45_重ねたら夜のいろ

ゆずると喧嘩をした。というのは、いつものことなんだけれど。

つい数分前に家であったやり取りを思い返すと、自然と私の口がむすりと尖っていくような気がする。手からはコンビニの小さな袋がぶら下がり、私はそれを少しだけ乱暴に揺らしながら歩いた。袋の中には目的の電球と、飴と、チョコレート。電球以外は購入の許可が下りていないが、私は大層ご立腹なので仕方あるまい。
元々いけないのはゆずるなのだ。実は先日、真田先輩宅に行った時に、帰りに記念にテニス部の皆さんと写真を撮ったのだけれど、真田先輩がそれを律儀に現像して、私にくれたのである。それはもちろん、部活で会うゆずるを通してなのだが、問題は、その写真にはゆずるが映っていなかったということだ。丁度、一人席を外している時に撮ったものだったからしようがないとは思うのだけれど、私ばかりずるいと彼が騒ぎだしたのがすべての始まりだ。誰もゆずるがいないことに気づかなかったのもまた哀れの極みである。そこで、怒ったゆずるが出た手段はとても幼稚だった。近くにあった私の携帯を、こちらめがけて投げつけたのである。が、何をどうコントロールミスしたのか、彼の投げたそれは天井からぶら下がる電球に直撃。割れた電球にお母さんがやってきて当然怒鳴る。
ここまでの経緯を知らぬお母さんが私と半泣きのゆずるを見たら、とりあえず私が彼を泣かせた、つまり私が悪いと判断するのは何となく目に見えていたわけで。そうして私は替えの電球を今すぐに買って来いと追い出されたのだ。しかしこれには私だって納得がいかない。私の携帯を投げた報復として私の右ポケットにはゆずるの携帯が隠れていた。
夏の夜の生温い風に煽られて、少し汗ばむ額を拭う私は家までの道を急ぐ。帰ったところで、居心地が悪いだけかもしれないが。

私はしばらく住宅街を真っ直ぐ進んでいた。ふと気づくと後ろから誰かが走ってくる音がする。この時間はたまにランニングをしている人を見かけるから、多分そういう人なのだろうな、と、私は邪魔にならぬように、なるべく道の隅に寄って歩いていた。しかしその足音は私の少し後ろで速度が落ちた。あれ、と思ったのもつかの間、「あの、すいません、…ちょっと良いですか」上がった息を整えるように呼吸をしながら、少し掠れた声が私を呼び止めた。ぶらり、と袋を振り回す手を止めて、その声に何となく頭に浮かんだ人の名前を口にしながら私は後ろを振り返る。

「丸井先輩?」

暗がりで、一瞬誰かは分からなかったが、そこにいたのはやっぱり丸井先輩その人だった。いつもの辛子色のジャージではなく、白いTシャツに黒っぽい見慣れぬジャージ姿である。おそらく自主トレ中であるのだとは思うのだけれど、彼がここら辺を走り込んでいる姿は今までに見たことがない。
彼はまさか私に声をかけたとは思っていなかったようで、素っ頓狂な声をあげて、何でお前が、と零した。そりゃこっちの台詞なんですけども。ここは私の家の近くだ。丸井先輩の家はここよりもう少し先の方ではないか。

「ところで、丸井先輩、さっき何を言いかけたんですか」
「え、ああ、そうだった。お前、ここら辺で5歳と8歳くらいの男の子見なかったか」
「いえ、見てませんけど」
「…そうか」

あからさまに丸井先輩の表情が沈んだのがよく分かった。時刻は22時を過ぎている。話の流れから察するに、弟を探しているのだろう。「もしかして迷子なんですか」私の問いに、先輩が小さく頷いた。
どうやら、ことの発端は最近弟が拾ってきた猫にあるらしい。その猫がいなくなってしまったそうなのだけれど、今日は遅いから、もう探しに行くことは諦めるように先輩は説得したらしい。けれど、丸井先輩がランニングに出て行って帰って来た時には既に2人の姿はなく、どうやらお母さんの目を盗んで家を出て行ってしまったらしいのだ。

「…下の弟は、まだ信号とかちゃんと分かってないっつうか、車が来ても渡ってく時あるし、上のやつがいるから大丈夫だとは思うけど、」
「…」
「そうでなくても最近変な奴多いし、もし、」
「先輩、私も一緒に探します」

