62_始まりと終わりの地

文化祭の片付けは午後には終わって、私と切原君は案の定委員長からサボりの説教を受けたわけなのだけれど、珍しく罰則的なものは免れて、皆と一緒に解散することができた。
テニス部はどうやらこの後ご苦労なことに部活があるらしい。しかもせっかく早くに学校が終わるのだからと幸村先輩や真田先輩達が部活に顔を出すのだそうだ。新部長になったばかりであるのに、まさか怒られるわけにはいかないと切原君は慌てて教室を出て行って、私はそんな彼の背中へゆるくエールを送った。
実を言えば、に、先輩もいるのだから久々に部活を観に来ないかと誘われたのだけれど、適当に断ってしまった。切原君に話を聞いてもらって少し落ち着いたとは言え、こんな状態ではまた丸井先輩に余計なことを口走りそうな上、昨日の今日で先輩に会うのはどうにも気が引けたのである。
解散後は、皆部活があるのか、切原君だけでなく他のクラスメイトもあっという間にいなくなってしまった。三年が抜けたばかりの今、二年が部活を引っ張らなければならないから当然のことなのかも知れないけれど。特に何をするわけでもなく、すっかり誰もいなくなった教室で私はぼんやりと窓の外を眺めていた。ここからはテニスコートがよく見える。

「相変わらずギャラリーが多いな」

きっと三年が加わっているからということもあるのだろうけれど。今頃切原君は先輩達にしごかれているに違いない。私はなんとはなしに時刻を確認すると、解散からもう随分と時間が経っていたので、いつまでもこうしていてもしようがないと私は鞄を掴んだ。あまり無意味に教室に残っていると、担任に何かしら仕事を押し付けられかねない。
教室から出る直前、最後に顧みた風景に、私はふとあの日のことを思い出した。あの日、というのは私がここに来た時のことで、確かあの窓際の席には切原君がいて、課題か何かと睨めっこしていたのだ。
私はあの日から、てっきりこの掃除用具入れが何かの入り口になっているのかと思ったけれど、中に入ったところで変化が起こることは一度もなかった。
ここに来て半年、分からないことはまだまだあって、だけど、得たものも多い。
やけにゆったりとしたスピードで私は廊下を歩いていると、懐かしい風が吹いて、細めた目がそこにいた誰かをとらえた。

「お前さんか」
「仁王先輩」

さらさらと風の流れ込む窓を見やった仁王先輩は、すぐに私に気づいて足を止めた。制服姿の先輩は、どうやら部活に顔を出していないらしい。私もその場で足を止めて、先輩との間に妙な距離ができた。

「今日は三年生が部活に顔を出すって聞きましたけど、仁王先輩は部活に行かないんですか」
「一、二年しごくんは真田が一人いれば十分じゃろ」

先輩の話によれば、どうやら三年が全員出ているわけではないらしい。仁王先輩以外にも用事のある先輩は早々に帰ったそうだ。「ブン太はおるぞ」と、先輩が言ったが、私は首を振って「今はちょっと」と濁した。むしろ丸井先輩がいるからいきづらいのである。私の曖昧な言葉に、また何かあったのだと察した仁王先輩は、そうか、とやけに静かに呟いた。てっきり、仁王先輩は丸井先輩の様子を見て、状況を把握していると思っていたのだけれど、どうやらそうではないらしい。

「まあ、何となく違和感はあったが、いつも通りっちゅうても差し支えないくらいじゃったしのう」
「そうでしたか」
「やっぱり気のせいやなかったんじゃな。…喧嘩でもしたか」
「たいしたことじゃないですよ」

私は嘘をついた。
きっと、丸井先輩の中で昨日の出来事は、すでになかったことになっているのではないだろうか。そうなると、私が丸井先輩に気持ちを打ち明けたところで、やっぱりなかったことになってしまうのではないだろうか。私は前髪をそっと抑えて、はたから見たら顔を隠しているように感じるかもしれない。実際、仁王先輩から視線をそらすためなのだが。丸井先輩の話題に今更戸惑い始めて、行き場のない視線を足元に落ち着けた。

