54_君が泣くための庭 |
購買戦争を勝ち抜くにはスタートダッシュがいかに肝心かがきっと語られる。それにはチャイムと同時に教室を飛び出すのが何より大事だけれど、仮に授業が5分でも早く終わればそれに越したことはないので、その工夫も大事だ。と、購買戦争の覇者の丸井先輩は言っていた。どんな工夫かは企業秘密らしいがきっとおかしな話題を振って早く授業が終わるような流れに持っていくのだろう。くだらねえ、と初めは思ったけれど、でも購買戦争で勝ち抜く力を持つところは丸井先輩の唯一尊敬できる部分でもある。 そんな私の手の中には購買戦争の覇者のみが手にすることを許される限定の小豆抹茶プリンがあった。私の足取りも軽快だ。教室への道を戻りながら自然とスキップなんてして、私がくるりと一回転したところで、突然ポケットの中の携帯が震えて私の足を引き止めた。 「あれ」 私はあまり携帯を使わない方だと思う。 一番話す切原君は隣の席だから、わざわざメールや電話をすることもないし、だって何かあれば直接教室に行き来する。ゆずるなんて以ての外で、彼は学校にいる時はあまり私と接触を取ろうとしないのだ。 振動はいつまでたっても途絶えることはなくこれは電話だなと思った。一体誰だろうと視線を移したディスプレーには『着信:丸井先輩』…この人のことを忘れていた。私は画面を見たまましばらく出ることを躊躇っていたけれど、きっとこの着信は私が電話に出るまで続くのだろうなと思う。観念して私は通話ボタンの上に指を乗せた。 「もしも、」 『何で出るの躊躇うんだよ』 どきり、と心臓が跳ねて冷や汗が噴き出した。どうして私が電話に出るのを躊躇ったのだと分かったのだろう。出るのが遅かったから、そう考えたただのハッタリだろうか。もしそうなら引っかかってやることはないと「出るのが遅かったのは携帯を出すのに手間取っただけ、」なんて私はけろりとした調子で言いかけた。『はい嘘ー』先程から丸井先輩は私に最後まで喋らせる気がないのだろうか。 「どうしてそんなこと分かるんですか。丸井先輩はエスパーか何かですか」 『そうだよ。お前のことみんな分かっちゃうの』 「きもちわる」 『言うねえ。それじゃあ、右向いてみろよ』 私は丸井先輩のその台詞の意味が瞬時に理解できた。そしてどうして私が電話に出ることを躊躇ったのを先輩が分かったのかも。 私の右側にあるのは窓だけだ。しかしこの校舎はコの字に一つの建物が向かい合うような作りになっているため、窓のその向こうには、というより向かいにはまた同じように廊下が見えて、教室がある。わざわざそちらを向かずとも、そこに丸井先輩がいることは明白だった。 私は左側を見ながら止めていた足をサカサカと動かし始めた。 「右側ですか、何もありませんけど」 『そっち左だっつうの、つうか待て待て』 「待ちませんよ」 『ふうん、何、またスキップでもすんの』 「…見てたんですか」 『ターンしたとこも見た』 「だからからかうために電話したんですね」 『おっ、察しが良いな』 「切ります」 携帯を耳から話す直前、どーぞ、と丸井先輩が言って、その理由を問う間も無く通話が切れた。足を止めて私はぼんやりと画面を見つめる。通話時間1分36秒。不通音を聞きながら「どうぞってどういう意味だ」と携帯をポケットに押し込んで教室に向かって歩き出そうと、少しだけ手の温度でぬるくなった抹茶プリンを一瞥して顔を上げると、そこには丸井先輩がガムを膨らましながらこちらにやってくる姿が見えた。はあああもう何あの人意味分からん。 丸井先輩もすぐに私に気づいて手を挙げると小走りに近づいてくる。 「はい見っけ」 「どうぞってそういう意味かよ」 「階段さえ押さえちまえばあそこからここまでは一本道だからな」 なるほど、私に追いつけると思ったのか、と私は肩を竦めた。丸井先輩は私の手の中のプリンを見て、私の機嫌が良かったのを察したらしい。小さく笑って「可愛いやつ」と呟いた。子ども扱いされた気がして、私はむっと口を閉ざす。 「そんくらい言えば俺が買ってきてやるのに」 「…こーゆーのは自分で勝ち取ってこそなんです」 「そっか。あ、お前これから昼飯?」 