口をついて出てきた言葉に自分で驚いた。最近、丸井先輩と接触することが特に多くなったような気がする。前は顔を見ただけで逃げようとしていたのに、放っておけば良いのに、何を気にしてるんだと、首を突っ込もうとしている自分に半ば呆れながら、私は丸井先輩を見上げた。彼はいつもより何倍も弱々しく、焦りを孕んだ顔をしていた。

「…は、お前、何を」
「何って、2人で探したほうが効率いいでしょう」

いつもの丸井先輩らしくない。焦れったく思って、私は脇道の方を指さすと、こっちの道はまだ見てませんよね、と、そちらへ足を進めた。しかし、丸井先輩は私の腕を掴んでそれを引き止める。

「もう遅いから、そんな街頭少ない道なんか一人で入ってくな」
「でも弟さん達が入って行ってたらどうするんですか」
「俺が見に行くから」
「…じゃあ私はこのまま真っ直ぐ行って、」
「そっちも俺が行く」

丸井先輩は私にこのまま家に帰れと言っているように見えた。どうして?弟さんが心配なんじゃないの?
ここまで不安げに揺れる先輩の瞳の奥にあるものが私にはどうにも理解できない。こんなことをしてる場合ではないはずだ。苛立ち混じりに先輩の名前を口にすると、彼はバッと顔を上げた。

「あー何つうか、気持ちはありがたいけど、お前はもう良いから!」
「弟さんが心配なんじゃないんですか」
「…だから、俺は、お前も心配なんだって!」

ぎり、と掴まれた腕の力が強くなる。
焦るのは分かるがどうにも必要以上に困惑しているように見える。いつもの丸井先輩ならもう少し冷静なはずだが。弟さん達を探しに行こうとする私の腕を離そうとしない彼の様子をじっと見ていると、その瞳の動揺の色に、私は、ああと思った。こんな状況、以前にも見たことがある。
私は掴まれた腕を解いて、両手で先輩の頬を挟み込んだ。ぱちんと、割と力を入れて。

「丸井先輩、ちょっとしっかりして下さい」
「…な」
「私はいなくなりません」
「…」
「勝手に消えたりしません。弟さんが見つかるまでちゃんと探しますから」

見開かれる先輩の目を真っ直ぐ見つめ返す。こんな風に丸井先輩のことをきちんと見たのは初めてかもしれない。しばらく呆けていた彼は、そっと息を吐くと、私の手に自分の手を重ねた。目を伏せて「うん」と、確かに頷く。

「わりい、何か、ちょっと…『変な感じ』がしたから」
「気のせいですよ」
「…じゃあ、お前は、このまま真っ直ぐ行ってくれないか」
「わかりました」
「もし見つかったら電話で、」

丸井先輩がそこで言葉を切る。そう言えば、私達は連絡先を交換していないのだ。ええっと、と丸井先輩が困ったような顔をしたのだが、私はポケットからゆずるの携帯を取り出すと、「ゆずるの携帯に電話、ください」とそれをひらひらと見せた。どうしてお前がゆずるの携帯を、と丸井先輩が聞きたそうにしていたけれど、詳しい話は後だ。2人の弟さんの服装だけ聞いて、私は言われた方へ走り出した。


さて、猫を拾ってきたのは上の弟らしい。
飼い猫らしく首輪がついていたのだとか。ただ、怪我をしていて、家に帰れないのか、その猫は何日も前から学校近くの広場に居座っており、小学生が餌をやったりしていたのだと言う。それを連れて帰ってきたのが丸井先輩の弟だった。

探し始めてから30分が経ち、なかなか見つからないので、丸井先輩へ連絡を入れると、先輩もやはり同じ答えを返した。

「そう言えば丸井先輩、弟さんの学校の方って見に行きましたか」
『いや、行ってねえけど…だってうちからあそこまで結構距離あるぞ』

確かに、ここら辺は学区の境目であり、丸井先輩からの家だったらなかなか距離があるだろう。しかし、もしかしたら拾った場所へ猫を探しに行った場合もある。

「丸井先輩の家、学区的に神奈川第三小ですよね」
『そうだけど…お前、学校の場所わかんのか』
「当たり前ですよ、私だって第三小だったんですから」
『…は?』
「あっ、す、すいません、ちょっと電池やばめなので一旦切りますね!」

