61_きみは運命をさがしておいで |
学校なんかに来なければ良かったのだと心底思う。今回の文化祭では、多くの意味で私の心抉るようなことがありすぎた。 まだ集合時間より幾分も早いのに、廊下や教室は文化祭の片付けで慌ただしく常に誰かが出入りを繰り返していた。そんな中、人の波にわざと埋もれるような気持ちで、私は恐る恐る自分のクラスを覗き込んだわけだが、教室には切原君の姿は伺えなくて、一先ずは安堵の息を漏らす。 丸井先輩とのことと比べたら、切原君とは然程気まずい別れ方などしていないし、何か酷い言い方をしたわけでもないが、彼と顔を合わせたくはなかった。とは言え、実際問題、学校を休んで切原君との接触を避けたところでどうにかなるものではない。むしろ余計に学校へ行きづらくなるだけだから、そんなことはしないけど。 クラスの片付けは学級委員中心に行われていて、私が来た時には教室中についていたお花紙の装飾はほとんど取り外されていて、中央に集められたビニール袋へ投げ込まれていた。 「呆気ないもんだ」 装飾の取り外しに参加し始めた私はぽつりとそんなことを呟いた。この中には私や切原君の作った花があるのだろう。もしかしたら今私の手の中にある、これかもしれない。 私は別段、文化祭に力を入れてきたわけではないけれど、これまでの準備は、たった2日でゴミに成り代わるのだなと思ったら、やっぱり呆気なく感じた。 そうこうしているうちに、時刻はいつの間にやら集合時間を少し過ぎていて、私は切原君は今日はきっとサボりなのだろうと都合良く解釈を決め込んだ時、その声は聞こえた。 「はよーって、あれ、皆早くね」 「おっせえよ切原。時間過ぎてる」 「マジか」 聞きたくなかった彼の声に私はびくりと身体を震わせた。だらだらとした男子同士の会話を背中で聞きながら、私は気が気でない。切原君に気づかれぬうちに、教室の外に出る必要がある片付けにでもシフトチェンジしようかと、私はそろっとそばに積まれた簡易コンロへ視線を移した。 「何してんの」 それはあまりに突然、というより気配もないくらい自然に、切原君は私の真横に立っていて、それもとっても近い距離で、私は思わず悲鳴を上げそうになった。慌てて抑えた口に、切原君が不機嫌そうな顔になって、眉間にシワが刻まれる。 だけど弁解の言葉も、その気力すらなくて、私は無言で切原君の横を通り過ぎると、コンロを抱えた。確か一階にこういった道具を返す場所があると聞いた。 「感じ悪」 「…」 「声かけてんだろ挨拶くらいしろっつうの」 「…」 「おはようってば」 おはよう、くらい返せば良いのだと思う。それで納得してくれるなら(しないかもしれないけど)一言言葉を返せば良いのだ。だけど、私はまるで言葉を忘れてしまったみたいに言葉が喉に詰まって何も言えなかった。私の後に続こうとする切原君は、そばにいた女の子に、切原サボらないの!なんて喝を飛ばされていたけど、彼は「んあ」と意味の取れない返事を寄越して、それから私の手の中にあるコンロを二つ取り上げた。 「俺も運ぶ」 「結構です」 「ようやく口聞いたと思ったらそれかよ」 切原君はそう言って口を尖らせたけれど、相変わらずコンロは持ったまま、私を廊下へ促したので残りのコンロを切原君へ押し付けると「じゃあ片付けは切原君にお任せしますね」と早口に言った。お前、と切原君の視線が鋭くなる。どきりと心臓がはねたが、彼は私に文句を言う前にコンロを投げ出した。喧しく音を立ててそれらが再び机の上に積まれる。 「なら俺も運ぶのやーめた」 「…そういうにふらふらやってると皆に迷惑かけるよ」 「ふらふら?それお前だろ」 切原君の怖いところの一つ。 突かれたくないところに入り込んでくるのが上手いこと。今の私は自分が一体何をどうしたら良いのか、全てに対して分からなくなっていた。多分、それは丸井先輩のせいで、あの人との出来事が頭から離れないからなのだ。そっと口元へ手を近づけた私は、昨日のことを思い出しかけて、頭を振って教室を飛び出した。あんなことをしたのに、私に誰も好きでいるなという。気持ちすら持つなと、あの人はそう言う。 「ちょっと待った」 「っ、なんで、ついて来てるの!?」 「気になるから」 走り出した私はしばらくしてから突然腕を引かれて、足を止めざるを得なくなった。そこには切原君がいて、どうやらしっかり追いかけて来たらしい。彼は「委員長にはきちんと俺とはサボりますって言ってきたぜ」とかなんとか言っているが、何だ彼は、馬鹿なのか。いや馬鹿なんだが。 私はされるがままに、ずるずると屋上まで連れて行かれて、相変わらず切原君の乱暴な蹴りで扉は開けられた。ぶわ、とその扉から校内へ吹き込んだ風に、幸村先輩の屋上庭園の花の香りが鼻を掠めていく。