44_祈りは隠しておきなさい |
『ねえちゃん、早く、今すぐ!』 がちゃん。一方的に切れた電話の向こうの不通音を聞きながら、私の零したため息は誰に届くこともなく、蝉の鳴き声に掻き消された。居間の方から、「何だってー?」ニュース番組の音と一緒に聞こえるお母さんの間延びした声。私は、静岡にいる親戚の家に行った時に買った日焼け止めを掴んで、出かけてくるねと力なく答えた。 「えっ、今から?」 窓の外に目をやると日は傾きかけており、確かに今から出かけようとは思えぬ時間である。それでも「うん、行ってくる」と私は言った。 「あ、それから花火ってどこにやったっけ」 「はなびぃ?」 「ほらこの間、ゆずるがいきなり買ってきたおっきなやつ。変り種がたくさん入ってる」 急に出かける上に花火。いよいよ怪訝に思ったらしいお母さんは、居間から顔を出して、「突然どうしたの」と眉をひそめた。自分でもなかなか突飛なことを言っている自覚はあるが、ゆずるが持って来いと言うのだから仕方がない。とても面倒だが。そう言えば、花火は物置にしまってあっただろうかと私は物置を覗きに行くと、呆れた様子でお母さんも後に続いた。 「ゆずる今どこだって?」 「真田先輩の家だってさ」 「それ部活の先輩?」 「うん」 今度家族でやろうと大はしゃぎで買ってきた割に、すっかり物置の奥にしまい込まれた花火を見つけ出すと、私はお母さんと顔を見合わせて肩を竦めた。きっとお母さんは、ゆずるの生意気さに頭を抱えている、というよりは、私のことを哀れに思っているに違いない。 「そう言えば、今朝、今日は部活の後に先輩の家にお邪魔するとか騒いでたかしらねえ」 「ゆずるは先輩大好きだからね」 以前にも彼に言われたことがあるが、最近、テニス部の先輩達が、ゆずるによく声をかけてくれるようになったのだとか。それは姉である私が切原君やと仲が良いことが原因らしいが、そのお陰で今回、真田先輩の家に「お前も来るか?」なんて彼もお呼ばれしたのだという。 「あんたもすっかりゆずるの言いなりね」 苦笑するお母さんの声を背に、私は花火を小脇に家を出発して、朱色に光る太陽が落ちていく方に向かって、のんびりと歩き出した。 ゆずる曰く、真田先輩の家は二つ隣の駅にあって、駅から、道なりにまっすぐ進むと右手にすぐ見つかるとのことだった。そういうわけで私は言われた通りに道なりに進んでいるのだが、真田先輩の家を探すどころか、先程から和風な塀がずうっと続いているだけで、家など全く見受けられない。強いて言えばこの長く続く塀の家くらいだ。左手は、よく見る住宅街という感じで、たくさんの家が立ち並んでいるのだけれど。まさかこの塀が真田先輩の家の塀じゃなかろうな、とジャンプして中を覗き込もうにも、私の背ではちっとも中が見えない。 何となくオチが見えた気がしつつ、我慢して塀沿いに進んでいると、ようやく先に門らしきものが見えた。遠くからでもわかる。仰々しい門に取り付けられた木の表札には、達筆な字で「真田」と書かれていた。 「予想を裏切らない人だな」 途中から、予測ができていただけあって、家のサイズにも、ここが真田先輩の家である事実にも驚かないまま、門の中の様子を伺おうとした、直後だ。突然前から水が飛んで、私は思わず「びゃっ」と奇妙な声を上げた。手にしていた花火が落ちる。 いくら真夏だからと言って嬉しくない歓迎の仕方だ。一体何。 「す、すまない!」 「あ、じゃん」 聞き覚えのある声に、反射的に閉じていた目を開けると、そこにはとりあえず、いるだろうな、と思っていた面子が全員揃っていた。桶と柄杓を持っていた真田先輩が、私に水をかけた本人だろう。時間帯から考えて打ち水でもしていたのだろうか。「い、今拭くものを持って来よう」それらを置いて彼は慌てて家の方へ駆けて行った。 ぽたり、と前髪から雫が鼻の頭に落ちる。とりあえず目的の花火を拾い上げてゆずるに託すと、口元を押さえていた切原君が、ぶふ、と吹き出した。 「お前っていつもずぶ濡れなのな」 「怒るよ」 「ごめん」 鋭く睨み付けると切原君はきゅっと口を閉ざした。が、もっとキツく言ってやってと、切原君をどつく。どうやら話によると、確かに最終的に水をかけたのは真田先輩だったけれど、元々は切原君が悪いそうなのだ。 