46_お前が悪魔でないのなら |
知ってるけど、知らない人達。いや、知ってる人達の、知らない部分。そんな表現がきっと正しい。 全国大会決勝当日。会場の広さにだってもちろんそうだけれど、そこに流れる空気にすら圧倒されて、私は息をするのさえ忘れた。 元々、この人達は学校でも皆にちやほやされて、人気者で、テニスがとっても強いからと私からしたら面白いくらいに崇められていた。そんなだから、平凡な私が、いつも彼らのそばに居るのが不思議なくらいだということは、自分でもよく分かっていた。彼らは凄い人達なのだと。だけどそれは、立海の生徒としての常識ぐらいにしか私は理解していなかった。強いのだろうな、凄いのだろうな、と思いはしてもそれは想像の域を超えない。実際にテニス部へ行ったことはあっても、いつだって一番の目的は見学ではなくて、連絡とか、届け物で、しっかり試合をしているところをきちんと見たことなど一度もない。そもそも見た所で、テニスはよく分からないし。 いつも教室ではふざけあって、くだらないことをして、先生にしかられて、そんなありふれたことをしている彼らの横顔は、怖いくらいに真剣だ。私の知らない彼らの一部。 この会場のぴりりとした空気を作り出しているのは彼らだ。高揚感に似た緊張が私の全身に張り付く。 「全国大会って、こんな大きなところでやるなんて思わなかった」 ギラつく太陽に照らされて、眩しく光る会場を私はぽかんと見上げる。天井は開閉式らしく、丸く切り取られたような真っ青な夏空が会場の真上からテニスコートを覗き込んでいる。私は感想らしい感想は何もなくて、ただ、うわあ、なんて感嘆が溢れるばかりだ。呆気に取られるとはきっとこう言うことを言うのだろう。 「間抜けな顔」 多分、というか、絶対私のことだ。いつの間にか開いていた口を押さえて前に向き直ると、仁王先輩がテニスボールをくるくると弄びながら私を見てニヤついていた。私は何だかこの場では何も言い返す気にはなれなくて、それは失礼しましたと肩を竦ませた。「まあ、初めて見るとびっくりするよね」髪を結いながらが言う。 「なに、日本一を決めるのだから、これくらい当然だろう」 「にほんいち…」 改めて聞くと凄い響きだなあと、私は数日前に、ゆずる経由で渡されたこの大会のチケットをポケットから取り出した。中学テニス界の日本一を決める戦い。ぞわりと身体中が緊張で粟立つような気がした。私の直ぐ目の前で、そんな試合がもうすぐ始まる。 私の指定された席は、立海ベンチのすぐ後ろの席だった。特等席の中の特等席である。本来ならここは、レギュラーでない部員達とか、応援団の人達とかが座る席で、と言っても、私はそこから一列隣の、一応誰が来ても良いような場所にちょこんと腰を下ろしていた。それでも、ベンチの真後ろで一番前の席なんて普通なら取れるはずもない。 「正直、もっと遠くの方からこっそり観れる位置から思ってました…」 「知り合いにテニス雑誌の記者さんがいてさ、その人に頼んだからね」 「喋ってる内容が高次元すぎて私にはどうにもついていかれないよ」 雑誌の記者の知り合いがいる中学生なんて、そうそういないだろう。テニス雑誌というくらいだから、きっと彼らが何度も取り上げられたりしているはずだ。もしかしなくても、今まで散々雑に扱っていた彼らは物凄い有名人なのでは。頭の片隅でゆずるが、気付くの遅い、と怒鳴っているような気がした。当の本人は、試合前の応援とか、そういった準備に忙しいらしく、先程から甲斐甲斐しくレギュラーの人達の世話をしたり、あっちこっちを走り回っている。 何だか私まで落ち着かなくて、左側にいる対戦相手のベンチをこっそり伺うと、そこにいる人達も何だかちょっと強そうに見えた。当たり前だ。決勝に勝ち上がってきたのだから弱いはずがない。それに、聞くところによれば、関東大会で一度あの学校に負けているのだとか。宿命の好敵手という奴だろうか。