強張っていた心がぼろぼろと崩れていくような気がして、私は切原君に掴まれていた腕を振りほどいた。 「切原君は、」 「あ?」 「切原君はどうして普通にしていられるの」 「はあ?普通ってどういう意味だよ」 そうやって、いつも通りに話しかけてくることだよ。私はもう、君になんて挨拶していたのか、なんて話しかけていたのかすっかり分からなくなってしまったのだから。 私はじっと足元を見つめながら、彼の言葉を待った。 「これでも結構緊張してんだけど」 その台詞に私は顔を上げると、代わりに切原君がバツが悪そうに視線を逸らした。私が気まずい思いをしないようにと、いつも通りにしていたのだと。 くだらない。くだらないよ切原君。 「切原君は告白して良い返事を貰えないって分かってたのに何で告白したの」 「…」 「大体、…私は別に特技も何もないし、切原君みたいに有名で人気者でもないよ。そんな奴に告白して、挙句気まずくなるとか後悔してるでしょ」 私は後悔しているよ。君に告白されたこと。君のせいで、切原君に「おはよう」が言えなくなった。話せなくなった。こんな風になるなら友達になんて、ならなかったのに。 ぼろぼろと言葉が溢れて、きっと私は今、たくさん切原君を傷つけている。でも、切原君が告白をしたのは、そう言う奴なのだ。 彼は私の話を黙って聞くだけで、文句を一言も言わなかったので、私はつい途中で言葉を飲み込んだ。 「俺は後悔してないけど」 「…うそだ」 「腹は確かに立ったけどな。…けど、お前がそこまで言うなら後悔、しよっかなあ」 「…」 「自分の気持ちに正直になれたし、お前に俺の気持ちちゃんと知ってもらえて満足?とか思ったけど、そんなぐちゃぐちゃ言われんなら、いっそ告白しなきゃ良かったかもな。こんな奴に」 そこまで言って、切原君は私を一瞥した。「…なんてさ、違うだろ」 そんなの寂しいじゃねえかと、突然両頬に伸びてきた手は、ぱちんと軽く私の頬を弾いた。いい加減暗い顔はやめろと言われているようだった。「これが真田副部長なら腫れ上がるくらい殴られてんぞ」切原君が笑った。 「後悔の理由を他の奴に押し付けて逃げ道作るくらいならよ、他人振り回してでも自分が後悔しない道探せよ」 「後悔しない道、」 「ん。…だから、寂しくなるようなこと言って俺に後悔させんなよ」 やけに哀しそうにそんな言葉が、私の心に染み込んでくるみたいにぎゅうと、胸を締め付けた。 切原君は、私より、きっとずっと大人だ。ううん、切原君だけじゃない。この世界の人は、とりわけ、私の周りにいる人は、皆、怖いくらいにまっすぐで、眩しいくらいで、躊躇いなく自分の道を進んでいく。そうして、途中で挫けている私を見つけては、何度だって帰るための道も進むための道も教えてくれるのだ。 こんな風に、私もまっすぐ歩けたら良かったのに。 私は彼の胸に、半ば頭突きのように頭を寄せると、小さく頷いた。 「でも、前みたいに戻るなんて、すぐにはむりだよ」 「あー、まあそれはしょうがねえけど、…でも無視はすんな」 「私は切原君みたいにとり頭じゃないから難しいな」 「おーおー、喧嘩なら買うぞ」 ぽこんと頭を軽く小突かれて、私はこっそり笑った。もしかしたら、切原君を好きになっていたら、もっとずっと楽だったのかもなあって、そう思う。彼といるだけで心に住み着いた蟠りがどこかに消えていってしまうのだ。 それでも、私は丸井先輩のことを忘れることはできない。不思議な力でも働いているみたいに、お互いに傷つけ合うことしかできていなくたって、運命がきつく絡まって解けなくなっているみたいに、どうしたって、丸井ブン太というその人を私の中から消すことはできなかった。 だからかもしれない。 「でもね、切原君。私にはまだ、前にも後ろにも後悔する道しか残っていない選択があるみたいなんだ」 丸井先輩に関する道は、いつだってそうだったように思う。 何を選んでも、誰を振り回したって、後悔する道ばかりだった。どちらを選んでも傷ついて、もう私は丸井先輩に関わることはないだろうと心に決めても、あの人は、私は、互いに踏み込むことをやめなかった。心の奥底にあるものを本当は暴いて欲しくて、貴方ならきっと全て分かってくれると、――でも、実際に手を伸ばされることは、触れられることはとても怖い。矛盾だらけの関係だった。 でも、今回ばっかりは私には怖くて選べない。こんな時、切原君ならどうするのだろう。 「お前がどっちか選べないなら、俺が選んでやろうか」 「は…」 「客観的ってやつ?」 他人が選んだ方が、自分の迷い抜きに良い道が選べると、切原君はそう言いたいらしい。まさかそんな投げやりな回答を貰うとは思っておらず、私は彼をまじまじと見つめ返していると、途端に彼は次の言葉を言い淀んで、それから「冗談だけど」と早口に付け足した。冗談って。 彼は貯水タンクに背を預けるとぼんやりと空を見上げて「んー…」と唸る。 