「あんたが自分もやりたいなんて柄杓を引っ張らなかったらこんなことにはなってないんだからね」 「ぐ、」 「何だ、真田先輩ちっとも悪くないじゃん」 真田先輩は、すぐに戻ってきた。タオルを私に渡して、ひとまず中に入ろうと、皆と一緒に私を家に招き入れた。和風の客間のテーブルには大きなスイカと、切り分けられたいくつかが載っている。真田先輩が言うには、今日、ここに皆を招いたのは、親戚から大量に届いたスイカをご馳走するためだったのだとか。 「あまりにたくさんあったのでな、うちだけでは食べきれないと皆を呼んだのだ」 「うちの弟まで、すいません」 「なに、構わん」 真田先輩の手がタオルに伸びる。もっとしっかり拭けと、ごしごしとタオルで髪を撫でつけられる。それから、真新しいTシャツを渡された。着替えろ、ということなのだろう。これくらいすぐに乾くだろうし、そもそも真田先輩のせいではないのに、わざわざここまでしてもらうのは申し訳ない。 「そういう訳にはいかん。万が一風邪を引いたらそれこそ責任はとれん。服くらいどうってことはないぞ」 「でも」 「、すまないが、についてやってくれ。着替えは隣の部屋を使うと良い」 手の中のブルーのTシャツは、私には少し大きそうに見えたけれど、無地なので、私でも問題なく着れてしまいそうだ。わざわざ探してくれたのだろうか。この好意を無下にもできない。の顔を伺うと、彼女は行こうと言ったので、私は首を縦に振って、彼女に続いた。 「家に帰るまでに大体乾きそうだね」隣の部屋へ移動してから私が着替える横で、彼女は微笑んだ。そう言えば、彼女は先日まで体調を崩していたそうだけれど、以前に比べると彼女の顔色はすっかり良い。元々、私とのあの夢を見ていたから、具合が悪かったのだろうから、元気になって安心した。 「さあ、着替えたら早く戻ろう。丸井先輩と切原がいるから、スイカ、なくなるよ」 「いや、私は帰るよ。この借りた服は洗って、また部活に、」 「何言ってんの」 玄関の方へ身体を向けた私の腕をはがっちりと掴んだ。「何のために呼んだと思ってるの」その答えは明快だ。花火を届けさせるためだろう。役目を果たしたし、私は帰るよ。水に濡れた花火が、果たして使えるかは知らないけど、包装だけの被害ならきっと使えるはずだ。 「花火はほぼ建前だって」 「建前?」 「いーからいーから」 ぐいぐいと、再び真田先輩達のいる部屋に押し戻された私は、「ああ、戻ったか」と言う先輩に生返事を寄越した。自然にここに残る流れになっているんだけど。 切原君との座る間に、一人分のスペースが開けられて、まだ手のつけられていないスイカが一つ。「早く座れよ」切原君が口を尖らせる。私が着替えに行っている間に、先輩達に叱られたのか、少し機嫌が悪そうだ。 「何やってんだよ、お前の分食うぞ」 「赤也!」 「って丸井先輩が」 「おー先輩を盾にするとは良い度胸だな赤也」 「やめたまえ、さんが驚いていますよ」 別に驚いたわけではない。とてもいつも通りの風景だ。いつも通りの風景なんだけど…。 私は何も言わずに素直に切原君との隣に正座した。何だかとてもそわそわすると言うか、落ち着かない。目の前に置かれたスイカはみずみずしく赤く光っている。いただきます、小さく言って、私は噛り付いた。が「美味しいよね」と笑う。うん、と頷き返せば良いのに、私はそれができなかった。見回すと、それぞれがだらだらと喋って、笑って。生産性のない空間。だけど、どこにでもあるありふれたそれだ。 どうしてか分からないけれど、この状況に顔が微かに熱くなるのが分かって、私は俯いた。 「さん?」 「いや、その、美味しいですスイカ」 もそそ、とスイカを一気に口の中へ押し込んで、美味しい美味しいと繰り返した。顔は上げられない。きっと、赤いのがばれてしまう。私の背はどんどん丸くなっていく。向かいで幸村先輩と話していた丸井先輩が頬杖をついて私を覗き込んだ。 ちらりと目線だけそちらへやると、彼としっかり目があってしまう。先輩がニッと笑ったので、私の心臓が飛びはねた。 「なーに照れてんの」 「な、照れてなんかっ」 「耳まで真っ赤じゃん」 「ちが、違います!日焼けです!」 「ほんまに真っ赤じゃ」 「だからっ、照れたんじゃないです!