47_翼なんか欲しがる奴は |
ボールを打って、返ってきたそれをまた打って。彼が壁打ちを始めてから一体どれ程の時間が過ぎたのだろう。夏休み明け初日に関わらず、テニス部の部活は休みなく行われているようで、通りかかったテニスコートで私は切原君の姿を見た。 彼の様子を初めから見ていたわけではないけれど、朝練の終了時刻はとうに過ぎ、テニスコートには彼の姿だけだ。彼の背中はどこか寂しげに見えるのは気のせいだろうか。彼の壁打ちしている的の壁の真ん中には、今ではすっかりボールの黒い跡ができている。 校舎の時計を見上げると、あと20分程すると体育館で始業式が始まる時刻だ。早く教室に鞄を置きに行かねばならぬのに、いつまでああしているつもりなのだろう。そうは思っても、私もまた彼に声をかけられないまま、しばらくこうして立ち尽くしているのだけれど。 「教室行かんの」 あくび混じりの気だるげな声。振り返らずともその特徴的な口調で誰だかはわかる。随分遅い登校である。私はフェンスの方を向いたまま「行きますよ、行きますけど」と言葉を濁した。少し猫背でひょろっとした姿が隣に並ぶ。仁王先輩も奥で壁打ちをしている切原君を一瞥して、もう一度あくびをする。つられて私もあくびをしかけたけれど、何だか恥ずかしくてぐっとそれを咬み殺した。 「ところで仁王先輩はサボりですか」 「何の」 「部活の」 「何言うとるん。俺らは夏休みに引退しとる」 もう大会も終わったしな。 先輩がそう付け加えて、私はああ、と思った。仁王先輩のことだから、この時間に登校しているということはサボりなのかと思っていたけれど、そうか、もう引退したのか。ゆずるからそんな話は聞かなかったが、わざわざ私に話す必要はないと思ったのかもしれない。 それにしても、すごく違和感、だ。もうこの人達が切原君とこの場所でテニスをすることはないのだろうなと思ったら、途端に、日常の一部が剥がれ落ちたように、欠落していったように、何かがゆるゆると消えていくような思いがした。 切原君の背中が寂しそうな理由が見えた気がして、私は仁王先輩の方を見た。 「先輩達が引退ってことは、今は切原君が部長っていう、そういうあれですか」 「そういうあれじゃな」 仁王先輩の話を聞く限りでは、大会が終わった後から、切原君はずっとあんな感じなんだとか。先輩たちは誰も何も言わなかったらしいが。うまく言えないけれど、切原君の後姿は、どこかがむしゃらな感じだ。全国大会で負けて、きっとそれに引っかかりを覚えているのかもしれない。そんな中急に先輩達がいなくなって、部長という役職を背負って、彼自身も、どうしたら良いのか分からないのだろう。 「気になるんか」フェンスに手をかけた私に、先輩が言った。気になる?そりゃ、気にならないわけではない。だからこうして見ているのだ。私がどう答えるかなんて、分かっていただろうに、彼はわざとらしく「ほーう?」とそんな物珍しそうな声を上げた。 「前までだったら、『私が気にした所でどうにもなりませんし、そもそも興味ありません』とかなんとか言ってたじゃろ」 「いちいち声を似せないでください。似すぎて怖いです」 「褒められ慣れてないんじゃけど」 「褒めてないですけど」 「あ、そう」 私は大袈裟に肩をすくめて見せると、仁王先輩は苦笑を零した。相変わらず、何だか食えぬ人だ。 それにしても、私がこんな風に普通に彼と話す日が来るとは思わなかった。この世界に初めて来た日は、本当にどうなるかと思っていたけれど、今はまるで初めからこの世界にいた人間のように、当たり前のように毎日を過ごして、この世界で生きることが、楽しいとさえ思い始めている。 『帰りたくない』 ぽつんといつの間にか心の中に居座り始めたその感情は、気づかない振りをしていただけで、もしかしたら初めからそこにいたのかもしれない。しかし今では知らぬ振りができないくらいに、それは私の心を揺さぶっている。 ずっとずっとここで生きて、私は例えばこうして切原君のことを気にかけて、彼に友達として何かしてあげたいと思う。