「私は、どちらも選びたくない」 きっとどちらも酷く後悔するのだ。 丸井先輩に、私の気持ち含めて全てを打ち明けるか、隠し続けるか。きっとそれはこの世界に留まるか、留まらないかに関わることなのだ。丸井先輩に想いを告げてしまうことが、元の世界に帰ることへ繋がるかは分からない。ただ離れがたく思うが故の杞憂で、想いを告げたところでこの世界に残る選択肢もあるのかもしれない。そもそも、帰り方だって思いつく限りの方法でどれが正しいのかもわからないのだ。選ぶだけ無駄かもしれない。 でも、私はこの世界に留まりたい理由もあれば、帰りたいと思う理由も確かにある。やはり、いつかはどちらかを選ぶ必要があるのだ。 しかし、この選択は、あの時別の選択肢を選んでいればと、一生自分を責めることになるものかもしれないと思うと、怖く思えた。そんな風にして溢れた言葉に、切原君はふと私を見やった。 「それで良いんじゃねえの」 「え」 「選べないなら選ばなくても良いじゃん」 「何言って、」 「いっそ成り行きに任せんだよ」 どっちも後悔すんなら、もう良いじゃんどっちでも、せいぜい後悔しろよ。 どこから出したのか、切原君はテニスボールを出してくるくるともてあそび始める。まるですっかり話に興味がなくなってしまったみたいに。 「成り行きで、いつの間にかどっちか選んでるんじゃね」 「そんな簡単な、」 「選択なんてそんな簡単な話だろ」 「違う」 「そうなんだよ。良いか、よく聞けよ」 今まで投げやりと言ってもおかしくないくらいだったのに、切原君は神妙な顔をしてテニスボールをくるりと手の中で回した。 切原君は彼らしくない、こんな話をした。 例えば、だ。私が川に猫が溺れているのを見つけるとする。周りには誰もいなくて、頼れるのは自分だけだ。でも私はカナヅチで泳げない。だけど、この距離なら自分でもなんとかできるかもしれない。助けないときっと後悔する。けど逆を言えば、自分すら溺れるかもしれない。 「さて、どうする」 テニスボールが弧を描いて、私の手の中へ落ちた。選択を託された。 「…選べないよ」 「でもお前は選ぶ」 「どういうこと」 「迷ってる間に猫は死ぬぜ。つまりお前は助けない方を選んだってこと。成り行きってそういうことだろ」 投げ返せと手を振られたので、私はテニスボールを一瞥してから、それを彼の元へ放った。後味悪い、と、そんな台詞も付け加えて。 こんなことを聞いてしまったら、成り行きなどに任せたくなくなる。 「それ一番後悔するやつ」 「馬鹿だな。今のは例え話で未来なんてどうなるか分かんねえだろ」 「でもさ」 「じゃあもう一つの未来。お前の大事な大事な帽子が風で、偶然溺れてる猫の元に飛ばされたとする」 どうせ帽子を取りに行かなくちゃいけないんだから、お前は猫も助けるだろ。そう切原君は再び私へボールを放った。ほら、今度は猫を助ける未来だ、と。 彼の言い分は一理ある。だけど、私のこの選択肢というのは、本当に選ばなくちゃいけない時になったらいつの間にか選べているもの、なのだろうか。 「まあ、俺はそもそも猫を見た時にまず助けなきゃって一瞬でも頭をよぎった時点で、その選択が自分の中で一番正しく思える、…あー、なんつうの?本能的なもの、って、思うけどな」 「…切原君らしくない、話だったね」 「…実は猫の話は柳先輩の受け売り」 ああ、なるほど、と納得した。つまり、これまでに切原君も選択に迷ったことがあったということなのだろう。柳先輩に助言されるそのきっかけになるような、選択が。 ああ、もしかしたらきっとそれはこれからだってあかもしれない。いや、きっと、あるのだろう。そうやって皆、選択を繰り返して、後悔もして、そうしてまた次の選択をする。 「そもそも、興味なんてなかったら、猫の存在にすら気づかねえかもしんねえし」 私の選択の一番の後悔は、を苦しめたこと、そして自ら命を絶とうとしたこと。私が元の世界に戻れたとして、まだ命があるかは分からないけれど、この世界か、もとの世界かは選ぶ価値のある選択だ。 切原君は、私の額を弾くと、ボールを取り上げて、そろそろ教室に帰るぞ、屋上の扉を開けた。「あのさ、」 「何を迷ってるか分かんねえけど、どっちを選ぶかの鍵ってやつは、もうお前持ってるかもしれねえぞ」 「選ぶ鍵…」 「深く考えんなよ。直感だろそういうの」 つまり、もう既に私の心の奥底では、選ぶ道は決まっているということだろうか。 少し肌寒い風が髪をさらって、私はふと空を見上げた。 迫るようにそこにあったはずの夏の空はいつの間にか姿を消して、手を伸ばした秋の空は、やけに遠かった。 (きみは運命をさがしておいで) return index next ( まっくらな宇宙にはじき出された少女 // 150426 ) |