55_バッドエンドの卵 |
丸井先輩の家に来たのはこれで何度目だろうか。そんなに来ているつもりはないのだけれど、私の家から先輩の家まではそんなに遠くないので、道には迷わなかった。多分それを見越していたからか、丸井先輩から、彼の家までの道案内は全くされずに、単に「家に集合!」みたいな、そんな流れになったのだと思う。 「雨の日と、迷子の時に一回と、それから今日、で、…うわあ三回目」 こんなつもりではなかったのに。丸井先輩とはきっとそんなに関わらないで生きていくのだろうなと、いや、そうして生きていくつもりだったのに気づけば家に来るのは三回目。 さっきから私はチャイムのボタンの前で指を出したり引っ込めたりするのを繰り返していた。肌寒い中でかれこれ十分。我ながら頭が悪いと思う。引き返すことも考えたが、きっとそんなことをしたら丸井先輩が家まで迎えに来るのだろう。そうでなくても人との約束を無視することは気が引ける。たとえそれが昨日突然丸井先輩に無理矢理させられた不本意な約束であっても。 ほら、こんなことをしているうちにまた三分が経過した。実は約束の時間を五分ほど過ぎていたりする。 「よ、…ようし、押すぞ」 しかし流石にそろそろ腹を括らねばまずいのではないかと思い始め、私は深呼吸を一つすると、ボタンの上に指を乗せた。その時だ。 玄関のドアが開いて、中からはサンダルを履いた丸井先輩が顔を覗かせた。「あ、」さしずめ、待ち合わせ時刻が過ぎているので様子を見るために出てきたのだろうが、私は酷く驚いて思わず三歩くらい後ろに飛び退いた。間髪を入れずにパッパー!と車のクラクション。道路のど真ん中へ飛び出していた私は慌てて道の端に避けると、それを見ていた丸井先輩がため息をついた後に頭を抑えていた。自分の落ち着きのなさを恥ずかしく思って私は顔を伏せる他なかった。 「気をつけろよな」 「…すいません」 丸井先輩は扉を大きく開くと、顎でしゃくって私を中へ促した。中へ上がるのは初めてだ。玄関には丸井先輩のローファーと、小さな運動靴がきちんと整頓されて端に並べられていた。後ろで扉の閉まる音がして、私はびくりと身体を震わした。おっ、お邪魔します…。 先に上がった丸井先輩は、まっすぐな廊下をずんずん進んでいった。奥に見える扉がどうやらリビングへと続くそれらしい。 「お前、何分くらいああやって悶々としてたの」 「えっ」 「どうせ本当は待ち合わせ時間より前に来てたんだろい」 開かれたリビングの扉からは甘い匂いがふわりと流れ込んだ。やはりまたお菓子を作っていたようだ。というかそもそも私が呼ばれたのはそう言えば和菓子の試食のためだったのだ。 肩を竦ませた丸井先輩は椅子の背もたれに引っ掛けてあったエプロンをサッと巻きながら、私を振り返った。丸井先輩の台詞にぎくりとする。先輩にはどうやらお見通しらしい。私は答えなかった。というより、何かを言うよりも前に、先輩の弟達がぴょいと飛び出して来て、二人で私を挟み込むように抱きついてきたのだった。「こんにちは!」と眩しいくらいの笑顔が向けられる。 「…こんにちは、お邪魔します」 「あ、今日親いねえから気楽にしてて良いぞ」 「はあ、」 「ソファどーぞ」 「あ、すいません」 丸井先輩に言われて側のソファに腰を下ろすと、隣に弟達が並んで座る。前のテレビからは今流行りのナントカレンジャーのDVDがついていて、二人は足を揺らしながらそれを見ていた。丸井先輩はキッチンの方へ引っ込んで行く。と言っても対面式のキッチンだったのですぐそこにいるのだけれど、キッチンの水の音と、テレビの音、弟さん達のはしゃぐ声、これが丸井先輩の家の休日なのかと思うと、少しだけ和んだ。キッチンにいた先輩はお皿を掴むとこちらへ戻って来た。「和菓子第一弾だぜ」皿の上には丸い形に型抜きされた羊羹が載っている。 「柿の羊羹な」 「綺麗な色ですね」 「うわぁぁ、にいちゃん僕たちも食べたい!」 「母さんが駄目って言ってただろい。