といっても、立海の方は物々しいというか、自分達がこの場所にいるのが当たり前だ、って感じにどっしり構えているように見えるが、あっちの方はどちらかと言えばチャレンジャーっていう表現が近い気がして、同等の立場のようにはあまり見えないが。 「ええと、相手は、…せいしゅんがくえん…初めて聞く名前だ」 「…まあ、元々弱くはなかったけど、かなりの勢いをつけて台頭してきたのは今回の大会からって感じだからね」 「へ?」 それは聞き慣れぬ声だった。資料がぎゅうぎゅうに詰まっていそうな使い込まれたショルダーバックを抱える男の人と、カメラをぶら下げたかなり若めの女の人が私の隣の席に腰を下ろす。二人の首にかかる名札には、月刊プロテニスと書かれていたので、私はハッと息を飲んだ。 「こんにちは。君かな、さんがチケットをあげたがっていた子は」 「へっ、あっ、と申します…!えと、わ、わざわざこんな良い席をありがとうございます!」 「近くで見ると迫力が違うからね、喜んでもらえて良かったよ」 男性の方が井上さんで、女性の方が芝さんと言うらしい。どうしよう、私まで記者さんと知り合いになってしまった。途端に居心地が悪くなって肩をすくめた。 「さて、優勝旗はどちらの手に渡るかな」 井上さんの横顔はまるで子供のように、楽しみでたまらないというような高揚したものだった。真ん中にぽつんと置かれたテニスコートが太陽に照らされて光っている。そこへ向かい合うように選手が集まっていく。 「……がんばれ」 ドォンと、後ろで応援団の太鼓が打ち鳴らされた。 正直、テニスが見ていてこんなに辛いものだとは思わなかった。第一試合の真田先輩の試合と、青春学園の手塚さんという人の試合は、ほぼ互角の試合展開だったが、ギリギリの所で真田先輩が勝利を掴んだ。しかしベンチに帰った彼の足はうっ血しており、痛々しくて見ていられないものだ。初っ端からこんな調子で大丈夫なのだろうか。次の試合は切原君と柳先輩のダブルスの試合である。とにかくもう誰も怪我だけはしないでほしいと私は祈っていたけれど、切原君の試合はそう言う次元ではなかった。 そこには私の知らない切原君がいた。 「…なんですかあれ」 「彼の強みはああやって容赦なく相手に食らいつけるところなんだ」 「あれじゃただ人を傷つけてるだけだ」 切原君は相手が血だらけになっても、やめろと叫んでも、相手を痛めつける行為をやめることはなかった。圧倒的だ。圧倒的な力で相手をねじ伏せている。ゾッとするような迫力だった。 ねえ、切原君はどうして笑っているの。相手の人はもう血だらけだよ。本当に楽しいの?切原君はそれで良いの? 「…止めないんですか」 思わず席から立ち上がってベンチの方へと呟く。「必要ない」真田先輩が前を向いたまま答えた。納得がいかない。 「だって…こんな戦い方ってありなんですか」 「ありだよ」 今度は幸村先輩が答えた。彼らの瞳の中には迷いの色はない。そんな彼らに放てる言葉を私は思いつかないまま、ぐっと口を閉じた。 「俺達は勝たなければならない。勝つためには、手段は選ばない」 「勝てば良いんですか…」 「言い方を変えればそうなるかもしれない」 そこまで聞いたところで、井上さんが私の名前を呼んだ。とりあえず今は座るようにと、私を促す。もう何も言ってはいけないと、彼は暗に訴えているように見えた。脱力するようにすとんと席に腰を下ろせば、ずっと前を向いたままだった丸井先輩がこちらを向いた。 「俺達には負けられない理由がある。それはどんなことをしても譲れない理由だ」 そう言った丸井先輩の目だって、揺るぎなくて、私は俯くことしかできない。気持ちが痛いほどに伝わってくるからこそ、どうしたらいいか分からない。 「さん、気持ちは分かる。だけどこの選択をしたのは彼らだ。可哀想だが…君が口を挟めることではないよ」 私の口を挟めることではない。 そんなこと、皆の目を見たら分からないわけがない。 