49_やさしさの加害性について

「1日に2回も丸井先輩と遭遇するなんて今日の占いは最下位ですかね」
「何お前突然毒舌全開だな」

丸井先輩はいつにも増して、甘い匂いを漂わせてそこにいた。また家庭科室で何かを作っていたのだろうか。どうでもいいけど。
文化祭間近のこの時期、放課後の部活は免除されて最終下校時刻までは文化祭準備に充てられる。もちろんこれも自由参加であるけれど、流石にクラス全員が協力している中、私だけサボタージュを決め込める程肝など据わっているわけがなく、しょうがなく私は切原君と買い出しに出ていた。あまり仲良くない人とコミュニケーションを取りながら何かを作り上げるよりよっぽどいい仕事だ。そしてその帰り、渡り廊下を歩いている途中に甘い匂いをぷんぷんさせた丸井先輩に出逢ったのだ。

「いや、昼休みに会った時はあまり辛く当たってなかったかなと反省いたしまして」
「うん、あのさ、別に義務意識持たなくて良いからな」

義務意識を持ってたわけじゃないけど。なんとなくそうしないといけないような気がして、…ってこれが義務意識なのか。
丸井先輩はダンボールを抱えた切原君と、ガムテープだとかお花紙の袋を持つ私達を交互に見て買い出しだと悟ったらしい。お疲れなんて声をかけた後、間を開けずにすぐに口を開いた。「それにしてもさあ、」なんて、半ば呆れ気味に聞こえるような、そんな調子だった。

「お前らっていつも一緒にいるのな」
「別に好きでいるわけじゃないッスけどね」
「先生が何かと私達をセットにしたがるんですねこれがまた」
「問題児だからだろい」
「えええ問題児のお守りを任されたってことですか私」
「いやも問題児な」
「…。いやいや」
「いやいやいや」

私が首を振って一歩下がると、それを見ていた切原君が、お前馬鹿なのみたいな顔をした。君ほどではないけどな、なんて言ったら殴りあいになることは目に見えているのでしないけど。そうか、私もやっぱり問題児だったか。そんな風にみられている気はしていたが。

「まあ、そんなことはいいんだけどさ」
「はあ、」
「そう言えばお前ら結局文化祭のシフトどうなったの」
「あー」

結局というか案の定というか、私が切原君を探しに行った甲斐虚しく、(そもそも途中から諦めていたが)切原君と、それから私のシフトまでが余った枠に入れられてしまったのだった。2日目の最後の時間という、簡単な片付けもセットでやらなくてはならない上に、後夜祭に若干乗り遅れる時間帯のそれである。丸井先輩は災難だなと眉尻を下げたが、私は文化祭など興味はないので、構わなかった。ただ片付けが面倒だなあくらいで。

「にしても文化祭嫌いってなかなかいねえよな」
「別に嫌いって訳では」

出し物がしょぼくて面白くないなと、そう思うだけである。喫茶店なんてわざわざ学生がやる意味なんてわからないし、そこらへんで買ってきたものを出しているのと大して変わらないではないか。値段も高いし。輪投げとか、ボーリングとか、そんなアトラクションを用意するクラスなど論外である。私達のクラスが喫茶店でまだ良かったと、私は手に提げた袋をぶらんと揺らした。

「赤也は最後のシフトで良かったのかよ」
「まあ、俺もそんなに見たいものないですし」
とシフト一緒だしなあ」
「なっ、違うッスよ!変なこと言わないでくださいよマジで!」
「恥ずかしがらなくていいよ、切原君私の他に友達いないもんね」
「お前に言われたくねえよ」
「な、なんだと」
「はは、お前ら見てると妬けるわー」
「…」

丸井先輩は時折、随分と直球にものを言うなと思う。それは切原君だってそうだけれど、類友とか言う奴だろうか。だから彼らの言葉は何処まで本気のそれか分からないことがあるのだ。「切原君言われてるよ」と肘で突くと、彼はあからさまに眉を潜めて私を見た。私は邪魔でしたら退散しましょうか、とそういう意味で言ったつもりだったが、彼が突然私の買い出しの袋を取り上げてしまったのである。

