51_揺れてはいけない天秤の話

「浮かない顔」
「え?」

夏の暑さもすっかり和らいで、秋の足音を感じさせる昼下がりの屋上。緩やかな風に遊ばれる髪を抑えながら、私は箸を持つ手を止めて、の言葉を聞き返した。「違った?」彼女は首を傾げて微笑んだけれど、自分がどんな顔をしていたか分からぬから、そんな顔をしていただろうかと聞き返す他ない。
もまた、残り少ない弁当に手をつけるのを一旦止めて、頷いた。

「まあそれなりにね」
「そう」
「何かあった?」

の言葉はいつも優しいけれど、今日のそれはどこか冗談めかしたような、面白がっている調子だった。「また切原とでも喧嘩した?」そんな台詞で、がさして深刻そうにしていなかった理由が分かったけれど、私が首を振ると、彼女は意外そうに「あ、そうなの」と零した。
切原君とは確かに頻繁に喧嘩をするけれど、今ではその喧嘩の理由に大したものはないから、基本的には彼との喧嘩如きでは落ち込んだりはしないのである。きっと切原君だってそうだ。私達がお互いに酷く落ち込む喧嘩といえば、殴り合いに発展するようなそれだけ。今はそんなことが起こることはまれだ。
は、弁当をすっかり食べ終わると鞄から小さな紙袋を取り出した。中からは可愛らしい和菓子が入っていて、浮かない顔の話がどうこうより、そちらに意識が移る。

「綺麗な和菓子だね」
「あ、これ丸井先輩が作ったやつだよ」
「えっ」

突然出たその名前に、私の心臓はどきりと跳ね上がる。の話によれば、丸井先輩は去年、文化祭で行われたお菓子コンテストで優勝したらしく、今年も優勝を狙ってお菓子作りに奮闘しているのだという。彼女が丸井先輩から貰ったのはその試作品で、食べて感想を聞かせて欲しいと頼まれたのだ。
先輩が以前、甘い匂いを漂わせていたのは和菓子を作っていたからかと私は納得した。

「丸井先輩、さんのこと気に入ってるみたいだからてっきり同じように頼まれてると思ったけど」
「気に入られてるとか、…そんなことはないよ」
「そうかなあ…。あ、でも、食べてみたかったら先輩に言えばきっとたくさん貰えるよ。丸井先輩に食べ物をもらう唯一のチャンスの時期だよね」

切原君は、それを狙って、ちょくちょく丸井先輩の所に顔を出しているのだとか。の戯けた様子に、私もそれとなく笑い返した。元々、私は彼女のように同じ部活の人間ではないから、丸井先輩が私の所にお菓子をわざわざ届けに来ることに期待はしていない。けれどもし敢えて来ない理由があるのだとすれば、それはきっと私が丸井先輩に言った台詞が原因ではないかと思う。
私は和菓子を口に運ぶを横目に、弁当を手早く片付け始めると、は緩く笑って私を見た。

「先輩、今の時期は文化祭の準備の時以外は基本的に調理室に籠りきりだよ。行ってみたら?」
「別に、欲しいわけじゃないよ」
「でも何だか引っかかってるような顔してる」

切原じゃなくて丸井先輩と何かあったんだね、はそう続けた。確かにあった。でも、大したことではないと、自分に言い聞かせるように、へ答える。いつものように、先輩に少し辛く当たってしまっただけで、…それは日常茶飯のことで。
壁に背を預けたは、言い訳のように言葉をぽつりぽつりと零した私に、「でもさ、」と切り出した。

さんは、丸井先輩のこと、嫌いじゃないでしょ」
「…まあ」
「じゃあどうして丸井先輩にはそんな風な態度なの?ちょっと可哀想だなって、私は思うよ」
「…分からない」

分からないのだ。今回は丸井先輩の曖昧な態度が私を不安にさせる、といったあの言葉を誤魔化すためにああいったけれど、普段はそういうわけではない。おかしな話だとは思うけど、意思とは対照に、反射的に丸井先輩とは距離を取るような、そんな言葉ばかりが口から溢れていくのである。それは本能に近いかもしれない。

「分からないけど、でももうこれが私って言うか、仕方ないって言うか」
「嘘。さん、本当はそんなこと言いたくないんだって思ってるんじゃないの?」

私は答えなかった。多分、きっとの言うとおりだ。俯いたまま、その場をやり過ごそうとした。隣でがため息を吐くのが分かって、体裁が悪いまま肩をすくめていると、彼女は言った。