「嘘が下手やのう」
「え…」
「今のお前さん、初めて会うた時によう雰囲気似とる」

仁王先輩がすっと足を踏み出した。私達の間にあった距離が埋まって行く。まるで私が逃げてしまわないように(そんなつもりはないけれど)とばかりに、彼は手を伸ばせば届くその場所までやって来て、言った。「今にも消えそうぜよ」と。声は何処と無く冗談めいていたのに、先輩の目はそれと裏腹だった。

「…私より、仁王先輩の方がよっぽどいつの間にかいなくなってしまいそうですけどね」

先輩なりに逃げ道を与えてくれたのか、昨日の話から少しそれたので、先輩の嘘つきな目は気づかない振りをして私は話に乗った。けど、私より仁王先輩の方が、と思っているのは事実である。むしろ私は、たとえこの世界から離れたくとも、その方法を知らぬし、そういう時ほど、ともすれば身動きが取れなくなることの方が多くなるのはある意味当然の成り行きのように思える。

「褒め言葉ですよ」
「俺は、」
「…はい?」
とブン太の間になんかあるんはずっと分かっとった」

その瞬間、変わりかけていた空気がぴんと張り詰めた気がして、私は押し黙った。仁王先輩は私に逃げ道を与えたのではない。先輩の聞きたかった話は初めから、丸井先輩の話よりも、この話だったのかもしれないと、私はそう感じた。

「多分、その何かのせいで、きっとお前さんらは一緒にいない方が良いってことも分かっとったし、今もそう思っとる」
「…」
「じゃけど、かと言って、引き離すことが正しいとも言えん」

矛盾だらけ。
それはそもそもこの世界にいるはずのない私が別の世界に干渉をしてしまったが故に生じたものかもしれない。仁王先輩はそれに何となく気づいているのだろうか。だけど不思議とその事実に恐怖はなくて、むしろ安堵している自分がいる。先輩がたとえはっきりと真実を知らなかったとしても、私はこの人に抱えていることを隠すことを無意味に思ってきっとそうなんでしょうね、とだけ頷いた。

「思えば矛盾ばっかりなんです。私だってその矛盾から抜け出したくて、…そのための鍵がもしかしたらあるんじゃないかって」

どこにあるかのアテもないけれど。だからこそ成り行き任せにもできるが、それも怖いのだ。果たしてじっとしているままで良いのかなんて。運命は自分で変えるものだと、掴むものだと知った。だけど時には成り行きに任せることだって必要なことも知った。
それでも、私はまだ臆病者で、後悔を誰かのせいにしてしまいたくなるのだ。だからこんなふうに選択肢を与えられた時、自分で行動することも敢えて放っておくのもまだ少し怖い。選択を誰かに頼りたくなるのである。

「人間なんて皆そうぜよ」
「…」
「皆誰かのせいにしたがるし、選択肢なんぞ、いざ選ぶ時になった途端、どちらも良く見えたり悪く見えたりする。今まで見えなかったもんが現れて、そいつがどっちも選べなくするもんよ」

勘違いだったのかもしれないけれど、励ましてくれたように聞こえて、私はそっと笑った。

「仁王先輩にもそういうことってあるんですか」
「秘密、じゃな」
「仁王先輩も、あと、柳先輩とか、何でも答えを知ってそうだから、自分のことも、誰かのことも分からないことはなさそうです」

聞けば、私の憂鬱だって一瞬で解決してくれそうだ。もしかしたら、仁王先輩なら元の世界への帰り方だって知っているのではという気になる。だけどその分、人には言わぬ秘密もきっとたくさん持っているのだろう。
私の台詞に、先輩は口元に弧を描いた。その不敵さに、ほら、こうやって仁王先輩は自分を底なしに見せるのがとてもうまいのだと思う。だからこそ引き寄せられてしまう。

「迷う奴に答えを教えるんが参謀、教えないで利用するんが俺じゃな」

甘言を吐く前に、珍しく本性らしいことを口にしたので私は少々面食らった。何か思惑があるのか、私にはもはや本性に関わる嘘は無意味だと思っているのか。どちらだって良いけれど。そうでしたね、と私は頷いた。本性を知っていたところで、仁王先輩は食えないし、きっと先輩の言葉に私は何度だって騙される。