おやつまで我慢な」 「えー!」 二人の声は耳がキーンとくるくらい大きかった。私は渡されたスプーンで羊羹をすくうと、隣からぐさぐさと物欲しそうな視線が突き刺さって、丸井先輩を伺うと、先輩は「あいつらは気にすんなよ」と肩を竦めた。まあ後で丸井先輩が作ってあげると言っているのだから先輩の言う通りなんだけれど。 「じゃ、じゃあいただきます」 「おう」 羊羹はしっかり冷えていて甘過ぎずとても美味しかった。「まずい?美味しい?甘い?どう?」弟達の視線も痛いけれど、丸井先輩の視線も相当で、兄弟だなあと思う。私は美味しいですよ、とだけ答えて、それから少し身を引く。美味しいかまずいかを伝えるのもそうだが、私の一存で丸井先輩のコンテスト用の和菓子の方向性が決まってしまうのはとても申し訳ない気がしたのだ。 「んなこと気にすんなって。俺だって自分で食べてどうしたらいいか考えてるし」 「でも、」 「ん、じゃこうしようぜ」 丸井先輩はぽんと私の頭に手を乗せると、「今日はお前の好みを知る会ってことで」と言った。 私はコンテスト前なのに、こんなことに時間を割いていて大丈夫なのかと思ったが、きっと私にアドバイスを求める前にきっとだいたいの方向性とか、コンセプトみたいなものがすでにできているんだろう。家に行く約束をした時も、このお菓子の試食はとってつけたような理由に聞こえたし。 皿の上の羊羹はあっという間になくなって、先輩は満足そうに笑うと、それを掴んだ。また何かお菓子を作るのだろうか。 「次は何を作るんですか」 「んー…そうだな。…あ、じゃあ、さ、」 「…はい?」 「俺が作ったお菓子で、今までで一番美味しかったの何?」 キッチンに戻っていく先輩は私にそんなことを問うた。私の頭に一瞬ちらついたのはマフィンだった。ここでも、過去でも、初めて丸井先輩にもらった手作りのお菓子である。私がその名前を口にすると、多分図書室で借りたと思われるお菓子の本へ視線を落としていた先輩は、ふと顔を上げた。先輩の瞳の奥に見える驚きの色。 「…マフィン?」 「あっ、和菓子の話でしたか?」 「えっ、うん、…あ、いや」 「どっちですか」 ぱたんと本が閉じられた。私の問いに先輩が答えることはなく、背を向けられてしまう。「たまごあったかなあ」わざとらしい言い方で冷蔵庫を覗き込む先輩。下手にはぐらかされた気がするけど、どうやらマフィンは作ってくれるらしい。そう言えば、お菓子をもらったことは何度もあっても、作っているところは一度も見たことがないなと、私はソファから立ち上がって好奇心からキッチンへと足を踏み入れた。なんとなく、キッチンは丸井先輩の神聖なるスペースって感じがしていたけれど、私がやってきたことについては特に何も言われなかったので、彼の邪魔をしなければ良いのだろう。 必要な材料が調理台の上にざらっと並べられて、先輩が腕まくりをする。 先輩の作業には無駄がなかった。というか、手馴れてるなあという感じで、今まで粉のふるい方に上手い下手があるのかと思っていたけど、丸井先輩のそれは思わず感嘆してしまう程だった。卵だって片手でパカン、だ。 「本当、料理に関してだけは尊敬します」 「だけってなんだよ」 「それ以外に何か尊敬できる部分ありましたっけ」 「あるだろい、たくさん」 「たとえば?」 しゃかしゃかとボウルを抱えて、泡立て器から軽快なリズム。 あんまりに滑らかな手つきで簡単そうにこなすものだから、自分もできるような気がしてしまう。隣で先輩のやり方を観察しながら混ぜる真似をすると、先輩が笑った。 「例えばテニスしてる丸井先輩がかっこいいとか」 「はあ、」 「私服の丸井先輩もかっこいいとか?」 「それ尊敬なんですか、ていうかナルシストなんですか、馬鹿ですか」 「…あー今日もそれ聞いたら、ちゃんとと一緒にいるって気がするわ」 丸井先輩のその台詞に、なんとなく違和感を感じた。どういう意味だろう。いや、言葉通りなんだろうけど、少しだけ引っかかるような。考えすぎだろうか。 