「素直じゃないね、さんは」



とそんな話をしたのが昼休み。
確かに彼女の言う通り、丸井先輩に大嫌いだと言ってしまったことが引っかかっていないわけではない。だけどそれよりも、つい本音が出てしまったことの方が、私には気がかりだった。別に丸井先輩にどう思われてようと構わないと思っていたのに、どうして不安だなんて感じたのだろう。どうしてそれを口に出してしまったのだろう。
文化祭の準備も気乗りしないまま迎えた私の放課後は、他のクラスの様子を見て来るなんてクラスメイトに嘘を吐いて、結局サボりに消えていく。あてもなく校内をぶらつく私が足を止めた先の教室には、調理室のプレートがかかっており、やはり無意識的に「あて」があったのかと、つい私は肩を竦めた。
調理室の扉は少しだけ開いていた。中からはほのかに甘い匂いがする。隙間からこっそり中を覗くと、そこにはいると思った丸井先輩の姿も、その他の誰の姿もなく、完成した和菓子や、使っていたらしいボールやヘラなどが出しっぱなしになっていた。どこへ行ってしまったのだろうと、考えたのも束の間、私はすぐに頭を振る。何をしてるんだ私は。丸井先輩など放っておけば良いのに。

「何してんの」
「ひっ!?」

とん、と、肩が叩かれた瞬間、私は飛び上がって後ろを見た。振り返った先には本を小脇に抱えた丸井先輩がいて、彼は怪訝そうに私を伺っていた。本は和菓子のレシピだったり、写真が載っているような本ばかりだったから、きっと資料を探しに図書室に出ていたのだろう。ひゅっ、と息を吸い込んだ私はうろうろと視線を彷徨わせる。

「ええと、たまたまここに通りかかって、甘い匂いがしたので中が気になって、それで…」
「ふうん」
「…あの、私はこれで失礼します」
「ちょい待ち。どうせなら入れば?」
「え…」

丸井先輩はそうして調理室の中へ私を促した。彼はてっきり私がお菓子を貰いに来たのかと思ったと小さく笑って、私を適当な椅子に座らせる。調理台の上にはわらび餅、羊羹、翁飴など様々な和菓子が並んでおり、どれもこれもきらきらと光っているように見える程、綺麗だ。
どれかいる?と先輩が顎でしゃくって見せたが、普段、散々な態度を取っているくせに、ここで好意に甘えるのはあまりにも図々しいように思えて、私は首を振った。
丸井先輩は、先日のことなど、まるでなかったかのようにいつも通りだ。私が大嫌いだと言ったところで、先輩からしたら大したことではないのだろうか。そう考えると、少しだけ胸が痛んだ。きゅ、とスカートを握りしめる横で、先輩は借りてきた本をぱらぱらと眺めていた。

「…あの丸井先輩」
「何」

本から顔を上げぬまま、先輩が答える。集中していたのか、どこか口調が冷たく感じられた。
丸井先輩なんて放っておけばいいなんて、ずっと、何度も、思っていたし、そうすれば楽なことは自分でも分かっている。だけど、そんな風に丸井先輩との距離を切り捨ててしまえる冷めた心も、勇気も、そのどちらとも私にはもう残っていなかったのだ。だから、きちんと謝って、先輩との距離を繋ぎとめたかった。

「この間は、酷いことを言ってすいませんでした」
「え?…ああ。良いよ別に」

本の上を滑る指が止まった。驚いたように顔を上げた丸井先輩は、すぐに頷いて目を本に戻す。気にする程のことじゃなかったと言われているような気分だった。
「本音ならしょうがねえじゃん」先輩の言葉が胸に突き刺さる。自業自得なのに、私は酷く後悔すると共に、丸井先輩のそんな投げやりな言葉に少し苛立ちを覚えた。

「…あんなの、本音じゃありません」
「…」
「私も、どうして丸井先輩に辛く当たってしまうのか、分からないんです」
「…なにそれ」
「でも先輩にはたくさん助けてもらってて、優しくしてもらって、先輩が良い人だってことは分かります。だから、私、先輩のことが、」

そこまで言いかけた時だ。扉の向こうの廊下が急に騒がしくなって、ばらばらとした足音が近づいてくるのが分かった。私は言葉をそこで飲み込んで、扉の方へ視線をやると、先輩が本を閉じた。それから何を思ったのか、私の腕を掴んで、調理台の陰に隠れるように、私をしゃがみ込ませて、自分もそうしたのである。一体何を、そう問おうとしたけれど、先輩は私の口に人差し指を当てて首を振った。
言う通りに黙っていると、しばらくして、調理室の扉が開く音がした。

「丸井君やっほー!って、あれ」
「えーいないじゃん!」

遠慮のなさが伺える足音がいくつか。恐らく丸井先輩に会いに来たらしい女生徒達の落胆の声がまばらに聞こえる。

「んもー試作品貰いに来たのに」
「あんたは丸井君目当てで来ただけでしょ」
「うるさいなあ、自分もじゃん」
「…教室に戻ってみる?」
「ちぇ、そうねー」

がらがら、ばたん。最後まで少しだけ乱暴な扉の閉め方だったのが、そんな音でも分かった。彼女達はそうして目当ての丸井先輩がいることなど露知らず、教室へと向かって行ってしまい、調理室は静寂に包まれる。丸井先輩と顔を見合わせて「相変わらず大人気ですね」と言うと、「まあな」と、あっさりとした答えが返った。少しだけ、本当に少しだけ、そんな態度を腹立たしく思う。

