48_黄金を手放すために

窓が全開に開けられても蒸し暑い廊下。ギラつく太陽の光が差し込んで、蝉の声も喧しい。
窓がなくて光が差さないだけで、それは屋上へと続く薄暗い階段だって同じことだった。もう秋の始まる9月だと言うのに、蝉はもう少し頑張るようで、私はまだまだしばらくはこの声を聞くことになりそうだ。
階段の最上段に腰をかける私は足を下の段に投げ出して、身体を壁に預ける。じんわりと額に滲む汗を乱暴に拭ってから開きっぱなしの携帯の画面を見た。

『切原君、今どこにいるの』

今から15分前に送られたものだ。しかしこのメールは本人に届くことなく、彼の机の中で受信された。まさか携帯を置いて授業をサボっているとは思わない私は、隣から聞こえた振動音にとても驚いたけれど、幸い文化祭で私達のクラスが行う喫茶店のシフト決めの最中であったため、そこそこに騒がしく、私以外にそれに気づく者はいなかった。
しかし、だからと言って、はい良かったですね、に終わる話ではない。シフト決めは本人がいないと当然できぬ話で、とは言え、いない人は余った枠に入れられてしまうだけだから正直私には切原君がいようがいまいがどうでも良いのだけれど、こんな時、先生は決まってこう言うのだ。

、ちょっと切原のこと探しに行ってくれないか」

春に殴り合いの一件があって以来、先生は何かと私と切原君をセットで扱うようになった。隣の席だからと言うのが一番の理由だろうが、私はそれを見越して彼が何処にいるかの連絡を取ろうと思っていたのに。そういうわけで授業中にも関わらず、私は教室の外をうろついているのだけれど、一人で座り込んでいるところから切原君探しをすっかり諦めていることはお分かり頂けるだろう。
ああ、今頃きっと切原君を探しにいった甲斐もなく彼のシフトは余ったところに追いやられているに違いない。そう言えば私のシフトはどうなっただろうか。楽そうな時間に希望は出しておいたけれど、こうなってはじゃんけんもできないから、私のシフトもどうなったか分かったものではない。まあ、正直どうなろうと構わないのだけれど。
元々、文化祭については夏休み前から話が進んでいて、休み中もクラスで文化祭の準備をしていたにも関わらず自由参加だったから、私なんて一度も参加しなかった。それ程文化祭には興味を持てないのだ。だって面白くない。

「あれ、なーにしてんの」

丸井先輩の声だった。最近よくこの声を聞くなあ、と思いながら階段の下の方へ視線をやると、そこにいたのは丸井先輩ともう一人、仁王先輩である。先日彼に言われた丸井先輩に関する話が頭を過ぎって、心臓が小さく跳ねた。何を気にしているのだろう。あれは冗談だったではないか。

「そういう先輩達こそ何してるんですか」
「何って、昼食いに来たんだけど」

そう言えば丸井先輩の手の中にはいつもの如く購買で買ってきたと思われるパンやらおにぎりやら、とりあえず端から端まで買ってきましたとばかりのものが抱えられている。対照的に仁王先輩はパックのお茶以外何もなかった。少食そうだとは思ったけど、これは極端である。
私は時間を確認すると、いつの間にか4限が終わり昼休みが始まっている時刻だった。どうしてチャイムに気づかなかったのだろう。ぼんやりし過ぎていたのだろうか。

「その感じだと4限はサボりかのう」
「今の時間、全学年共通で文化祭の話し合いの時間だろい。お前、サボるならもう少しダルい授業サボれよな」
「はあ、違いますよ」

先生に言われて切原君を探しに来たんです。立ち上がりながらそう付け加えると、彼らは私の後ろの屋上の扉を指差して「いねえの?」と首を傾げた。いたらこんなところに一人で座っていない。扉が開いていないのだ。

「内鍵かけてるんじゃね」
「声かけても返事ありませんでしたけど」
「ふーん」

二人はどうやら屋上で昼食をとるらしい。この暑いのによく屋上で食べる気になるなあとは思ったのだが、話によると給水塔の裏の日陰が絶好の涼しいポイントなんだとか。仁王先輩が見つけたと言うのだからそうなのだろう。
彼らは扉の前まで来ると、仁王先輩の方がポケットから針金を取り出した。以前、丸井先輩と屋上に来た時は、先輩がゆるゆるのノブを蹴飛ばして開けていたけれど、人によって開け方が違うらしい。ちなみに、先ほど切原君を探しに来た時に私が丸井先輩の真似をして扉を蹴ってみたものの、扉はビクともしなかった。何やらコツがあるのかもしれない。
仁王先輩の手元を覗き込むと、彼は針金を得意げに見せびらかして、「魔法の鍵じゃよ」と言って見せた。