…わ、私はただ、」 「ただ?」 「こうやって、皆さんとわいわいテーブルを囲うのは、初めてだったので、…当たり前みたいに、その、仲間に入れてもらって、あ…有難いな、と」 「がデレた!」 「はあ!?」 「のせいでスイカのタネ飲んじまったじゃねーかふざけんな!」 がったーん、テーブルが揺れる勢いで丸井先輩と切原君がオーバーなリアクションをした。丸井先輩はともかく、スイカのタネは知らんがな。余計に顔が熱くなるのが分かって、私はお手洗い借りますッと、逃げるように部屋を飛び出した。数分後、お手洗いの場所が分からず、そろそろと皆のいる部屋に戻ったのはまた別の話である。 さて、ゆずるは知らないが、私は真田先輩の家に長居をするつもりはちっともなかった。私はテニス部の選手ではないし、迷惑だろうと思っていた。しかしそんな風に大騒ぎしているうちに、あたりはすっかり日も落ちて、街灯がぽつりぽつりと灯る時間になった。ゆずるはこの時間を待っていたらしく、せっかく持ってきたから花火をやりましょうと、提案をしたのだ。中身を確認すると、水をかぶったのは袋だけだったので、花火はきちんと使えるようだ。真田先輩がバケツを用意して、皆して広い広い庭に飛び出す。 「赤也、危ないから振り回しちゃ駄目だよ」 「名指しッスか、幸村部長ー!」 「切原君以外振り回す人はいないからでしょ」 「お前だって振り回すだろ!」 「切原君が私に向かって振り回したら私もそうするかもね」 結局のところ、切原君が大人しくしていれば何も起きないという事だよ。私が水で濡れることもね。なんて言うのは流石に嫌味たらしいので、心の中だけにした。適当な花火を掴んで、トップバッターを決め込んだ切原君の花火から火を貰いにいく。「俺にもちょうだい」丸井先輩が隣に並んだ。風が後ろから吹いているから、煙を吸うことなく、ぼんやりと赤く光る花火を眺める。 「ごめんな」 「突然なんですか」 「無理矢理お前に花火持って来させたの、実は俺なんだよ」 きまぐれに花火とかやりてーなー、なんて丸井先輩が言い出したのが始まり。桑原先輩がいつもの気遣いで、近場のコンビニに行ってこようかと名乗りを上げたが、ゆずるがうちに丁度花火がありますよ、と口を挟んだのだと言う。「の奴に持って来させますか!」と。あいつ、外では私のことを呼び捨てにしてやがるのか。 「真田とか柳生とかは申し訳ないから自分達で買いに行こうって反対したんだけど、ゆずるが大丈夫って言い張るから」 「あの野郎」 「だから、俺も賛成したの。赤也もお前のこと呼べって言ったし。…あ、終わっちゃった」 丸井先輩の花火がしゅん、と光を吐くのを止めた。ついで私のも消えて、私達の周りが途端に薄暗くなる。新しい花火を持ってこようとする丸井先輩の背に、「どうして?」と問いかけると、先輩が笑ったのが暗がりでもはっきり分かった。「どうしてか?」そう、どうして、私を呼んだのか。 「うーん、会いたかったから?」 「はい?」 「お前がいたら、もっと楽しいかなって」 「はあ、」 どうしてそんな風な考えに至るのか、私にはわからなかった。私がいたって、大して変わることはないと思うけれど。しかし私がそう言おうと口を開きかけた時に、向こうで変わり種の打ち上げ花火とか吹き出し花火がパンッと、空に弾けて行ったのが見えた。それで、丸井先輩が「あ!」と花火セットの方へ走り出してしまう。 「何勝手に変わり種やってんだよ!つうか他の花火ももう全然ねえじゃん早すぎだろい!」 「花火は片手に五本ずつ持つのが基本ぜよ。のう」 「私は危ないって言ったんですけどね」 「やったのは仁王君と切原君だけですよ」 「お前らああ」 どうやら、花火はもうほとんどなくなってしまっているらしい。まだ線香花火はあるじゃねえか、と桑原先輩がぎこちないフォローを入れる。 「あーなんか、俺の夏一瞬で終わった気分」 「大袈裟な奴め。花火ならまた買えば良いだろう」 「ちぇ」 丸井先輩は、桑原先輩からふんだくるように線香花火を受け取るとその場にしゃがみこんだ。私も手招かれたので、先輩の隣に腰を下ろす。が律儀にそれぞれの花火に火をつけていく。 