「ま、ちょっとめんどくさいけど」
「はあ、」
「それで、話の続きは?」
「えっ?」
「だから、続き」

女生徒達が来る前に言いかけたことを話せと、丸井先輩は言った。だけど、言ってしまえと勢いづいていた気持ちはしょぼしょぼと縮んでしまって、今から仕切り直す気にはどうにもならない。「大したことじゃないです」と、そんな言葉で場をやり過ごそうとすると、先輩ががしがしと頭を掻いた。

「俺、良いことが聞けそうな気がしたから邪魔されたくなくてわざわざ隠れたんだけど?」
「…」
「あーあ、なんだ。やっぱり俺の勘違いで、俺のことが嫌いって言うのが、の本音なんだ」

言葉の途中までで私が次に何と続けようとしたのかの確信を得たからか、先輩の口調はやけに強気だった。分かっているならわざわざ言わせる必要などないだろうに。どん、と先輩が調理台に手をついて、台と丸井先輩に挟まれて身動きが取れなくなる。言ってることとやっていることが噛み合っていない。

「先輩、意地が悪いですよ」
「当たり前だろい、言わないお前が悪い」
「…」
「続き」
「…だから、私は先輩のことが、嫌いではないというか」
「うん」
「結構好きだな、と」
「けっこう」
「結構、好きです」

切原君とかとか、丸井先輩はそんな彼らと同じくらい、大切で、好きだ。先輩は、私の言葉を復唱してから、何を思ったか、私からサッと離れて行った。顔を背けてしまったので、先輩がどう思ったのかは分からないけれど、「うん、そっか、サンキュ」なんて、言ったので、多分怒ってはいないだろう。そもそも、結構好きだと言って怒られる意味もわからないが。

「あの、丸井せんぱ、っんぐ」

突然、先輩は、並んでいる和菓子の一つを掴んで、それを私の口の中に突っ込んだ。やっぱり何か怒ってるんじゃ、と思ったがその理由が分からない。まるで丸井先輩は私に二の句を告げさせたくないかのようだった。だから、しばらくの間の後「うまいか?」なんて、空気に不釣り合いな問いを受けて、私はすっかり拍子抜けしてしまう。

「…おいしいですけど」
「だろい一番の自信作」
「あの、先輩?私、」
「とりあえず今はもうさっきの話しないでくれるか」
「は?」
「はい、こっちも食え」
「ちょ、」

やっぱり話の続きを聞きたくないようだった。おかしいではないか。先輩が話せと言ったのに。とは言え次から次へと和菓子の試作品を作ったり口に放り込まれては反論もできない。ひとまず、咀嚼することに専念して、美味しい美味しいと答え続けた。実際にとても美味しかったので、その言葉に嘘はないのだけれど、そうすれば丸井先輩のおかしな機嫌(決して怒ってはいないのだけれど、機嫌が良いわけではない)が少しでもマシになると思った。
私はわらび餅を食べきったあたりで「よくこんなに美味しいものが作れますね」と半ば社交辞令的に口にする。先輩はちょっぴり気を良くしたのか、天才的だろいと頷いた。

「作るの好きだし」
「羨ましいです」
「羨ましいの?」

だって作れないより、作れたほうが良い。とりあえず羨ましいと繰り返すと、先輩がふと、何かを考え込んでから、私を見た。

「教えてやろうか」
「え、あ、いや、先輩お忙しいでしょう」
「部活なくなったし、それほどでも」
「私もそうですが、文化祭の準備とかだってあるだろうし…」
「じゃあ、放課後とかじゃなくて、学校ない休日に俺ん家来れば」
「はい!?」

いつぞやの、ゆずるの誕生日のために、丸井先輩の家で先輩にケーキ作りを習うような、そんな流れに乗ったような気がして、私は息を呑んだ。別に和菓子など作れるようになる必要もないし、ましてや丸井先輩に習いたいとは思わない。今度は何と言い訳をして断れば良いのだろうと思考をフル回転させていると、逃げ道を断つように、先輩は口を開いた。

「つうか来い」
「…ええと」
「どうせ和菓子作れなくても良いとか考えてそうだし、それならそれで良いから、お前は俺の作った和菓子の試食してくれねえ?」
「…マジすか」
「マジマジ。『お前なら』俺に遠慮なーく率直な感想言ってくれんだろ。その方がコンテスト用に改良できるし」

私の普段の性格をうまく利用されたことは考えるまでもなかった。私なら丸井先輩に気を遣ってものを言うことなどないから、確かに率直な意見を聞けると言えばそうなのかもしれないが。完全に逃げきれなくなった私は、黙る他ない。

「弟もお前に会いたがってるし」
「…」
「来るだろい」

だから私は無駄な足掻きと分かりながら、こう答える他はなかった。

「…じゃあ、予定が空いていれば」



(揺れてはいけない天秤の話)


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