これはこの式か?とか、思いの外いつもより真面目に取り組んでいる。手を止めて彼を見やると、彼は宿題のことを言っているのではなく実は何だかこっそり励まされているように思われた。だって話に合っているようで、なんだか違うことを言われているような気がしたから。だけど、いや、まさかね、なんの励ましか分からないしと、思う。それでもペンを握る手に自然と力が篭った。

「お前たまに正しい道ばっかりにこだわり過ぎなとこあんじゃん?」
「ええ、そう、かな」
「そーだよ。俺なんかキュウジュッパー間違ってばっかで怒られてるし」
「まあ切原君はもう少し行動を改めた方がよろしいかと」
「うるせえよ」
「ハハ」
「お前こそ間違えたことにいつまでもうじうじしすぎなんだよ」

かち、と、彼のシャーペンの頭が私の眉間を軽く突いて、切原君が私の方へ向き直った。「しーんきくさい顔」と切原君。押されたところをさすりながら、そんな顔をしていただろうかと思う。

「お前っていつもそんな顔な」
「…そりゃすいませんね」
「お前自分が神様かなんかと勘違いしてねえ?うまくいかなくて上等だろ。世の中いつも自分の思う通り行ってたらきっとつまんなくて皆死んでるっつの」

切原君は相変わらず乱暴な言い方をする。だけど、彼の言うことはいつだって何よりも真理を突いているようで、思わず頷いてしまいたくなるのだ。それから彼は机の端に置いていた携帯を顎でしゃくると「さっきからずっと光ってる」と言った。着信だかメールが入っているんじゃないかと。サイレントにしていたから全く気づかなかったけれど、そこにはメールが一通に、着信がいくつか入っていた。どういうわけか全部丸井先輩で、私は予想しない相手に心臓が飛び上がるのが分かる。
『お前今どこ』
今から一時間位前にあったメール。今更返事をしたところで遅いだろうか。ちらりと切原君を一瞥すると、彼は「丸井先輩とかだろ、どうせ」と肩を竦ませた。頷いて良いのか、少し、躊躇われた。

「…何ぼさっとしてんだよ。急ぎの連絡かもしんないだろ」
「そうかな」

そうかな、なんて、白々しいなと自分で思った。そうでないはずがない。だって、あんなことがあった後で先輩からの連絡など、よっぽどのことだ。そうでなくとも着信が何度も入っているし。携帯を握りしめると、切原君が横に掛かっている私の鞄を取って私に投げてよこした。

「俺はもう一人で出来るから、お前帰って良いよ」
「え」
「俺にかかればこんなん瞬殺だよ、瞬殺」

机に広げられていた教科書をざっとかき集めて、切原君は私に押し付ける。それを抱えながら、反動で私はふらふらと後退した。行かなければならないのに、丸井先輩と話をしたいと思うのに、何故かこの場から離れがたく思えた。
私を送り出す切原君はにかりと笑っていた。彼は夕日に照らされて、こんな時、やっぱりここに来たあの日を思い出して重ねてしまう。いや、きっと『こんな時』だからかもしれない。私はそっと息を吐くと、鞄を抱え直しながら努めていつもの調子で「ああっ、そうだ」と声を上げた。ちょっと演技がかっていたかもしれない。

「そう言えば明日英語の小テストあるよ切原君」
「げ」
「赤点は補習だって」
「…明日ヤマ張って」
「えー」
「えーって何だよ、つうか早く行け」

しっし、と手が私を追い払う仕草をしたので、私は苦笑しながら教室を出て行こうとした。「
切原君が見えなくなる直前、彼の手がふっと上がった。

「また明日な」

そこで、私はこの場を離れがたく思う理由が分かって、だけど私はぎゅっと鞄を掴んでいた手をゆっくり開くと小さく手を振り返した。

「また、明日」





そうして私が切原君と別れてから、階段にさしかかって携帯を開こうとした時、前からジャージ姿のが向かって来るのが見えた。どうやら部活の途中で抜けてきたらしい彼女に、私はなんとなく隠すように携帯をポケットに押し込んだ。

「まだ残ってたんだね」
「切原君に付き合わされて」
「…やっぱりか」

切原君から課題をやってから部活に出るという話は聞いていたらしいが、いつまでたっても来ないので、ついに痺れを切らしてがやってきた次第だそうだ。私はあと少しで終わるから手伝ってあげてよと戯けると、彼女は盛大にため息をついて力なく頷いた。私はそれを見て苦笑しながら、とすれ違うように階段を上って行く。「あれ?」それに彼女はふと私を見上げた。そもそも私が切原君の傍にいればいいのに、しかもどうして上に行くのかと、そんな怪訝そうな瞳だった。

さんは、用事でもあるの?」
「まあね」
「…。何処かに、行くの」

問いかけではなく、確信に近い声色だった。私はごくんと息を呑み込む。には、全部見透かされているのではないかと、そんな風に思ってしまう。というより、彼女はあれから何も聞いては来なかったが、私の知るの記憶を共有していた時点で、きっと彼女は私が一体どういう存在なのかとか、何となく知っていたのだろう。

「はは、何処にもいかないって。『私』はずっとここにいるよ」
「…。そっか」
「でも、また会いに行くね」
「え?それ、どういう、」

さよなら、そう告げると私はそのままゆっくり階段を上って行った。が何かを言っていたような気がしたのだけれど、私は振り返らなかった。そうして目的のその場所までたどり着いた時、タイミングが良いことに、何度目かの丸井先輩からの着信が入った。「もしもし、丸井先輩」さっきまで少しばかり動揺していた心が、怖いくらいに落ち着きを取り戻している。電話越しの先輩は、走っているのか、余裕のなさそうな声で私がようやく出たことに安堵の息を漏らしていた。
『まだちゃんと、いるな』
その言葉は、酷く私の胸を締め付けた。

『お前…まだ学校にいんのか?』
「いますよ」
『良いか、学校から出んなよ』
「…元々、そのつもりです」
『…は』


「先輩、屋上で待ってますね」



(いっそ泡になるところから始めよう)


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( まっくらな宇宙にはじき出された少女 // 150503 )