56_君を害する者として

あちらこちらで飛び交う宣伝の声に、それから来校者の浮かれる声。ごちゃごちゃと混ざったそれらはもはや一つ一つが何を言っているのか聞き取れない。意味のなさない雑音の塊と化したその中に埋もれていく私の声もその例外ではなかった。
ついに来てしまった海原祭の1日目。この喧しさがあともう1日続くと思うと少々気が滅入る。
人混みをすり抜けていくには明らかに不向きな、体よりもやけに横長の看板を首から下げて、私は露店がずらずらと並ぶグラウンドを彷徨く。
喫茶店やってまぁす、炭酸ありまぁす。どこの喫茶店とも違いのないつまらぬ宣伝文句なんてきっと誰も聞いちゃいない。そもそもこの五月蝿ささでは聞こえない。
声を出すのを諦めた私は、看板をゆらゆら揺らしながら周りの店を見回しているとふとグラウンドの真ん中に設置された野外ステージが目に留まった。今は何も行われていないが、あと数分もすれば、軽音部の出し物とか、ミスコンとかが始まるに違いない。あ、あとは明日はお料理コンテスト、とか。作るのはもちろん調理室だけど、出来上がったもののお披露目は確かあそこでやると柳先輩が教えてくれた。

「丸井先輩は結局何を作るか決めたのかな」

そんな風にぼんやりステージの方を見ていたからか、前から来る人に気付かなかった。誰かに身体が衝突した勢いで、いや、正しく言えば看板の横に長い部分がぶつかった勢いで、私はそのまま後ろによろめく。「あ、すいません」構えていた痛みが来る前に声と一緒に腕が掴まれた。こちらこそすいません、と、私は体勢を立て直す。その人の制服から、ぶつかった人物がどうやら外部から来た人らしいことが分かった。それから、どこかで見たことがある顔だということも。

「おい越前、お前がちゃんと前見てないから」
「桃先輩が焼きそばが食べたいって急かして押すからでしょ」
「先輩のせいにすんのかお前ー」

越前、というその名前には聞き覚えがある。改めてまじまじと越前と呼ばれたその子の顔を見つめると、彼は「…何」とあからさまに怪訝そうな視線を私に向けた。そこでハッとした。私は彼をテニスコートの中で見たことがあるのだと。あの太陽が照り付けるでかでかとした全国大会の会場の中で一際異彩を放っていた背の小さな帽子の少年。

「君はあれだね、越前リョーマ君ですね」
「…あんたに会ったことあったっけ」
「いや、会ったというか、全国大会見に行ったもので」
「ああ、」

越前君は、後ろにいる桃先輩とやらと顔を見合わせてから、なるほどと頷いた。だけど、それ以上会話が広がりを見せないだろうことは予想するまでもなくて、私は余計なことを聞いたことを後悔した。この後の「…だから?」みたいな沈黙が訪れるのが嫌で、まあ、だからどうってことはないんですけど、と自分から会話を切りに行く。それから私は看板を見せて「ぶつかってすいません、良かったら来てくださいね、2年D組です」と口早に喫茶店の宣伝を挟むと、踵を返してその場から逃げ出そうとした。

「ちょっと待って」
「…なんでしょう」
「あんた全国大会見に行ったってことは、テニス部の人分かるよね。俺達実は迷っててさ、真田さんのクラスに連れて行って欲しいんだよね」
「おっ、そりゃあ良いぜ。越前、真田さんのクラスってどこって書いてあったっけ?」
「えーと、」

越前君はポケットから手紙を取り出すと、それを目で追っていた。どうやらこの文化祭へは真田先輩に手紙で誘われて来たらしい。あの人達の性格から考えても当然のことだけれど、勝ち負けによって学校同士でいがみ合っているわけではないのだなと、私は改めてホッとした。

「3Aですよ」
「え」
「真田先輩のクラス」
「ああ、案内してくれる?」
「迷ってるんでしょう?良いですよ。ただ、真田先輩が今店番をしているかは分かりませんけど」
「手紙にはこの時間に店番してるってあるから大丈夫だと思う」

この邪魔な看板を抱えて無意味な宣伝をするのも飽きていたので、私は自分のクラスに戻るついでだとあっさりとそれを引き受けた。

3Aの真田先輩のクラスは、どうやら執事喫茶をやっているらしかった。教室の外装にはでかでかと執事喫茶と記されており、私達はきっと誰もが真田先輩の執事姿を想像しようとしたに違いない。結果としてはできなかったのだが。