先輩を一瞥すると、彼は、やる?と私にボウルを差し出した。そういう意味で見たわけではなかったが、興味があったので、私は黙ってそれを受け取った。先輩がやっていたそれを思い出しながらぐるんぐるんとボウルの中身をかき混ぜ始める。 「ま、あれですよね」 「うん?」 「テニスしてる時と料理してる時の先輩はかっこいいですよね」 「…」 「…あれ、…うまく混ざらないな」 こういう混ぜ方であっているのだろうか。渡した割に特にアドバイスないのかよと思いながら、先輩の手を掴んで「もっかい見本お願いします」と私は顔を上げた。先輩は少しだけ頬を赤くして目を逸らした。それでも「おう」とは答えが返っては来たのだけれど、私も釣られて顔が熱くなった。 「…っなんですか」 「いやなんかどきどきしてきた」 「やややめてくださいよ」 「何もしねえよ弟達いるし」 「何考えてるんですかほんと殴りますよ」 「だから何もしねえって」 「…」 「お前が今日やけにデレるから」 「はあ?」 先輩は視線を自分の手元へ移したので私もそちらへ目をやるとばっちり先輩の手を握りしめている自分の手が視界に入った。うわあ、いや、でもこれは「先輩ちょっと聞いてよ」みたいなそういう意味で握ったのであって、というか握ったのではなく掴んだの間違いだ。他意はない。泡立て器を掴むのと同じ感覚で掴んだだけなのだ。いや本当に。そう説明をしている内に、何だか必死に丸井先輩の言う『デレ』た言い訳をしているように聞こえてきて、私はぴゃっと先輩から飛び退いた。顔が燃えるように熱い。 「セクハラですよセクハラってやつですよ」 「この場合お前がな」 「丸井先輩の存在そのものがセクハラなんですよ!」 「おおおい!やめろよその変質者みたいな言い方するの!」 これは一時退避するしかないと私は考えなしにリビングを飛び出して行った。「どこ行くんだよ」と扉の向こうから声がする。お手洗いですよセクハラ!もう自分でも何がしたいのかわからなかった。真田先輩の家に行った時もそうだったけど困ったらお手洗いに逃げようとするのはよくない。格好が悪い。でもとりあえずお手洗いどこだろうと廊下の真ん中で立ち尽くしていると、リビングの扉がきいい、と開いた。 「ばしょわかる?」 顔を覗かせたのは8歳の弟さんだった。「あ、いえ…」こんな小さい子に気を使われる自分が情けなく思った。 手洗いの場所を聞いてから、私はリビングへ戻るのを渋っていた。どこにいたってリビングからキッチンの様子が丸見えな、(逆もしかり)対面式の流行型キッチンを私は心底恨む。とても丸井先輩の家っぽいけど。弟さんはそんな渋る私の姿を見て、何かを察したらしい。 「おうちの中を探検する?」 「えっ」 「ぼくが案内してあげるよ」 この一家は兄弟揃って人に気を回すのが上手いのだろうか。リビングに戻りたくないと察してくれたのだろう。今のタイミングで褒めたくはないが丸井先輩だって顔とか雰囲気とかそういうのに似合わず気が回る人だ。 手をそっと繋がれて、彼は私の返事も聞かずに「こっち!」と二階へ続く階段の方へ腕を引いた。ちょ、ちょいとお待ちよ! 「あ、あのね、でも勝手に探検したら怒られないかな」 「お兄ちゃんにはないしょだよ」 「…ええ」 「あとお母さんにもね」 しい、と口の前に人差し指を立てた弟さんは可愛かった。じゃなくて。何度引き止めても弟さんは聞き分けてくれなかったので、私はしようがなく、ぐいぐいと遠慮のない力に従うことにした。 そうして一番初めに案内されたのは、二階のいくつかあるうちの一番手前にある部屋だった。 「ここがお兄ちゃんの部屋」 「そっか」 扉には「ブン太の部屋」とポップな字体のプレートがかかっている。きっと小さい時から使っているものだろう。じゃあ隣の部屋は、と私は説明だけ求めるように話題を変えようとすると、その前に弟さんは扉をがちゃりと開けて、私を振り返った。 「はい、どうぞ」 「…どうぞって」 「まずはお兄ちゃんの部屋を探検しよう」 「えええ、いやそれはあとで私も何を言われるか、」 「おたからを探すぞー!」 