「これを鍵穴に差し込むとあら不思議、…どんな扉も開いてしまうんじゃなあこれが」
「それってただのピッキン、」
「魔法の鍵」
「そうですか」

おかしなところにこだわるな、とは思ったけれど、そこにあえて突っ込んで行く気はしなかったので、私はすんなり頷いた。それを見た彼はふっと笑みをこぼして握り拳を目の前に突き出す。釣られて両手を差し出すと、その針金がころんと手の平に転がった。「くれるんですか」「ん、魔法の鍵ぜよ」きっとゲームならここでちょっとしたBGMがなるに違いない。は魔法の鍵を手に入れた、シャラリン、とか。
くねくねと先が曲がったその針金を果たして私がうまく使えるのか、と言うより今後使う機会があるのかは知らないが、有り難く頂戴しておくことにしよう。きっと仁王先輩がくれるのだから使いどきがあるに違いない。…買いかぶりすぎか。

屋上は照りつける太陽のせいでコンクリートは焼けるように暑かった。二人に流されて何故か私も給水塔の影へと逃げ込んで行く。しかしそこには先客がいた。ラケットバックを枕にして居眠りをする切原君の姿があったのだ。「何だ、やっぱいるじゃん」彼の頭の近くには、先程まで使っていたのか、ラケットとボールが転がっていた。

「サボってまでテニスとか、テニス馬鹿かっつうの」
「先輩達だってそうでしょう」
「いや、俺らはこいつ程じゃないって」

丸井先輩は困ったように肩をすくめて言ったけれど、私からしたらテニス部の人は皆テニス馬鹿である。皆テニスラケットを持つ時は同じような目をするのだ。こうやって本気でのめりこめるものがあるのは少し羨ましかったりは、する。私はなんとなしに立て掛けてあるラケットを手に取ると、それは思いの外重く感じられた。試しに見よう見まねで軽くそれを振ってみたのだけれど、何を思ったのか、仁王先輩がふいに私の名前を呼んだ。「」「え」私が声に反応した時には、目の前にボールが迫っていた。テニスラケットなんて、手にしたのが今日が初めてだと言うくらいの初心者に何を考えているのか。(きっと良からぬことしか考えていなかったに違いない)私は何も考えぬままにラケットを振ると、それはおかしな音を立てて切原君の顔面目掛けて飛んで行ってしまったのだ。私はハッと息をのむ間も無く「痛ッ」切原君の額をボールがかすっていく。

ナーイスショットだろい」
「ちょ、どこがですか!」

仁王先輩狙いましたね、なんて言ってやりたかったが、その前に切原君が唸って、それから身体を起こした。咄嗟に私は背中にラケットを隠す。丸井先輩と仁王先輩がそんな私をにやにやと見つめて、完全に他人事だ。この二人マジでふざけんな。
切原君は状況を理解していないらしく、しばらくぱちぱちと目を瞬かせていた。どうやらボールが当たったことには気づいていないらしい。ホッとして、とりあえず簡潔に私が彼を探しに来たことと、今がすっかり昼休みに入っていることを伝えた。

「んあーそっか」
「多分シフト変なところに入れられちゃってるんじゃないかな」
「ま、別に良いんじゃね。そう言うのあんまキョーミない」

欠伸混じりに答えた切原君に、じゃあ私が彼を探しに来た意味ないし、とこっそり思った。「それにしても何でお前ラケット持ってんの」ぎくり。

「あ、それがさあ、こいつお前の」
「だあああえええと、ほら、テニスやってみたいなあああって前言ってたじゃん私!だからついね!つい!」

随分と無理のある誤魔化し方である。む、と丸井先輩を睨むと、彼はどこか楽しそうに笑うだけだった。性格悪。

「ああ?そんなこと言ってたっけ」
「言った言った」
「赤也、さっき見たけどこいつめっちゃ下手だぜ」
「はい?先輩ナイスショットって言った癖に」
「それはお前が赤也に」
「わあああ聞こえない聞こえない丸井先輩余計なこと言わないでください殴りますよ」
「お前いつも俺にそうじゃん」
「それは否定しませんけど」
「しねえのかよ」

直後、ずずず、と仁王先輩のお茶を吸う音が間に割って入って、何だか気が抜けた。丸井先輩も仁王先輩の手のパックを一瞥してから、どうでもよくなったらしく、足元に広げたパンの一つを手に取った。ばりばりと袋を破く。先輩の好きそうな甘ったるい匂いがして、途端にお腹が空くような思いがした。その横で切原君が立ち上がる。教室にでも帰るのだろうかと、昼飯を持たぬ私達の横で何食わぬ顔で昼食を始めた先輩達と彼を交互に見比べた。私もお弁当は教室にある。だけど、切原君は教室に戻るのではなく、ラケットを投げてよこしたので、私は慌ててそれを受け止めた。ボールの次はラケットか、とそんな感想を抱く前に、何故これが私の腕の中に飛び込んできたのか、想像がつかない訳ではない。

