63_約束さえ持たせてやれない

多分、いや、きっと、私は丸井先輩に避けられている。
普段から私は丸井先輩とよく話す機会があったとは言え、当然毎日会っていたわけではない。偶然と捉えるならば多かったかもしれないくらいの接触率を考えれば、今までの状況と今に、一体何の違いがあるのかという問いには答え辛いのだけれど、どうにも先輩は私を避けているらしかった。
と言うのも、試しにクラスや食堂へ行ってみてもなかなか先輩の姿を見つけることは出来ず、たとえ見つけられたとしても、声をかける間もなく先輩は姿を眩ましてしまうのである。さらに避けられているという確信を得たのは、一度も電話にも出てもらえないことと、折り返しの連絡すらないことがあったからで、もはやテニスコートに姿を現さない丸井先輩に接触する術を、私は失ってしまっていた。
すっかり役立たずな携帯を制服のポケットに押し込んで私はひとまず自分の昼飯を買いにと購買へ向かう。
先輩は私にいつだって自分に都合の悪いことは忘れろと言っていたくせに、こうして私を避けていると言うことは、やはり文化祭の日のことは気がかりであるらしい。別に丸井先輩と会ってどうすることもないのかもしれない。会わなくたって困らないではないかと考えたら、確かにそうだけれど、過去で彼に約束を押し付けた手前、私の選択を、先輩に伝える義務があるように思えたし、何より私の気持ちも聞いてもらいたかったのだ。だからそのためには、

「…まずは先輩を見つけないと」

以前私に避けられていた先輩も、こんな気持ちだったのかと思うと、全て自業自得な気がして、窓から流れ込んでくる秋の風が妙に胸に染みる気がした。
昼時の購買は案の定、生徒の海と化していた。だが私は今回は余り物でも買えれば、くらいの心持ちで、それよりも丸井先輩がいればなあと、無意識のうちに視線を周りへ移す。混み合っている中で、そんなことをしたからか、後ろから誰かがかけてくるのに、私は気づかなかった。勢いよく背中に体当たりを食らった私は前にいる人達にどかどかぶつかりながら倒れ込んで、そのぶつかった誰かは「さあせーん」と雑な挨拶だけを残して、人の海に飛び込んでいく。握りしめていた財布は足の間を縫いながら混み合った床をさあ、っと滑って行った。床に手をついたままの私は「まじか」と一言。一メートルくらいの距離なのに、人の足が邪魔をして酷く遠くに思える。
どうして、いつも全部ちゃんと掴んでいないんだろうなあと、私は半ば自暴自棄になりかけたが、誰かに手を踏まれて、ぴゃ、と床についていた手を引っ込めたので、感傷的になるとか、それどころではなくなった。この場にいては今度は背中を蹴飛ばされかねない。財布のことは一度置いておくとして、端に避けなければと思った時、私の腕は誰かに強く掴み上げられた。

「…お前、あっぶねーだろうが」
「うわ、」

ぐい、と自分の方へ引き寄せて、私を端へ誘導したのは、ずっと会えないと思っていた丸井先輩だった。私はいつぞやも購買の前で声をかけられたことを思い出していたけれど、彼はそっと私から視線を外して何処か気まずげにしていた。

「ああ、えと、すいません…」
「いや良いけど、あー…手とか大丈夫か?」
「手?…あっはい」
「そう、じゃあ、ちょっと待ってろ」

丸井先輩は私の手を一瞥してから再び人の波の中へ入っていって、まさか代わりに何か買ってくれるのだろうかと思っていると、そういうわけでもなく、人混みの中でしゃがみ込んで、それから何かを持ってすぐにそこから出てきた。「ん、これだろ」そう言って先輩が差し出したのは私の財布で、そこで私はすぐに頷くことができなかった。
つまり、先輩は私が財布を落としていたところからずっと見ていたのだ。きっと、助けるか助けないかを迷っていたに違いない。

「お前のだろい?」
「…はい、私の財布です」
「次は気をつけろよ」

じゃあ、と助けたからもう良いよなとでも言うように、そんな調子で丸井先輩はあっさり背を向けたので、私は咄嗟に先輩のシャツを捕まえて「ちょっと待ってください」と遠慮のない力で後ろに引いた。ここで先輩を離したらきっともう話す機会はない。

「え、なん、」
「手が、ものすごく痛いです」
「は、」
「踏まれた手がものすごく痛いので、保健室に付き添ってください」
「でもお前、さっき大丈夫って」
「今突然痛くなったんです。丸井先輩見捨てないでください見捨てませんよね」

勢いに押されたか、丸井先輩はうんともすんとも言わなかった。ただ、私が仕切りに付き添え付き添えと騒いだので、面食らった様子でひとまず黙って私の後ろについてきたのである。
保健の先生は、私の手を見て腫れてはいないよと湿布を貼った。そりゃあそうだ、全然強く踏まれていないし、痛くないし。踏まれたのも利き手ではないから、午後の授業も問題はないと判断されて、先生は一度職員室へ戻ると多分昼を食べに保健室から出て行った。痛むなら少し休んでいても良いし、また何か不都合があれば、職員室に来るか、もうしばらくしたら来るだろう保健委員に声をかけるようにと。
私は痛むわけでもないのに湿布も貼ってもらって、本来ならばここにいる必要もないのだが、先生を見送ってからも保健室に居座った。丸井先輩はじーっと壁のポスターを眺めていたので、私は「先輩先輩」とそばの椅子に座るように、ぽんと叩いた。