「ちょっ、」 有無を言わさず私は中へ押し込まれた。先輩の部屋は想像よりも幾分も綺麗に整頓されていた。もう部活に持っていく必要のなくなったラケットバックが部屋の隅に置かれている。勉強机の上には読みかけのテニスの雑誌が開いていた。 人の部屋を覗くのはとても気が引けたが、一度足を踏み入れてしまうと、私はまるで何かに引き寄せられるように、中へと進んでいった。 「にいちゃんはお菓子を隠してることがあるんだ」 弟さんの手が勉強机の引き出しに伸びた。片っ端から引き出しを覗き込んでは勉強道具の収まったそれに不服そうな顔をして閉める。そんなことの繰り返し。何やらまずいものでも見たら余計に顔を合わせずらいと彼を止めようとした時、勉強机の最後のひとつの引き出しに手が掛かった。勢いよく開かれたその中にはさらに小さなダイヤル式の箱がひとつあるだけで、他には何も入っていない。弟さんは目当てのお菓子がないことにがっかりして、中身にはすっかり興味をなくしていたけれど、私はその箱から目が離せなかった。模様も何もない真っ白なその箱は妙な存在感を放っている。無意識にその箱へと手を伸ばしていた。くるりと、ダイヤルを回す。 「って、いやいやいや、何してんだ私は」 理性が自分の手を止めた時、一階から丸井先輩の私を呼ぶ声が聞こえて、私はびくりと肩を震わせた。その拍子に手がダイヤルが回して、カチリとそれが外れる音がする。うそ、まじか。 「おーいー?」 「い、今戻ります!」 今戻りますって何だ、と思いながら私は鍵の開いた箱と、扉の向こうを交互に見た。鍵が開いてしまえば中身が気になるところ。やってはいけないことだと思いながらも、私はその箱の蓋に手をかける。 中に入っていたものを見た瞬間、私は呼吸をするのも忘れた。 リクエスト通り、丸井先輩はマフィンを作っていた。チョコチップとか、抹茶とか、プレーンとか、よくもまあこの短時間でこんなに種類を作ったなと思う。それだけ味を分けたので量もそれなりにあって、一種類ずつ食べたらあとはお土産に分けてもらうことにした。家に帰ったらきっとゆずるが大喜びすることだろう。 マフィンが焼きあがる頃、丁度弟さん達のおやつの時間とも重なって、丸井先輩のマフィンを皆で食べながら皆でお喋りをして、そんな風にしている内に、時計の針はもう何周もしていたらしい。いつの間にが陽も傾きかけていた。 弟さん達がもっといてよと言ってくれたのだけれど、親には夕方には帰ると言ってあったし、あまり遅いとゆずるが乗り込んで来るかもしれない。そうでなくても家に帰った後が怖いのだ。 「今日は本当にありがとうございました」 「ん、また来いよな」 「…まあ、時間があれば」 「そこは嘘でも頷いておけよ」 「嘘をつけないタチで」 「『嘘つき』」 丸井先輩がわざとらしく肩を竦めた。玄関の前でのそんな日常的なやり取りは、今までの私達じゃあきっとあり得なかったもので、夕焼けに照らされて余計に温かいものに感じる。私は「それじゃあ」と手を振った時、不意に丸井先輩の瞳が不安げに揺れた気がした。 「…、」 帰路に着こうとしていた私の背中に先輩の声がかかる。振り返ると夕日に照らされて、足元には影がぐんと伸びていた。私の背にある夕日に少し眩しそうにしながら、先輩はもう一度私の名前を呼んだ。 「何ですか」 「…」 「丸井先輩?」 「わり、なんか…『変な感じ』がしただけ」 「また、それですか」 私が笑うと丸井先輩もぎこちなく笑い返した。先輩は何か言いたそうな、そんな気がしたけれど、どういうわけか今は何も聞かない方が良いような気がして、私はもう一度頭を下げた。 「じゃあ、さよなら」 「…ん、また、学校でな」 夕日は不気味なくらいに赤く、街をゆらゆらとその色に染めていた。 (バッドエンドの卵) return index next ( まっくらな宇宙にはじき出された少女 // 150313 ) |