と一緒に笑い合いたいと思う。丸井先輩とだって、仁王先輩とだって、他の先輩とだって。 「それにしても、もうそろそろ呼ばんと始業式に出ないつもりなんか、あいつ」 「え、…ああ、そうですよね」 ハッと我に返った私は、ぐるぐると頭を侵食していた帰りたくないというこの世界に対する『未練』のようなものを振り払うと、改めて時刻を確認した。確かにもう行かねば、私達ですら間に合うか分からなくなりそうだ。校庭は静まり返って、私達3人以外の姿は見えない。 そうは言っても、切原君にはどうも声をかけずらい。 「ほっといた方が良いんでしょうか」 「ん?」 「気がすむまでやらせた方が良い気もして」 「そやのう…まあ、好きにしたらええと思う」 「…私、初めは切原君のこと、ただ単純で分かりやすいって思ってたんですけど、最近はよく分からないんですよね」 切原君は頭が悪い癖に、本当に悩んでいる時は誰にも頼ろうとしない。一人で抱え込んで、悩んで、悶々としている。彼だって色々と考えているのだろう。気づかれたくないのか、悟らせないように振舞うこともある。単純だと思っていた切原赤也という人物は、想像以上に深かったのだ。 「とか、先輩達とか、相談したらきっとすぐに解決策を出してくれそうな人達が周りにたくさんいるのに」 「…」 「相談してもしょうがないけど、私に言ってくれても、別に構わないのに、」 とか、思ったり思わなかったり。言っているうちに気恥ずかしく思えて、私は慌ててそう付け加えた。 でも、気持ちは本物だ。私がこの世界の人間でなくても、この世界の人たちに干渉したくなった。干渉して、交わって、私もこの世界の一人になれたら。皆と当たり前のように過ごせたら。真田先輩の家にお邪魔して、スイカをご馳走になって、花火をしたあの日、強くそう感じた。生きたいと思うその欲がこれかと。 「それを本人に直接言ったらどうじゃ」 「は?」 「赤也は自分の周りに『どんな奴』がいるか分かっとらんのじゃ」 「…」 「それを教えても、きっとあいつは悩みらしいことを何も言わんかもしれんけど、本当に一人で悩むのと、頼ろうと思えばいつでも頼れる奴がいるっちゅうんは、また違うんやないかのう」 「はあ、」 「まあどうにせよ今回は3年に頼ることはまずないじゃろうが」 確かに、先輩がいなくなったことの戸惑いなら、きっと切原君は、先輩本人に相談したりはしないだろう。 けれど、仁王先輩の言うように、彼に声をかけることが本当に意味があることなら、私はそうしたい。 「私の言葉は無駄にはならないでしょうか」 「知らん。けど、お前さん、赤也の友達なんじゃろ」 仁王先輩は多くは語らなかったけれど、友達だったら、最終的に無駄になろうとそうでなかろうと、手を差し伸べてやるものではないかと、そう言っているような気がして、私は先輩の言葉に頷く。それなら、ためらわずに彼を呼ぼう。私が彼の名前を呼ぼうとした時、不意にそれを遮るよう、「それにしても、」そう先輩は口を開いた。 「お前さんも言うようになったのう」 「…なんのことですか」 「随分と『人間』らしくなったもんじゃ」 「はあ、」 「とは言え、俺からしたら赤也よりのがよっぽど分かりづらい」 「私は分かりづらさと言えば仁王先輩がダントツですね」 「そりゃどうも」 「だから褒めてません」 私は早口に言ってしまうと、切原君の方へ向き直った。そろそろ呼ばねば本格的に遅刻だ。「切原君!」私の声は自分でも驚くくらいによく通った。切原君は、びくっと肩を震わせるとこちらを向いて、目を丸くしている。何で私と仁王先輩が一緒にいるのかとか、いつから見ていたのかとか、彼の顔から聞きたいことはたくさんありそうなことは分かったが、そんなことは後回しである。「おはよう!」それから、時間やばいよ。私が校舎の時計を指すと、彼は本当に時間に気づいていなかったらしくて、大慌てで部室へ引っ込んでいった。「先に行くなよ!絶対だかんな!」