「…そうですけど」 「んじゃ食堂行こうぜ、今日は屋上だとさみいし」 「ちょっと待って、何で一緒に食べることになってるんですか」 「逆に聞くけど何で食べないことになるの」 丸井先輩の言い分は明らかにおかしい。きっとこの場において何で一緒に食べることになるのかという質問は間違いではない。むしろ正解だ。しかし、逆にどうして駄目なのかと問われると悔しいが何も言い返せなくなってしまう。だって私は丸井先輩のことが「結構好き」と宣言したばかりで、今ここでまた「嫌いだからだよばーか!」なんて言ってやっても良いのだけれど、後々関係修復するのがとても面倒なのと、今回ばかりはなんだかそんなことを言ってしまうと後が怖い気がした。いや、むしろ言った直後に、何かされそうな、そんな気さえする。何故なら最近の丸井先輩は調子に乗っているからだ。自分が無敵モードか何かと勘違いしているんじゃないかってくらい。嫌な言い方をすると、多分私と丸井先輩は前よりもうんと仲良くなったのだと、…思う。 パンやるぞ、と物で釣ろうとする丸井先輩に、私は「一人で屋上に行きます」と口を開いた。 「だから寒いって」 「屋上庭園があるし、心安らかにご飯食べれるって言うか」 「つうか未だに開けらんねえじゃん、屋上」 「そ、それは、…」 「屋上に行くのかい?」 「あ、幸村君」声の先に視線をそらした丸井先輩が言った。会話に割って入ったのは幸村先輩だった。そこで丸井先輩が、私が屋上で昼飯食べたいんだって、寒いのに、とわざとらしく肩を竦めて、私も歩が悪かったかなと思いながら手元の抹茶プリンに視線を落とす。 幸村先輩は話を聞いて窓の外へ目を移した。「ああ、」頷いたそれは、きっと寒いよね、という同意の意味なのだろう。 「じゃあ俺のブレザー貸そうか」 「えっ」 ぱさりと、手の上に幸村先輩のブレザーが置かれた。状況を理解できない私は丸井先輩を見ると、先輩もまた、ぽかんとそのブレザーを見つめていた。そんな私達に「これから屋上庭園に行くつもりだったんだ」と幸村先輩。つまり、一緒に行こうか、と誘われているらしかった。でもこう言ったらあれだけれど、先輩はまだ病み上がりで、ブレザーを借りるのはありがたいけど、もし幸村先輩が風邪でも引いたら。 「もうすっかり元気だから大丈夫だよ」 「そう、ですか…」 「じゃあ行こうか。昼休みがなくなるよ」 有無を言わさぬ雰囲気だった。そう言えば、この間、一度ゆっくり話したい、と言われたけれどそのことなのだろうか。勢いに押されて私は幸村先輩の背中を追おうとすると、それを丸井先輩が引き止めた。「だったら上着は俺が貸すって」と、幸村先輩の身を案じた言葉が寄越される。この流れだと3人で仲良く屋上コースだなと思った。まあ、幸村先輩と2人きりというのも少し気まずいようなので、一番ありがたい形なのかもしれない。私が丸井先輩を振り返ってそう考えた時、幸村先輩は予想とは全く違う方向の話を持ち出したのだ。 「そう言えばさっき真田がブン太を探していたよ」 「え、」 「文化祭の部活の出し物のことだと思うけど」 「…おう」 「急いでいたみたいだからすぐに行った方が良い。ブレザーのことなら大丈夫だよ、心配してくれてありがとう。じゃあ」 相変わらず何かを言う隙がない。私には、丸井先輩にお前は来なくて良いよ、と暗にそう言っているように聞こえた。幸村先輩は丸井先輩が嫌いなのかと思ったのだけれど、幸村先輩の口調は撥ね付けるようなそれではなく、諭しているような様子に近かった。丸井先輩はしばらく私をじっと見据えて何か言いたそうにしていたけれど、「分かった」と頷くと、ブレザーだけ私に押し付けて踵を返した。 「お前も幸村君もどっちも心配だからな」 これだけは譲らないと、そう付け加えて丸井先輩は小走りに真田先輩の元へ行ってしまった。そうして丸井先輩の背中が見えなくなってから、私は先輩の好意に甘えて、せっかくだからと幸村先輩のブレザーを本人に返した。「丸井先輩って優しいですね」幸村先輩を試すような意味でそう言うと、先輩は上着を受け取って、そうだね、と笑った。 屋上に着くと、私は屋上庭園から少しだけ離れた場所に座って、幸村先輩は庭園の花の様子を見たり、葉を触ったりして手入れをしているようだった。男の子でここまで花が好きな人もあまり見ない。幸村先輩にはとても似合うけれど。 幸村先輩は、私を連れてきた割に、庭園にかかりきりで、何か話があるような雰囲気ではなかった。