「この場合は俺だろっつうの」
「え、切原君どこ行くの」
「教室に決まってんだろ!急がねえと担任うるせえし」

ああ、それもそうだ。
日が沈みかけている茜色の空へ目をやると、私は西日の眩しさに思わず目を細めた。文化祭の準備期間は時間がたくさんあるわけではないし、早く買ったものを持って戻らなければ準備が滞ってしまう。切原君の後に続こうと、私は小走りに彼の隣に並ぼうとすると、彼は肩を竦めて言った。「何で来るんだよ」と。

「お前馬鹿かよ丸井先輩と話してけば良いだろ」
「何でそうなるの」
「丸井先輩と話したそうな顔してる」
「はあ?いやしてないよ」
「じゃあ丸井先輩がしてる」
「してるかなあ…」

偶然出くわしただけだし、お昼にだって話したのにそんなに話す内容があっただろうか。いまいち切原君の意図がつかめないまま、私は彼の袋を持つ方の腕を掴んだ。百歩譲って丸井先輩が私と話したそうにしているとして、でもそれに切原君が気を使う必要ってあるのだろうか。今は私達は仕事中だし、また別の機会でも良いのではないかと思う。それに切原君は何だか苛立っているようだけれど、そんなに荷物を一人で持つのが癪ならいくら先輩相手だからって気にすることはないだろう。
と言うか私は丸井先輩と話したいことなどないので一人にしないで欲しいと言うのが割と本音である。

「いや別に俺荷物に怒ってんじゃなくてさ…」

切原君はそこで言葉を切ると後ろの丸井先輩を一瞥して、それから小さく笑った。無理をして笑っているように見えた。「何でもねえや」と。はい?
彼は私の掴む腕をやんわり解いた。「怒ってねえよ、全然」彼の表情は確かに怒っているそれではなかったが、だからと言っていつも通りというわけでもない。どこか悲しそうだ。どうしてそんな顔するの。

「もし大変そうならメール、すっから」
「えっ」
「そしたら全力で戻ってこい。ほらほら丸井先輩待ってんぞ」
「えっ、えっ」

半ば無理やり丸井先輩の方へ私を押しやる彼は、私の制止を聞かずにさっさと教室の方へ帰ってしまった。切原君の足音が朱色に染まる廊下の向こうへ消えていってそれから、私は内心あちゃあ、と思いながら丸井先輩を振り返る。彼はガムを器用に膨らまして私達のやり取りを見ていたようだ。まんまるのそれを割ると、緩く笑って見せた。色々と内包されたそんな雰囲気だ。私にはその笑顔の意味が、よく分からなかった。

「…ええっと、丸井先輩、私に何か話でも」
「俺はいつでもお前に話があるよ」

それはいつだったかと全く同じやり取りだった。あの時も私は丸井先輩と何を話したら良いか分からぬまま、言うつもりのなかった、自分でも把握しきれていない感情を吐露して酷く後悔した。あの時と同じだと思った。
その上、今は仁王先輩のせいで、丸井先輩と二人きりの時、どう接して良いか分からないから、本当はこの状況は避けたかったのに。ぐ、と身構えていると、丸井先輩はおもむろにポケットから携帯を差し出した。私の頬にそれが当てられる。ぐりぐりぐりと、これは嫌がらせた。

「なんでふか、ささってまふけど」
「だってさしてるし」
「ちょ、あたたたた」
「お前さあ、赤也とメアド交換してたよな」

ぱっと携帯が頬から離される。先輩がまるで私の携帯を出せというように顎でしゃくるので、恐る恐るそれを取り出す。そう言えば私が連絡先を交換しているのはと切原君だけだ。丸井先輩には夏合宿の時に番号を聞かれたけれど、私が拒否をして結局交換していない。ゆずるにもきちんと口止めしておいたし、先輩のこの様子はやはり私の連絡先を知らないようだ。「ん、」と先輩は自分の連絡先の画面を表示して私に差し出したので、一先ずはあ、なんて頷かせて頂く。