「やけど、答えを教えてやるっちゃうたら、何を迷っとんのかお前は俺に全部教えるんか」
「全部?」
「それに関わること、全部」

お前の隠し続けている秘密を、教えられるのかと問われているような気がした。
だけど、問いの重さに対して、私の答えはずっと簡単だった。

「どうでしょうね。まあ、私はそれでも良いですよ」
「ほー、ええんか」
「ええ。仁王先輩はおかしなことを聞きますね。先輩が思ってる程、私は面白い人間じゃあないんですけどね」
「じゃが面白い面白くない関係なしに、お前さんにも言いたくないことはあるやろうが」

思いの外あっさりと秘密を明け渡してしまいそうな私を仁王先輩はきっと予想しなかっただろう。怪訝そうに眉をしかめて私の言葉の意図を探ろうとしているようだった。
私はふと窓の外へ視線を移した。夏のギラつきとは対照に、秋の色に寂しさを孕む風景が、どこか私の心情に重なるようで、この感覚をどう説明をすれば仁王先輩に納得してもらえるだろうと、小さく唸った。

「上手く言えないですけど、多分、誰かに秘密を知ってほしいんだと思います」
「どうして」
「秘密を抱えるのって、案外辛いじゃないですか」

秘密を抱えるということは、それを自分一人で背負うということだ。誰にも相談できないし、何かがあることすら悟られてはいけない場合もある。つまり、自分の中に、誰にも触れられない『孤独』な部分が存在するということだ。私は弱い人間だから、いくつもいくつも秘密なんて抱えていたら、きっと寂しさに押しつぶされてしまう。

「だから、秘密をたくさん持っている仁王先輩はきっと強い人なんですね」
「…そんなん、初めて言われたのう」

この世界に来て、秘密が増えた。
丸井先輩は知っているはずなのに、知らないことにするから、本当は秘密なんかじゃないのに、秘密の『ふり』をしなくちゃいけないこともできた。

「だから時々、『私』っていう存在から、解放されたくなるんです」

『この世界の私』という器に入っている限り、私の秘密は増えていく。この世界の私が知り得ぬことは全部知らないことにする。この世界の私がしなかったことは、全部なかったことにする。
色んな人の考え方に触れて、諭されて、投げやりな考え方は変われど今思えば、私は初めから『この私』から逃げていた。
そもそもここに来たきっかけだって、への罪滅ぼしだと言いながら、結局はあの世界から逃げ出したかっただけなのだ。この世界に来てからだってそう。
このままこの入れ物に入っていたら私が私でなくなりそうな、そんな気がして。海に身体を投げ出したり、車に轢かれようとしたり。その度に色んな人に止められて、成功した試しなんてなかったが。むしろ私の意思に関係のないところで起こったことのほうが、ある意味命を失ったと言えるかもしれない。例えば、電車にひかれた、あの時とか。それでも、本当に死ねたことはなかったけど。

そうして考えていくと、そういえば、何よりも丸井先輩に止められたことが全ての始まりだったことを思い出した。あの日、カッターナイフで手首を切ろうとした私の腕は掴まれて、私はこの世界に繋ぎとめられた。結局、カッターナイフも先輩に取り上げられてからは本当に死のうとするのもそれきりになったが。
この世界にたった一つあった私の居場所は、ポケットの中のカッターナイフで。そうして今までのことを思い返しながらそっとポケットの上から手を添えた時、私はハッとした。

「…ああ、そうか」
…?」

――そうだったんだ。

手に触れた確かなその存在に、私は、視線をポケットへと移した。
初めから、鍵はずっと私の手の中にあったのだ。


どうして気づかなかったのだろうか。

私が丸井先輩の家で、あの箱から『これ』を持ち出した時から、全て、私の心は決まっていたんだ。

(始まりと終わりの地)


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( まっくらな宇宙にはじき出された少女 // 150429 )