「話があります」
「…。何?」

妙な間。ためらっているのはよくわかった。先輩はしばらくその椅子を見つめていたが、私が指したものとは違う、自分のそばにあった椅子に腰を下ろして、ようやく私の方を見た。話を聞いてくれるなら何でも良い。ええと、と一呼吸置いてから、私はスカートの裾をキュッと握りしめると息を吸った。

「丸井先輩は、ずっとずっと前にした私の約束を守ってくれましたけど、」
「…」
「私は、丸井先輩の言う約束は守れません」

突然だったためか一体何の話か、丸井先輩はよく分かっていないようだった。先輩とはいくつか約束をしたけれど、私が守ることができるのはその中でただ一つだけだ。わがままでごめんなさいと続けると、彼の表情が少し強張ったような気がした。きっと聞きたくないことを言われてしまうと、そう思ったのだろう。実際私は今から先輩の求めていない言葉を、多分、たくさん言うのだ。

「今更感出てますけど、」
、待っ」
「私、丸井先輩のことが好きなんですよ、すごく」
「…は、」
「今まで散々先輩のこと貶してきて、先輩的には頷けないとは思いますけど、」
「…悪いけど、、」

丸井先輩が私の言葉を遮るように立ち上がった。私はそうなることが分かっていた。すかさず扉の前に立って先輩の行く手を遮ると、彼は頭を抑えて「あのさあ、」と苛立ったような声を出す。怯みそうになったけれど、私はその場から動かなかった。

「聞きたくねえんだわその話」
「丸井先輩」
「…だから、誰も好きになるなって言っただろ」
「その約束は守れないんです」
「…お前は俺に約束を押し付けたじゃねえか!」
「でも、私がこの約束を守ることは、私の中の丸井先輩の気持ちを殺すってことです」

そんな器用なこと、私にはできない。私が今までしてきたことを振り返れば、私にうんざりするのも、嫌いになるのも分かる。もしそうならそれでも良い。私の自業自得なのだから。丸井先輩に生きる希望を貰って、その上先輩の気持ちまで貰いたいなんて贅沢は言わない。だけど、私の気持ちだけは、せめて聞いてもらいたいのである。

「私は、ずっと逃げてきました。この世界に馴染めば馴染むほど、元の場所に帰らなくちゃいけないその日が近づいてしまうんじゃないかって、」
「…なんの話か、俺にはちっとも分かんな、」
「知らないフリはもうやめてください、丸井先輩」
「…お前こそやめろよ」
「私は、丸井先輩に気持ちを伝えるその時が、きっと帰らなくちゃいけなくなる時なんじゃないかって」
「やめろって!」

ドン、と近くの壁が殴られて、私は思わず肩をびくつかせた。これ以上、丸井先輩は私に何も言わせてくれないかもしれないと、そう思いながら反射的に閉じた目を開くと、ふいに丸井先輩の頭が私の肩に乗せられた。一瞬見えた先輩の表情は切なさを必死に殺しているような、そんなものだった。

「…この世界にいたいなら、俺だろうが誰だろうが気持ちくらい殺せよ」

先輩の手がおろしていた私の手をそっと掴んだ。まるで壊れ物に触れるように、どこか恐々と指が絡まる。

「…丸井先輩」
「…俺だって、本当のこと言ったら、お前が消えるかもしれないって、ずっと、そう思ってたんだよ。…なのに、」
「私はまだ消えてないじゃないですか。ちゃんと先輩のそばにいますよ」
「…は知らないだろうけど、俺はお前が思うよりずっと前から、お前のこと、」

そこまで言って、先輩が手をぎゅっと握りしめた。離してしまわないようにと、そんな風だった。だから私もそれを握り返す。せめて今だけは、先輩が私のせいで、また孤独で辛い思いをして欲しくない。
「あの時、お前が消えたのは、俺を助けたからなんだろ」先輩はふいに、そんなことを言った。あの時、と言うのは多分、過去で、帽子を追いかける丸井先輩を助けた時のことだろう。しかし、助けたから消えた、と言うのは少し違うような気もする。正しいことは分からないけれど、丸井先輩を助けるタイミングと、帰るタイミングが偶然あってしまったか、もしくは、そもそも私は丸井先輩を助けるためにあの場に存在していたか。どちらにしても、丸井先輩のせいで、と言うわけではないように思う。実際に丸井先輩の言う通りだったとしても、私は先輩を恨んだりはしていない。
黙り込んだ私を肯定だと捉えたのか、先輩は掠れるような弱々しい声で「だから、どうしたら俺のこと許してくれんだろ、って、今までそれだけ考えてた」と、続けた。