と言う言葉を残して。 彼の姿が見えなくなってから、私は仁王先輩を見上げた。ああ、そうだ。と、先ほどの話の続きを持ち出す。 「分かりづらいって言えば丸井先輩もそうですね」 思い出したようにその名を零すと、仁王先輩は今までの気だるげな様子から、どこか探るようなそんな雰囲気に変わって、私を一瞥した。 「そういや、お前さんて、赤也とブン太、どっちと仲良いつもりなん」 「は?」 「別に難しい質問でもないじゃろ」 「そんなこと言われましても…切原君なんじゃないですか?」 彼とは同じクラスだし、一緒に過ごしている時間も長い。それに、切原君とは確実に友達だけれど、丸井先輩とは先輩と後輩という仲でしかないし。言ったように、丸井先輩は本当によく分からない人だから、余計に友人かそうでないかの自分のポジションが分からないのかもしれない。なんせ右手とか言われてしまうくらいだし。あと何か読めなくてたまに怖い。 そこまで言って、まるで丸井先輩の悪口を言っているような気になって、言葉を切った。 「でも丸井先輩を嫌ってるわけでは」 「別に俺から聞いたんじゃし、何言っても怒らんよ」 「…あの、丸井先輩が優しいのは凄く良く分かりますよ。悪く言えばお節介ですけど」 「悪く言う必要性」 「いやなんか丸井先輩に対してこうなのは癖で。…でもお節介なのはきっと他人を大切に思うからこそなんでしょうね。それに意外と大人だなーって思う場面もあったり」 振り返ってみると、切原君と喧嘩した時だって、本来ここにいるはずのない私に、この世界に居ても良いのだと居場所をくれたし、私がここにいる存在意義だって教えてくれた。 私がどんなに丸井先輩に辛く当たっても、先輩は私にここで生きて良いのだと支え続けてくれたのだ。 「…ふうん」不意に、仁王先輩がそう呟いた。彼の視線の先には、部室からこちらへ駆けてくる切原君の姿がある。先輩の言葉には、その一言には釣り合わない程の意味が隠されているような気がした。真意を探ろうと先輩を伺ったが、私では彼の心の内など読めるはずもない。 「あの、仁王先輩…?」 「お前さん、ブン太のことそんな風に思っとるんじゃなあ」 「は?」 「ブン太はお前さんが思っとるよりずっと子供ぜよ」 「はあ、」 「ちゅうても、お前さんが感じてるものが嘘だって言っとるわけじゃない。じゃから今お前さんが知ってるブン太の『全部』、忘れたらあかん」 人間、汚い部分はなかなか見たがらないからのう。 先輩の言葉がやけに耳に残った。何となく、私に対する警告のような、きっとこれはそういうものなんじゃないかと私は思ったけれど、どうして突然彼がそんなことを言い始めたのか、私にはさっぱり理解できなかったし、それが私にどう関係があるのだろうか。「あの、すいません、話がよく分からないのですが」内容がふわふわと間接的過ぎて、先輩が結局何が言いたいのか分からない。 首をかしげたとき、切原君が丁度息を切らせてやって来て、待っててあげたにも関わらず、「ほら早くしろよ」と先陣きって走り出した。 仁王先輩の話の続きが気になったが、それはまた今度聞こうと思って私も仁王先輩を一瞥して走り出そうとした時、彼はにやりと笑った。 「気をつけんといつかブン太に取って食われてしまうかもしれん」 どきりとしたが、私は早口に「冗談やめてくださいよ」と零して切原君の後を追った。先輩は「すまんすまん」といつものように、人を騙した時のごとく愉快そうに笑い、私はやはり冗談か、と安堵する。仁王先輩の言葉の意味は分からなかったが、もしこれが冗談でなかったら、私は多分、ものすごく怖いことを言われたのだろうと、それだけは分かった。 ――それにしても、仁王先輩。 どこまでが冗談で、どこまでを本気で言ったんですか。 きっと先輩は人を騙すのが上手いから、初めから全部、冗談だと思って良いんですよね。 (翼なんか欲しがる奴は) return index next ( まっくらな宇宙にはじき出された少女 // 150214 ) |