井上さんの言葉が頭の中を何度もぐるぐると巡って、そして気づいた。ああ、これこそ切原君がふいに哀しそうな顔をする理由なのだと。 試合は切原君と柳先輩が勝利を収め、ベンチへ向かってくる切原君と目があった。相手を完全にねじ伏せて圧勝と言える勝ちを収めたとは言え、彼も相当ぼろぼろに疲弊しているように見えた。切原君はまっすぐ私を見つめていて、逸らそうとしなかった。だからたまらなくなって、私が視線を逃がしてしまった。ふよふよと、落ち着かない視線をようやく自分の足元に落ち着ける。 「きりはらく、」 「…何だよ、その顔」 フッと、半ば投げやりに小さく笑って、彼は私から視線を外した。私はもう何も言えなかった。 そう、きっとこれが、切原君の憂鬱。 結果から言うと、立海は負けた。 切原君達の試合の後、仁王先輩のシングルス、丸井先輩と桑原先輩のダブルス、そして幸村先輩のシングルス、これらはどれも惜しいところまでいったものの、結局、勝利を手にすることはできなかった。 表彰が終わる頃には、会場の外は真っ赤な夕日が沈みかけているのが見えた。神奈川へ戻るには、15分後に来るバスに乗る必要がある。会場の外のベンチで休んだり、他校の知り合いと話したり、各々がバスの到着までの時間潰しをしていた。 「お疲れ様でした」 丁度近くにいた丸井先輩と桑原先輩に声をかけると、彼らは顔を見合わせてから、少し悲しそうな顔で「負けちまったけどな」と笑った。こんな時まで、無理に笑わなくても良いのにと思ったけれど、彼らなりのプライドがそこにあるような気がして、私はあえて「それでも、カッコ良かったです」と、月並みな台詞だけを並べた。 「今日は来れて、本当に良かったです。感動しました」 「…最後にそう言って貰えて良かった。な、ブン太」 「…ああ」 二人はきっと、切原君のことを言ったのだと思う。その時、丸井先輩の視線が私より後ろに移って、釣られてそちらを向くと、切原君が会場の中から出てくるところだった。ラケットバックを背負って、のんびりと脇にあるベンチの方へ歩いている。 「あの、切原君のことですけど、試合中は取り乱してしまってすいませんでした」 「え、あ、ああ」 「先輩達の覚悟をきちんと知らないくせに私が出過ぎだこと言いました」 先輩達の方へ向き直ってそれだけ言うと、私はちょっと失礼しますと、二人のそばを離れようとした。切原君の元へ行くつもりだった。しかしそれに気づいたのか、すかさず私の腕を捕まえたのは丸井先輩だ。見返した彼は何も言わなかったが、言うまでもなく、切原君の所へ行ってはいけないと、そういう意味であることは分かった。だが、ただ私にはどうして彼が私を止めたのかが、分からなかったのだ。今はそっとしておけということか、また私と切原君が喧嘩をしてしまうと思ったのか。しかし、ここで機会を逃してしまったら私は切原君の憂鬱に中途半端に足を突っ込んだまま、このままずっと身動きが取れなくなってしまうのではないかと思った。 踏み込んで良いのかと躊躇った領域を、私はもう既に覗いてしまった。一度踏み込んでしまったのだから、引き返して見なかったふりはできない。 「…丸井先輩」 気のせいなのかもしれない。だけど先輩が私を引き留めるのは、触れてはならぬ場所から遠ざけるような、そのためだけには見えなかった。先輩の瞳の中には、私の理解し得る以上の、様々な意味が内包されているようで、自分が意図的にそうするよりも前に、無意識のうちに私はそれを拒絶した。 「ごめんなさい」 やんわりと先輩の腕を解くと、私は切原君の方へ走り出した。勝手なことをしてごめんなさい、とそういうつもりの言葉だったけれど、先輩が私に伝えたいことを私が汲み取れなくてと、そういう意味でもあった。 「切原君」 ベンチでぼんやりと夕日を見上げていた彼は、私の姿を捉えるなり、眉間にしわを寄せて、視線を逸らした。断りもなく彼の隣に腰を下ろす。