「…許すも許さないも、怒ってなんてないのに」
「…」
「だから、もう、」
「9年ぶりに俺の前に現れたお前は、話していた通り、俺のことなんかちっとも覚えてなかった」
「…」

だけど私は、あの夏の日、過去へ落とされた。そこで丸井先輩の中にある記憶に、追いついたのだ。しかし本当なら喜ぶべきことであるはずが、丸井先輩から見たら、『記憶を取り戻した』私に、彼は気付いたのだ。

「思い出したってことは、また消えたり忘れたりするんじゃないかって」
「忘れたりなんか」
「でもはいつだって、俺がお前に本当のことを伝えたり、そうしようとした時に消えた」

だから怖くなったのだと。顔を上げた彼は不安を孕んだ瞳をしていた。お互いに守り抜いてきた不可侵の壁を壊してしまえば、ぼろぼろと、ようやく本物らしい言葉が降ってくるようで、だけど、それだけ丸井先輩が内に押し留めていたものの大きさに気付かされる。私とは違う。同じ時を生きているようで、丸井先輩には、私にはない、9年間分の苦しみがそこにはあった。

「お前に近づくのが怖くなった。本当に、本当にこのままで大丈夫なのかって。でも、お前は赤也やと仲良くなっただろ。むしろは初めからそうだったよな」
「それは、」
「何であいつらは良くて、俺は駄目なんだろって、そればっかりだった。ムカついた。お前に触れたらいけない自分に苛立って、俺、もうわけ分かんなくなって、」

手がするりと解けた。「…俺のやってること矛盾してんだろ?…自分でも良く分かってる」そう、泣きそうな顔で、彼は笑った。普段では当たり前のような保健室の冷たい静寂が、やけに私を焦らせていた。
丸井先輩は私の想像を遥かに超えて、傷ついていたのだ。

「でも、つまりはどうしたって俺はきっともう許されないんだろ」
「それは違います!」
「…良いよ別に。だから俺、せめてお前のこと、もう離さないようにって」
「待ってください、私は先輩のこと本当に恨んでなんかいないんです。私は丸井先輩が好きって言ってるのに、恨んでたら可笑しい、」
「だったら」

無理やり黙らせるように、口を先輩の手が覆った。ぐっと言葉を飲み込んだ私は、一体どこに隠れていたのか、今までちっとも見えなかった丸井先輩の瞳の中の鋭さに、心臓が跳ね上がる。手の温度が奪われて行くみたいに、どんどん冷えて言って、先輩の手が口元から外れたって、凍りついたみたいに声が出なくなってしまっていた。

「俺にお前のことくれんなら、二度と消えないって、約束しろよ。ここで、今」
「…ま、待って先輩、」
「もう待たない。…なあ、一回くらい俺の言うこと聞いてくれよ、…他は何も、いらないから」

掴まれた腕に力を込められて、私は痛みに身をよじった。返事をためらっている私に「絶対元の世界になんか戻さねえぞ」と口元が耳に寄せられて、そう囁かれた。時々感じていた優しい丸井先輩に隠れている怖い部分。その正体が分かった気がする。
「気をつけんといつかブン太に取って食われてしまうかもしれん」
仁王先輩の忠告が脳裏によぎった。
あの忠告が恐ろしくて、私は嘘だと思い込んだ。そう信じたかった。そうか、彼の言っていたのは、こういうことだったのかと、私はそっと目を伏せる。

「見てれば分かる。お前、自分の居場所から逃げてきたんだろい」
「…」
「ここだったらお前の居場所がある。誰もお前のこと傷つけないぜ。俺も守ってやれる」
「…やめて先輩、」

もうやめよう先輩。私のために自分から傷つこうとしないで。
私は先輩の背中に腕を回して、そっと抱きしめると、ごめんなさいと呟いた。彼を傷つけて、混乱させたのは私だ。

「今までたくさん傷つけてしまってごめんなさい。私のせいで丸井先輩の自由を奪ってしまった」
「…」
「もう私を助けようとしなくて良いんですよ」
「ちが、俺は自分がそうしたいから…、…なんで、そんな、…まるでもう、いなくなるみたいな、…」

彼の私との思い出は、きっと9年前の私が消えたあの日の、幼かった丸井先輩には衝撃的な出来事のせいで、あの時から止まってしまっている。
私は先輩の名を呼ぼうとして、しかしその時、廊下で誰かがこちらに向かってくる足音がした。ハッとした丸井先輩が、私から離れた。揺らいでいた瞳は、いつの間にか元に戻っている。

「…俺は、自分の言ったことを変える気はねえよ」
「丸井せんぱ、っ」

先輩はそれだけ言うと、もう何も聞きたくないと言うように、私を退かすと保健室から出て行ってしまった。強く掴まれていた腕をそっと押さえると、私はその場にしゃがみこむ。

「…っ、ごめんなさい」

ああ、私の罪は、ここにもあった。

(約束さえ持たせてやれない)


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( まっくらな宇宙にはじき出された少女 // 150502 )