「俺、連絡先交換拒否られたのお前が初めてだった」
「貴重な体験をできて良かったですね、ええとそれでは文化祭の準備がありますの、ぐえっ」
「はいちょっと待った」

襟をつかむのは反則である。先輩はその手を緩めてはくれたけれど、どうやら私を逃がす気はないようで、服を掴んだまま離そうとはしなかった。連絡先を交換する際に、丸井先輩はこの間の迷子の弟探しのことを引き合いに出した。あの時はゆずるの携帯があったから全く困らなかったではないか。これからまさかまた弟さんを迷子にさせることもあるまい。困った時はや切原君、ゆずるを経由してもらえばなんら問題はないのだ。元よりテニス部に関係のない私に連絡することなどそうそうないだろうに。

「何そんな理由並べ立てるくらい俺のこと嫌いなの。で、アドレスも知られたくないと」
「は、事実を言っただけですけど」
「俺に何かしたかよ」
「だから、先輩が嫌いなんて言ってないでしょ。先輩のことはちゃんと、…あー…ちゃんとしてます」
「何それちゃんと何」
「ちゃんと普通って思ってます」
「…」
「…」
「あっそう」

駄目なのだろうか。先輩だって、私のことを『右手』くらいにしか思っていないじゃないか。好きでも嫌いでもなく、私と違って「普通」だと、そんな言葉もくれなかったじゃないか。
先輩はやけに不服そうな顔で、「じゃあ普通なら交換できないことねえよな」と、私の携帯を取り上げるとそれをいじくりまわして、終わるなり投げて返した。酷い扱いだ。マ行のトップに丸井先輩の名前が入っているのを一瞥してから、文句を言ってやろうと顔を上げた。しかしその瞬間丸井先輩はぐんっと私との距離を詰めたので、言葉は全部喉の奥に引っ込んでいってしまう。至近距離で丸井先輩と視線が絡まった。

「お前さ、いつになったら俺に本音で色々ぶつかってくれんの」

自分の、ひゅっと、息を吸う音。あ、怖い丸井先輩だと思った。最近見ていないと思っていたけれど、すっかり忘れていたけれど、この丸井先輩はきちんと彼の中にまだ、いた。彼は首をもたげて、表情が見えなくなってしまったが、小さな声で「疲れた」と、つぶやいたのが聞こえた。

「…俺なんかもう疲れちゃった」
「は」
「いつになったらお前、俺に懐いてくれるかなあって、頑張ってたけど」

きっと丸井先輩は、私とした約束を後悔してるんだ。あんな約束しなければ、彼はこんな辛い思いをしなくて済んだ。全部私のせいだと思う。私が先輩を苦しめている。ずきりと、胸が痛んだ。いや、いつだって、悲しそうな丸井先輩を見るたびに、後悔している。胸が痛くなっている。…だけど、だけど。
「だったら、約束なんて守らなかったら良い」飽きた時点でやめれば良かった。9年も前の約束、覚えている方がバカだ。忘れたって、破ったって、誰も責めない。

「お前との約束なんて、破れるわけねえじゃん」

先輩の顔が微かに上がって、私は先輩の頬に手を伸ばした。「どうしてですか?」破れば良い。疲れちゃったんでしょう。じゃあもうやめよう。私のことはもう助けなくて良いよ。
しばらく、丸井先輩は何も言わなかった。どこかの教室の喧騒が遠くに聞こえる。まるで切り離されたように私と丸井先輩は静かな空間の中にいた。私の手の上に、先輩の手が重なる。先輩はそれをそっと解いて、ぎこちなく笑った。