「真田さんのクラスはもっとこう、道場みたいなものやってるかと思ったぜ」
「それ店ではないですよね」

まあ気持ちは分からなくはないんだけど。大真面目に道場を期待していたらしい桃先輩とやらは、私の台詞に、それもそうだなと苦笑した。まあなんにせよ、無事に案内を終えたので、私はそれではここら辺でと自分のクラスへ帰ろうと、階段のある方へ身体を向けた。元よりシフトでもなんでもないのに、気まぐれで引き受けた宣伝だ。そろそろ海友会館にでも入り浸ってずっとそこで時間をつぶすのも良いかもしれない。――しかし人生というのはなかなか計画通りにいかないものである。

「お、じゃん」
「ほんとじゃ」
「嫌な声が聞こえた気がする」
「おっ、あれって丸井さんと仁王さんじゃ、」
「ほんとっすね」
「あっ、私もう行きますんで、文化祭楽しんでくださいねそれじ、っぐえ」

丸井先輩達が来る方向とは逆に逃げ出そうとした私はあっさりと襟首を捕まえられて後ろに引き寄せられた。丸井先輩の腕が首に回る。この人達はどうしてこういう乱暴な引き止め方しか知らぬのだろう。越前君が私と丸井先輩達を交互に見て「知り合いみたいッスね」と言った。不本意ながら。

「不本意って何だよ。つうかお前3Aには来て3Bに来ないとか」
「見て分かりませんか、私は今店番中なんですよ」
「つまりサボってまでA組に来たってことだよな」
「ぶん殴って良いですか」
「それよか何でがこいつらと一緒におるんじゃ」

この二人が立海に遊びに来ることはきっとテニス部の人達は知っていたのだろう。丸井先輩の腕を振りほどいて、制服を整えていると、桃先輩とやらが「案内頼んでたんスよー」と校内で迷っていたことをあっけらかんと言って、丸井先輩が「こんなとこで迷うなよ」と返した。いやまあ、でも無駄に広いですしね。立海って。

「あ、つうか、お前店番は赤也と明日のラストとか言ってなかったか」
「人出が足りなさそうだったので手伝ってただけです」
「じゃあ今からお前のクラス遊びに行こっかなー」
「お好きにどうぞ。私は休憩に入るので」
「あ、そう」

丸井先輩は肩をすくめて頷いた。そのやり取りを見ていた桃先輩とやらが、もしかして、と口元をにやりと緩める。締まりのない顔に一体なんだろうと思っていると、彼が一言。

「もしかしてその人って丸井さんの彼女ッスかぁ」
「はいい?」
「おっ、見る目あるねえ流石青学の曲者」
「あ、やっぱりそうなんすね。通りで皆さんと仲が良いと思ったんすよー」
「ほう俺も知らんかったわ」
「違いますけど!」

私がテニス部の人と知り合いなのは、テニス部の切原君と同じクラスで隣の席で、ほいでもって仲が良いからであって、決して丸井先輩と付き合ってるとかそんなカオスな状況が生み出されているからではない。丸井先輩は本当に余計なことしかしないし言わない。どうせ本気じゃないくせに、時々こんな風に軽々しく好きだとか、会いたいとか、あと一番ムカついたのは、愛の逃避行とか、私を惑わすような言葉を吐く。もう慣れたとは言え、無性に腹が立つのだ。しねばいいのに、と真顔で答えると、丸井先輩の手が私の頭に伸びた。

「いっつもこうなんだよ、生意気だろい。越前と良い勝負なんじゃね」
「ちょっと」
「ははは、言えてますね」

む、と口を尖らせた私は、越前君を一瞥すると、彼もまたそんな表情だったので、口元を元に戻す。それに仁王先輩かクツクツと笑っていたように見えたけどきっと気のせいだろう、そういうことにする。
そんなことより、生意気な後輩がなんだと言う前にそもそも先輩がふざけた態度だからこそ、私達の今の態度があるのではないだろうか。先輩がきちんとしてたら生意気にはならない。だって私は真田先輩にも柳先輩にもこんな態度はしないもの。

「先輩がちゃらんぽらんだとお互い苦労しますね越前君」
「そっすね」
「まあそういうわけで私はこの空間から離脱しますね」
が酷いことだけ言って立ち去ろうとしてる」
「ちゅうか『そういうわけ』ってどういうわけか分からんが」
「そういうわけです」

無理があるまとめ方だが、いつまでもこうしているわけにも行かないので、私は看板を外して脇に抱えなおすと、それじゃあと手を上げた。

「越前君も桃先輩とやらもどうぞ文化祭を楽しんでください」
「桃先輩とやらって、…桃城武だよ。切原と同じクラスならあんたと同い年」
「そうですか。それでは越前君、桃城君、暇だったら2Dにもどうぞ。でした」