その瞬間にあからさまに距離を取られて、私は肩を竦めた。 「切原君お疲れ様」 「…」 「試合かっこよかったよ」 「…」 「えーと、そう、柳先輩と切原君て、すごくコンビネーション良いんだね。切原君て普段我が道をゆくって感じだったからダブルスとかどうやるんだろうなあ、って思ってたんだけど、」 「お前どういう神経してんだよ」 決して彼は声を荒げてはいなかった。しかしどんな罵声よりも人を撥ね付けるような拒絶の言葉に聞こえる。どういう神経か、なんて、切原君が疲れているだろうから、私はそれを少しでも労われたらなと、そう思うだけだよ。端にぐしゃりと丸めてある彼のタオルをたたみ直すと、彼の膝の上に乗せる。 「…俺が怖いなら、わざわざ近づくか、普通」 「え?」 「…。軽蔑しただろ」 「どうして切原君のこと怖がったり軽蔑したりしないといけないの」 ていうか、切原君が怖いと思うようになったら私ももうオシマイだよね。喧嘩したら殴られなくなっちゃうし、ああ、女の子は手をあげちゃいけないんだっけ。けらけらと笑い飛ばして、彼の背中を叩くとその手は強く弾かれた。立ち上がった彼は握り拳を固く握り締め、肩は小さく震えている。タオルが地面に落ちて、私はそれを拾い上げて砂を払ってやった。 「これスポーツのブランドのタオルでしょ。ゆずるも同じの使ってるけど高いのなんのって、…大事にしないと」 「お前、あんな試合見たのによくそんなこと…!」 「私は何にも怖がったりしてないよ」 「…」 「怖がってるのは切原君の方でしょ」 ハッと息を呑む切原君の顔が上がる。私はすぐそんな彼の頭にタオルをかぶせて自分の方へ引き寄せた。彼は一瞬驚いていたけれど、されるがままに、そのまま私の肩の上に彼の額を落ち着けた。 「切原君が、何かを嫌がってるのは前からなんとなーく、分かってたよ」 「…見ただろ。あれが本当の俺だから、お前があんな俺を見て、怖いとか、軽蔑するだろうって、」 「さっきも言ったけど、怖くないし軽蔑もしない。それに違うよ」 あの切原君を見て私は酷く驚いた。切原君だと信じたくなかった。だけどあれは切原君の全てではなく、切原君のほんの一部にすぎない。 「本当の君は、今私のそばで泣きそうになってる、馬鹿で生意気でだけどちゃんと思い遣りのある、この切原赤也だよ」 人を傷つけることはどんな理由があっても決してしてはいけないことだ。確かに切原君は、今回それをしてしまった。だけど、これから直せば良い話で、こんな自分は誰もそばにいてくれないと諦めないでほしいのだ。 彼の頭をそっと撫でると、「そういえば」と私は口を開いた。 「覚えてるかなあ。切原君が保健室で、私に、どんなに辛くても我慢しないで人を傷つけちゃう人が悪い人で、だからそれをしない私は良いやつだって言ったの」 「…ああ」 「考えたんだけど、ちょっとだけ違うと思うんだ」 人を傷つけない人がいたら、それに越したことはないし、きっとその人こそが本当の本当に良い人なのだろう。けれど、実際、一度も人を傷つけないで生きていける人間なんていないのではないだろうか。 「後悔と、反省だよ切原君」 「…え?」 「誰かを傷つけてしまったことに後悔と反省ができる人。これが私の思う良い人ってやつなんだよ」 そこで、肩から切原君が顔を上げた。少しだけ泣きそうな顔だ。そんな顔、君には似合わないのに。 「めちゃんこ落ち込んでんじゃんすか。良くないことだって分かってるから、そう思うんでしょう」 「…、」 私は切原君の頭をぽんと撫でると笑った。 「だからね、切原君は良い人だよ」 怖くないし、軽蔑もしない。 切原君は私の大切な友達だ。 私が、ね、と彼の両方の手を掴むと、彼は小さく笑って、「んなの初めて言われた」そう、私の手を握り返したのだった。 (お前が悪魔でないのなら) return index next 次回、きっと新学期が始まるよ! ( まっくらな宇宙にはじき出された少女 // 150211 ) |