「俺、何言ってんだろ」

ああ、何度目だこうやって逃げる丸井先輩は。何かを決心したように、見え隠れしていた先輩の不安定な部分が一気に見えなくなってしまう。

「お前が消えちゃわなきゃそれで良いんだよな。うん、今言ったことは気にすんな」
「…」
「何か、うん、弱音みたいな、」
「…良い加減にしてください」

誰かを遠ざけているのは私だけじゃなかった。この人も同じだ。丸井先輩こそ、私に近づいてきたと思ったら、次の瞬間にはもうずっとずっと遠くにいる。

「どうして、私を不安にさせるようなことばっかり言うんですか」
、」

丸井先輩の制服の襟を掴むと自分の方へ引き寄せた。ぎゅ、としがみつくように、先輩の胸に顔をうずめる。相変わらず先輩は甘ったるい匂いだ。小さい頃から変わっていない。

「先輩は近づいたと思ったら離れちゃうんだ、いつも、いつも」
「…」
「丸井先輩だって、嫌なら嫌って、面倒くさいって、はっきりしてくださいよ!」

遠ざけているのは丸井先輩の方だ。私だってどうしたら良いか分からないのに。先輩がそうやって私に優しくするから、そのくせ突然、突き放すから、私は混乱してしまう。
思わずじわりと目の前が滲んだ時、丸井先輩の優しい声が私の名前を呼んだ。あの手が、私の頭に触れる。その時だ、すぐ近くで生徒がこちらに向かって走ってくる音が耳に入って、誰かが来る、と、そこでふいに私は我に返った。…あれ?


「…」
「…」
「わあああああ!」
「え、え、え、なに?」
「わあああああ!!」
「っいって!」

あらん限りの力で丸井先輩を突き飛ばした時、恐らく私の意識を引き戻した足音の本人が怪訝そうな顔で私達を伺いながら渡り廊下を小走りで通過していく。彼は脚立を抱えていて、ってそんなことはどうでも良い。その生徒が見えなくなってから、私は丸井先輩へ視線を戻すと一気に顔に熱が集まっていくのが分かって、思わず両手で顔を覆った。

「私今なんて言いましたか」
「え、」
「忘れてください」
「は!?」
「全部嘘です。全部、なし。なしです」
「何言って」
「うるさい」
「…へ?」

丸井先輩がとっても間抜けな声を出した。それほど展開についていっていないようだ。私だってそうだ。どうしてこうなった。どこから間違えたんだ。 何だか切原君が行ってしまった時から、やらかすような気がしていたのだ。丸井先輩と二人だといつも調子が狂う。ああ、ああ、全部丸井先輩がいけないのだ。…いいや、やめよう。考えるのはやめよう。今はここから逃げ出すことだけに意識を置こう。
私は思い切り息を吸うと、口を開いた。「そもそも、」

「丸井先輩なんか好きなわけないじゃないですか、なんで私が。きっと空気に飲まれておかしなことを口走ったんでしょう。これは失礼いたしました。丸井先輩が何を言おうと何をしようと私は知ったこっちゃありませんよ、どうぞこれからもお好きになさってください。私は丸井先輩のこと好きじゃありません普通でもありません、嫌いです、めっちゃくちゃ嫌いです。切原君どうして私のこと置いてっちゃったんでしょうね。それでは文化祭の準備がありますので私はこれで」
「…。はい」

ノンブレス。心の中でそんなことを思ったのもつかのは、私は弾かれたようにD組に向かって走り出した。我ながら酷いことを並べ立てたと思う。きっとこれも冷静になった後に後悔する内容がたくさんたくさん含まれているに違いない。ああ、私の人生は後悔ばかりだ。口は災いの元、いっそ縫ってしまった方が良いのかもしれない。
私は何てことをしてしまったんだ。ばか、ばかばかばか。



恥ずかしさの中、私の中には一抹の不安があった。私はきっと今、踏み出してはいけない一歩を踏みだしてしまったのではないかと。
止まっていた歯車が動き出すように、それはある場所に向けて進み出してしまった。

この選択が果たして私にどんな結末を呼ぶのか、この時の私はまだ知らない。



(やさしさの加害性について)


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