「そう言えば線香花火って最後まで落ちなかった人の願いが叶うジンクスありましたよね」 「それ誰かが言うと思ったーありがちー」 「ありがちで悪かったわね切原」 確かにそんなジンクス、聞いたことがある。全員の線香花火がぱらぱらと小さな音を立てて、先程までにはなかった不思議な静寂が、私達を包んでいた。線香花火をやるときはいつもそうだ。皆、じっとその光を見つめて、黙り込む。線香花火の光は、決して明るい光ではないのに、辺りの暗さを感じさせない光だ。 それにしても、どうして願いが叶うなんてジンクスがあるのだろう。 「んー、最後まで踏ん張った奴には線香花火の神様からご褒美、的な」 「線香花火の神様」 「あんまり御利益なさそうや神様じゃなあ」 確かに、何だか貧乏神とかに近い香りがする。苦笑を零した私は、花火の先で輝くまんまるの赤い光を見つめていた。 願い事、かあ。 「切原君は何てお願いするの?全国優勝?」 「それは願う必要ねえからしない」 「おー自信ありありですね」 を見やると、彼女は「うちのテニス部はめっちゃくちゃ強いから」とはにかんだ。そう言えば、時折新聞部の記事で、テニス部の大会成績が載っていたのを見たことがある。ここに初めて来たあの日だって、去年の全国大会の優勝の記事が貼ってあったような。強いことは知っていたけど、優勝が当たり前な程だとは知らなかった。切原君だって、自分が強いことは自慢してくるくせに、そういうことは何も教えてくれなかったから。 「そう言えば、さん大会見に来たことないよね」 「えっ、ああ、まあ…」 「時間がある時に見においで」 「心配しなくても勝つから安心しろい」 そういうことを心配しているわけじゃなかったのだが。 切原君が、一瞬だけ表情を曇らせたように見えたのは気のせいだろうか。テニスの領域まで、私は踏み込んでも良いのだろうかと、そんな心配だった。 「まあ、つうわけで俺はプレステ4買ってもらえますように、だな」 空気を変えるように、切原君が自分の願い事を言った。周りの先輩たちは、というより私もだが、案の定といった内容に、半ばあきれ顔でそれを聞いていた。 そういう物的なお願いを聞き入れてもらえるか、なんだか微妙なところだけれど、まあ願い事は自由だ。 「丸井先輩はどうせケーキ食べ放題とか、そういうのでしょう」 私は冗談めかして言ってみたのだけれど、先輩は肯定も否定もしないまま、ただ笑うだけだった。…なんだ、それ。丸井先輩の反応も腑に落ちなくて、彼の横顔を伺う。「じゃ、お前は?」それを遮るように、切原君が私へ問うたので、ハッと視線を切原君の方へ戻した。え、私? そろそろ落ちそうな匂いを醸し始めた線香花火を彼は気にしながら頷いた。 私は、…今、自分のやるべきことが、見つかりますように。だろうか。 悔いなく生きること、それが何より大切なことで、私に必要なことだと分かったのだけれど、何かまだ、足りない気がするのだ。私にはまだ気付けていないことがあるような。 「私は、内緒かなあ」 「うわ、アンフェア」 「切原君が英語使ってる、どうしよう」 「お前の線香花火なんて早く落ちろ!ふううう!」 「ちょ、こらあああ」 「騒ぐのはやめたまえ!」 ぐらぐらと腕を揺さぶられるわ息を吹きかけられるわ。私の線香花火は今にも落ちそうになりながら、ぎゃあぎゃあと切原君に対抗していると、柳生先輩の一喝で、私達は肩を震わせた。その瞬間、同時に目の前がフッと暗くなる。「あ」その場にいた何人かの声が重なった。 全員の線香花火がほぼ同時に落ちてしまったのだ。 「…すいません、私のせいでしょうか」 「柳生先輩は悪くないですよ。切原君がいけないんです」 「やっぱり俺かよ!お前が騒ぐからだろ」 「でも最初にふーってしたのは切原君」 「フフフ仲が良いね」 「良くないです」 「つうか最後まで残ったのって誰だった?ジャッカル」 「俺に聞くなよ」 「ほーら、切原君が…」 「俺のせいじゃねえよ!」 結局、誰のお願いが、線香花火の神様に届いたのかはわからなかった。 それでもなんとなく、願い事は神様に通じたような、そんな気がして、私はゆっくりと空を仰いだのだった。 (祈りは隠しておきなさい) return index next わいわい回でした! ( まっくらな宇宙にはじき出された少女 // 150209 ) |