、そっちの日向出て」
「…ええと、何するの切原君」
「はあ?テニスやりたいんだろ」
「やりたくないよ」
「どっちだよ」
「やりたくないです」
「さっきはやりたいって言ったじゃん」

顎でしゃくってそっち行けと切原君は私をスペースのある方へ追いやった。いや、この場合、追いやるという言い方は可笑しいのだろうが気分的にそんな感じだったのでこう表現することにする。
無駄だと分かった上で後ろの先輩達を見やると、彼らはひらひらとやる気なく手を振ってみせるだけだった。薄情者である。二人とも禿げればいいのに。そもそも仁王先輩がボールを投げたからこんなことになったというのに。何で私がこんな目に。

「責任転嫁はよしんしゃい」
「心を読まないでください」
「いやお前口からだだ漏れだから」
「あ、そう。じゃ禿げろ!」
「うん、お前なんつうかもう清々しいな」

そんなやり取りをしている内に、ターンターンとボールの跳ねる音がして、私は身体を震わせて前に向き直った。切原君がボールをついている。え、いきなり打ちに行かせるつもりなんでしょうか。何かこう、構え方とかそういうレクチャー的なものは。「習うより慣れろだな」まあ、そう言うと思いました。一瞬頭の中にテニスでブチ切れた時の切原君の姿が浮かんで、まさか私に対してあんな風になるとは思わないけれど、ぞわりと鳥肌が立った。
なんて言ったものの、切原君は実践派らしいけれど、乱暴な言い方をする割に、私に向けて打ったボールは下打ちであったし、随分と緩やかだった。

「とりあえず当てろよ」
「そんなこと言われても、…っほりゃ!」
「ぶふっ」
「丸井先輩笑いましたね」
「仁王も笑った」

私の打ったボールはぺこんと、やっぱり妙な音を立てて切原君の方へ返っていった。後ろから笑い声が聞こえてくるので、私の打ち方はそんなに可笑しいのだろうかと思う。彼のくれる打球と違って、私のそれは大きな弧を描くものだからボールが太陽に重なって、切原君は取りづらそうだった。そうは言ってもすんなり取ってしまうのだけれど。

「ガットそんなに上に向けんなよ」
「向けてないよ」
「向いてんの!」
「…ほいよっ」
「あと腕だけで打ちに行くなよ。全身使えよ」
「えー行ってないよ」
「おま、だぁから行ってんだよ!先輩にも聞いてみろよ!」

そんなことを言われても肝心の先輩達は大層面白そうにお腹を抱えておられるので、聞く気にもならない。一応背後を一瞥すると、丸井先輩は途端に真顔になって、それから

「なんつうか予想以上に酷いよな」
「アドバイスにならない」

やけに正直な感想を言ってのけた。別に今日が初めてだから何て言われようと気にしないし、今後テニスをやるつもりだってないのだから。
それにしたって、笑うことはないと思うけど。だって切原君と私で何が違うのかさっぱりなのに。

「はあ?お前と一緒にすんなよ!」
「だって切原君も腕だけで打ってるように見えるし、君と同じように動いてるのに。こう、ぱこーんって」
「ぶはははは」
「…丸井先輩にこんなに屈辱的な気分になるのは初めてである」

切原君は相変わらずあっちこっちに飛んでいく私のへなちょこボールを右へ行ったり左へ行ったりしてきちんと受け止めた。「俺には無駄がない」切原君曰くそうらしい。無駄がないから簡単に打っているように見えるのだとか。いつも私に散々馬鹿にされているからか、今日の切原君はやけに得意げだった。だらりと頬を伝う汗に、何で昼休みにこんなに汗だくにならないといけないのだろうと思う。けれど、先日の息詰まったように壁打ちをする彼を考えれば、まあ、切原君が楽しそうなら、構わないかなとも思ってしまうが。
「ま、どんな大ホームランしても俺が取ってやるって」ゲラゲラと高々に笑いながら彼が言った直後だ。またもやおかしな音を立てて飛んだ私のボールはまっすぐの軌道で切原君の方へびゅんと飛んで行った。すかさず彼がそれをいなす。

「っぶねーな!距離考えろよ!」
「な、なんだと。どんなボールも取るって言った癖に自分の言葉に責任持ってよ」
「あー、…あれだよ!簡単に人を信用すんなよ!」
何だその酷い言い掛かり
「文句あんのかよ」
「そりゃあるよ」

ずんずんと切原君がこちらへ肩を怒らせて向かってくる。
ごつんと額がぶつかりそうな距離までやってきて、私と切原君はしばらくじいっと見合っていると、仕舞いには何だか可笑しくなってきてしまった。凄くくだらない。
そうしてついに私達は同時に吹き出したのだった。

「ほんまに仲がええのう」

けらけらと二人して笑う後ろで、仁王先輩のそんな声が聞こえた。




(黄金を手放すために)


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