先輩の返答を聞く前に私は通話を切ってそれをポケットへ押し込んだ。電池10%の表示にひやりとする。連絡が取れなくなったらこれはちょっと面倒だぞ。きちんと充電していないゆずるに心の中で悪態をつきながら、私は前に向き直った。
私の予想が正しければ、弟さん達がいるのは小学校近くの広場。つまり学校の正門から右にずっと行ったところにあるあの大きな場所だろう。頬を伝う汗を乱暴にぬぐって、私は速度を上げた。

夜の公園と言うのは、普段の賑やかな風景とかけ離れていて不気味だ。
もしここにいなかったらどうしよう。一抹の不安が脳裏を過ぎった時、ずるずると、どこからか鼻をすするような音が聞こえた。次いで嗚咽も。予想が当たったか!私は息を飲んで、音のする方へ進んでいく。

「あの、そこに誰か、」
「おい」
「っわぁあああ!?」

突然後ろから肩を叩かれて私は心臓を飛び上がらせる。反射的にその場にしゃがみ込むと、「俺だって」と、頭上から丸井先輩の声がした。

「ま、まるいせんぱ…っ、怖いんですからびっくりさせないで下さいよ!」
「わりいって言うか怖いなら言えよ…」
「そんなこと言ってられませんて!ていうかなんでここにいるんですか馬鹿ですか!?」
「とりあえず落ち着け。お前の話聞いて、確かに俺もここにいるような気がしたんだよ」

きっと、あっさり私に追いつくことなんか、丸井先輩からしたら訳ないのだろうなと思った。一生懸命ここまで来たのに何だか腹立つ。…なんて、そんなことを言っている場合ではなかった。確かこっちから誰かの声が聞こえたのだ。茂みを掻き分けて声の元を探すと、そこにはうずくまっている2人の男の子がいるではないか。2人の足元には猫がいたらしいダンボールがあったけれど、そこに猫の姿はなかった。どうやら、見つからなかったようだ。恐らく、上の方の弟さんが、涙の溜まったまんまるの瞳で私の顔を見つめると、だれ?と問うた。

「私は丸井先輩のお友達です。先輩の弟さんですか?」
「にいちゃんの、」
「そう」

茂みから顔を出して、後ろに控えていた丸井先輩に、いましたよと声をかけると、先輩は安堵の息を漏らしたのも束の間、私を押し退けて弟の2人を茂みから引きずり出したのだった。何となく次の展開は予想ができて、私はそっと耳を抑える。

「にっにいちゃん…!」
「お前ら…」
「…にいちゃ…っ」
「っこんの馬鹿野郎共!俺と母さんがどんだけ心配したと思ってんだ!」
「ひ、っ」
「…ご、ごめんなさ、…っ」

丸井先輩は決して間違っていないのだけれど、ぎゅう、と自分のシャツの裾を握りしめて先輩からのお説教を受け止める2人が少しかわいそうに見える。ある程度丸井先輩が怒りを吐き出した後、私はまあまあと、間に割って入った。続きは家に帰ってからにしないと、そろそろ家で待つお母さんが心配するのでは。

「にいちゃ…ごめんなさい…。ぼくがいけないんだ。ぼくが探しに行こっていったの」
「…はあ、もう良いって。あとは家で父さんと母さんに怒られて、ちゃんと反省な」


そう言った先輩の声は、やけに優しかった。



それから私は丸井先輩と、それから弟さん達と、先輩の家まで引き返した。家の前まで行くと玄関先にはそわそわと丸井先輩達の帰りを待つ3人のお母さんがいて、その姿が見えるなり弟さん達はお母さんに飛びついて行った。

「うちの息子達が本当にご迷惑をおかけしました…」
「あ、いえいえそんなことは…」

こんなに深々と頭を下げられたのはいつ振りだろうか。弟さんたちからも、ごめんなさい…、と舌足らずな調子で頭を下げられたので、タジタジしてしまう。思い切り首を横に振っていると、丸井先輩がそんな私を見て笑った。「あ、そうだ、母さん」時計を確認した彼がふいに口を開いだ。

「もう遅いからを家まで送ってくる」
「ええ、そうね。行ってらっしゃい」
「え!」
「ほら行くぞー」
「いや、」
「何、嫌なの?お前、今何時だと思ってんだ」

ずい、と目の前に突きつけられた先輩の携帯には、23時30分過ぎを示している。うそ、もうこんな時間なの。息を詰まらせた私は、丸井先輩と一緒に家に帰る、ということよりも、連絡を入れずにこんなに遅くまで家に帰らなかったことに何と言われるかに身震いをした。いけない、こんなところでしゃべってる場合ではない。早く帰らなければ、今度は私が怒られる番だ。丸井先輩に拒絶の言葉をつづけぬまま、私はふらりと覚束ない足取りで帰路につく。その隣に丸井先輩が並ぶ。