さささ、と私はそれだけ言って足早にその場を立ち去った。名前なんて名乗ったところで、きっと今後会うことはないだろうとは思うけども。それから「俺らは無視かよ」と丸井先輩の声が後ろで聞こえたが、だって丸井先輩と仁王先輩には来てもらいたくないから故だとこっそり心の中で付け加えたのだった。
自分の目的地である2Dに辿り着くと、私は看板を適当なクラスメイトに託して新たに何かを頼まれる前に、早々に教室を出た。昼が近いために喫茶店はそれなりに混み合っていたのだ。看板が重かったから肩が痛い。うちの喫茶店も既に然りだが、昼時になると皆が昼を食べるために席を求めて、余計に落ち着ける場所がなくなってしまうので早い所、海友会館を覗きに行こうと思う。

「ずいぶん急いでますねー。看板置きに行ってからの予定は?お嬢さん」
「え、いやあ、ベビーカステラ屋にでも行ってビックサイズを買って、海友会館に篭ろうかな、と、…って丸井先輩!?」

やっぱりどういうわけか計画通りにいかないのが私の人生。
いつの間にやらナチュラルに隣に並んで歩いていた丸井先輩は、きっと私が教室から出てくるのをわざわざ待っていたに違いない。反射的に飛び退こうとする私は、先輩に腕を掴まれて「はいはい周りの人にぶつかるからなー」なんてまるで私がいけないみたいにやけに図に乗ったような諭し方をされた。

「なんで隣を歩いてるんですか、仁王先輩と仲良くデートでもしててくださいよ。それに越前君達もいたでしょう」
「デートとか気持ち悪いこと言うんじゃねえよ。何で部活もクラスも同じ仁王と文化祭まで一緒にいないといけねえの」
「さっき会った時に既に一緒にいたじゃないですか」
「あれはたまたまクラスの外にお前らを見つけたから一緒に出てきただけ」

A組の隣はB組という当たり前の事実が頭から抜け落ちていた自分を恨まざるを得ない。歩く速度を上げると、当然の如く丸井先輩はそれについてきたのだけれど、(というかその速度が先輩の普通みたいだった)走られると困ると思ったのか、すぐに腕を掴まれた。確かにこの人混みだから、うまくすれば丸井先輩を撒くことは可能だったはずだ。不覚。

「申し訳ないんですけど、私友人と約束があるので、そろそろ解放していただいて良いですか」
「友人て誰ですか」
「そっ、…れはですね、切原君です」

もちろん嘘だった。
友人と文化祭を回るからと言えばきっと丸井先輩も身を引いてくれるだろうと、咄嗟に考えたけれど、私の頭にすぐに浮かぶ友達が切原君との二人しかいなかった。そもそも浮かぶも何も、実際の友達自体、その二人しかいない。しかしながらテニス部の人の名前なんぞ挙げたところで、じゃあ俺もついて行く、となるのは目に見えている。俺がいても問題ねえじゃん、みたいな顔をしている丸井先輩に、私は思わず頭を抑えた。

「…丸井先輩友達いないんですか」
「は?お前よりは遥かにいるよ」
「そうですよね、それなら、」
「俺がいたら邪魔かよ」

先輩の口調が若干、きつくなったように思えて、怯んだ私は「…別に」と絞り出すような声を出した。胸の中にぽつんと影を落とした罪悪感のような感情に、私は戸惑う。何を振り回されているのか。流れを自分の方に戻さなければと、言葉を探していると、しばらくの沈黙の後、先輩が不意に笑った。

「なんて、冗談。でもどーせ赤也となんて約束してないんだろい?」
「…」
「ほーらな。丸井先輩はお見通しなんだよ」
「…はいはい、そうでしたね」
「まあ、嘘ついた詫びってことで先輩に付き合えよ。ほら」
「あ、ちょっ」

丸井先輩は私の手を取って前を歩き出した。遠慮なしに絡まる指に心臓が跳ね上がる。
今まで、私が振り回したのと同じくらい、丸井先輩にもたくさん振り回された。先輩の言葉に頭が真っ白になったり、混乱した。しかもその言葉たちはどれも私の胸に引っかかってはずれないまま、私の中に居座り続けている。丸井先輩のことは結構好きだし、先輩との繋がりを失うのは嫌だ。だけど、積極的には関わりたくないのだ。この矛盾したような気持ちはどこから来るのだろう。

関わりたくないのに、…それは以前から、そしてこれからもきっとそのはずなのに、
私はどうにもこの手を、振り払えない。



(君を害する者として)


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( まっくらな宇宙にはじき出された少女 // 150321 )