思い違いだったのだろうかと私はパンを齧ってから、おずおずと幸村先輩の背中へ声をかける。 「私に何かご用があるのかと思いました」 「え?」 「あの、以前に、また話したいって言ってたので」 振り返った先輩は、私の元まで来ると、隣に腰を下ろしながら「ああ、あれはね」と笑った。「君がどんな子なのか、話して知りたかったからだよ」と。 「真田達とお見舞いに来てくれて会った時と比べて、君は雰囲気が変わったように見えたから」 「そう、ですか」 「ああ。…最近は赤也や、ブン太と仲が良いみたいだね」 「はあ、」 先輩の瞳が私を捉えて、心臓が跳ねた。幸村先輩はとても綺麗な顔をしていると思う。こんな距離で先輩の顔をまじまじと見たことがなかったので、私はどぎまぎしながら前髪を押さえて逃げるように視線を落とした。確かに屋上は少し寒かったが、熱くなった顔には丁度よく思えた。 「さっきも一緒にいたけど、さんはもしかしてブン太が好きなの?」 「は!?…あ、いえ、違いますよ!さっきのは丸井先輩に嵌められて一緒にいただけで、私の意思ではないですし」 「そっか」 「…あの、でも、友人とか、そう言う意味では、結構好きです」 「見かけによらず優しいもんね」 「丸井先輩だけじゃなくて、他の方も、テニス部の人皆も」 彼らがいなければ、きっと今の私はいないのだ。本当に本当に感謝している。私がそういうと、先輩は頷いて、「それは俺もよく思うよ」と空を見上げた。釣られて顔を上げると、空は雲ひとつなく、どこまでも青青としている。隣にいる先輩は、大きく息を吸った。 「彼らがいなければ今の俺はきっといないんだ」 「幸村先輩」 「俺、今がすごく楽しいんだ。病気になって、そこからここに戻ってきて、病気にかかる前より、生きてるって、よくそう思う」 その言葉は私もよく理解できた。が死んで、心が疲れきってしまったけれど、そこから掬い上げられた今、私は以前より、生きてると感じられるようになった。この一瞬一瞬を失いたくない。全部が、毎日があまりに輝いて見えて、以前ならこんな命、と思っていたのに、失うことが恐ろしくなるくらいだ。 「病院の先生にね、もうテニスはできないって言われたんだ。手術だって、うまくいくかは分からなかったし」 「…そう、…だったんですか」 「俺自身、全部投げ出そうとしたことがあったよ。これは運命だからもうどうしようもないって。でも、諦めかけていた俺を皆が支えてくれたんだ。だから俺は今ここにいる」 「…」 「さん、俺はね、きっと、皆がいなかったら、俺を支えてくれていなかったら、全部諦めて命を捨てる選択をしていた未来も、あったんじゃないかって思うよ」 の姿が頭をよぎった。病院のあの薬臭い匂い。白い世界。揺れるカーテンにやせ細った体。窓にかける手、サッシを蹴る足。落ちていく彼女。全部鮮明に覚えている。彼女にあった未来は幸村先輩の辿るそれとは違い、死だった。 「決まった運命なんてなかった。いくらでも変えられるんだ」 「…私は、」 「諦めるか、諦めないか、それだけだよ。そう思わないかい」 「…そうなんでしょうか」 幸村先輩が微笑んで、その顔が一瞬だけに重なった気がした。ツンと、鼻が痛くなる。冷えた空気がごちゃごちゃになった頭を冷やしていくように吹いて、私はスカートの裾をぎゅっと握りしめた。先輩の言葉が胸にすとんと落ちたみたいだった。ぽっかりとあいていた場所を埋めるように、私の心を満たしていく気がした。 死ぬことは、彼女の運命ではなく、…どうあがいても、私が何をしたところで変えられないそれではなく、やはり私の気持ちで、いくらでも救える命だったのだ。 でも、私はまた自分がいなければと後悔するのか。いや、違う。少しでもに胸を張れる生き方ができるように、これからは未来を自分で作っていく力を持とうと思った。運命は変えられるのだと。 「幸村先輩、」 「うん」 「ずっと、私は悩んでました。私に足りないものを探していました」 開いた手を、そっと握ると私は目を伏せた。 「ちょっとだけ、分かった気がします」 ――私の、今やるべきことが。 (君が泣くための庭) return index next ( まっくらな宇宙にはじき出された少女 // 150309 ) |