「ん?…やけに諦めが早いな。どうした?」
「いえ、…もうどうでもいいです…」
「…ふうん?…あ、そうだ、改めて今日はホント、サンキュな」
「…ああ、それなら良いですよもう。丸井先輩の弟さん、なんか可愛かったですし」
「だろい?俺の自慢の弟」

先輩の顔がへら、と緩んだ。アホみたいな顔。とこっそり思いながら、本当に弟が大事なのだなあと先輩の横顔を一瞥した。弟が大切で、変なとこばっか気が回って、料理が馬鹿みたいにうまくて、やかましくて、丸井先輩を邪険にする私に何故か優しい。

「ほんと、丸井先輩は面倒見が良くてお人好しですね」

ポツリとこぼすと、先輩は驚いたように目を見開いて、それから「本当にそう思う?」と問うた。私はその質問の意味が分からず、ええ…まあ、と曖昧な返事を寄越す。「それじゃあ、」丸井先輩が言った。

「お前が予想した通りだな」
「え?」
「ちゃんとした兄貴になれてるか、不安だったんだ」
「…」

…ああ、そう言えば過去の世界へ行った時、私は丸井先輩にそんなことを言った覚えがあった。先輩からしたら、10年くらい前のことでしょう。何でそんな昔のことを覚えてるの。先輩はいつだって、まるで全部大切な思い出だからちゃんと覚えているとでも言うように、私とのあの過去の思い出を語る。そんなだから、わざわざ私としたあの水族館での約束も守っているの?問おうとしたけれど、途端に胸が締め付けられるように苦しくなって、私は何も言えなくなってしまった。
ねえ、私は貴方といるとどうしてこんなに胸が痛くなるのだろう。

「…?」
「せんぱ、」
「このっ、馬鹿ーーー!!」

それは突然だった。丸井先輩の家にまで届いてしまうんじゃないかというくらいに、空気を震わせ、ついでに私の心臓を跳ねあがらせた。うわ、びっくりしたと、隣で先輩が小さく言ったのが聞こえたが、それを気にしている間もなく、目の前からゆずるらしきシルエットがものすごいスピードでこちらまでやって来て、ぎゅ、と私に抱きついたのである。

「何ですぐ帰ってこないんだよっていうか何で携帯置いてくんだよそんでお前俺の携帯持ってっただろふざけんなとりあえず心配したんだからな!」
「丸井先輩すげー抱擁を目撃しちゃった」

ぎゅうぎゅうと背中に回る腕が何か骨ばって痛いんですけど。先輩が隣でどういうわけかにやついていた。ゆずるの頬は真っ赤に腫れているので恐らくお母さんにビンタでも食らったのだろう。私は「ゆずるが私の携帯投げたからいけないんだよ」と言うとごめんなさいと即答されて、私は丸井先輩と顔を見合わせた。先輩は何が面白かったのか、小さく噴き出していた。

「て言うか、元々携帯投げて電球割ったのゆずるなのに、なんで私が買いに行ったのか謎」
「はは、お前らってなかなか荒々しい喧嘩すんのな」
「笑い事じゃないんですけどね」
「俺ちゃんと母さんに事情説明したしッ、だからビンタくらったの、ほらッ」
「当たり前でしょ」
「いっ、」

頬の腫れ上がった部分を見せつけられたので、私はそこを抓ってやった。彼は今にも泣きそうな顔で私から飛びのいて、て言うかなんで丸井先輩といるんだよ!なんて今更なことを取り上げた。まあ、私も色々あったんだよ。

「色々ってなんだよ!まさか丸井先輩と愛の逃避行、」
「ねーよ」

ね、丸井先輩、と私は先輩を振り返る。彼は束の間、きょとんと私とゆずるを交互に見ていたけれど、何を思ったのか、ニッカリと笑ってみせたのだった。

「俺はあると思いまーす」
「なに!?」
「え」
テンメエエエ」
「ちょっと待ってごめん何でこれ私が悪い感じになってんの?」




(重ねたら夜のいろ)


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めちゃんこ長い!
( まっくらな宇宙にはじき出された少女 // 150210 )