43_形だけ留めたいわけじゃない


「終わった?」
「えっ、あ、はい」

と話の決着がついた後、丸井先輩がいたことをすっかり忘れていた私は、保健室の扉を閉じた途端に掛けられた先輩の声に、ハッと顔を上げた。先輩は話を聞かないためか、律儀に保健室から少し離れた曲がり角の傍の壁に背を預けており、こちらにひらひらと手を振っていた。そんな所にいなくても良いのに。そんな台詞が思わず出て、丸井先輩が苦笑をこぼす。距離的には聞こえないと思っていたのに、どうやらきちんと届いていたらしい。冷房の効く保健室と違って、廊下は開いた窓から生温い風が吹き込むだけで、ぱたぱたとジャージの襟で丸井先輩は自分を仰いでいた。私は今までずっと保健室の中にいたというのに、廊下に出た途端汗が噴き出すような思いだ。こんな中で長らく待たせていたのは申し訳なかったなあと思いながら、侘びの一言でも入れようとした時だ。

「ところで、お前良いタイミングで戻って来たな」
「はい?」
「これだよ、こーれ」

丸井先輩の腕が廊下の曲がり角の影の方へ伸びて、そこから誰かをぐいぐいと引きずり出したのだった。ぽいっと効果音でもつきそうな勢いで、私の前に飛び出したのはなんと切原君だった。丸井先輩はまさか切原君とのことも、解決してしまおうと思っていたというのか。
一瞬かち合った視線に、私も、切原君もびくりと異様に肩を震わせた。怖がっていると言うのかは分からないが、怒りよりもどちらかといえば気まずさに近いものを感じているのは、彼も同じらしい。
切原君は一度目が合ったきり、視線をふよふよと泳がせていた。だからこそ私は逆に、切原君を真っ直ぐ見ることができたのかもしれない。丸井先輩は頭の後ろに手を回して、私達を交互に見ていた。何か言わなければ、何かを。何でも良いから、切原君に言いたいこと。この機会を逃したら、二度とこんな風に向かい合うこともなくなってしまうかも。そうして私は勢いに任せて口を開いた。「切原君、」口を開けば何かしら出るだろうと思った。

「おはよう!いや、違う、こんにちは!」

ぽかんと、切原君も、そしてその後ろにいる丸井先輩も、唖然として私を見ていた。「こ、こんにちは」勢いに押されたか、切原君の口からも挨拶が返る。完全に台詞の選択ミスをしたのではないかと丸井先輩の顔が、半ばあきれ顔に変わったのが見て取れたが、私は後悔なぞしていなかった。

「学校がある時、いつも切原君におはようって、言って、1日が始まったから」
「は…」
「切原君に挨拶したから、私の1日がちゃんと動き始めたよ」

と言っても、今は学校があるわけでもなく、長期休暇中だけれど。それでもきっと、挨拶さえまともにできなかったら、仲直りなどできるはずもない。
相変わらず毒気を抜かれたような切原君の頭に、丸井先輩の手が伸びた。ぐりぐりと、それは弟にするそれのように、彼の頭を撫でる。私の態度を見て自分がいなくても大丈夫だと踏んだのか、丸井先輩は満足そうに笑っていた。「じゃあ後は頑張れよー」やけに間延びした声で言って、その背中は昇降口の方へと消えていく。すかさず切原君がそちらへ向かって口を開いた。

「っ俺、丸井先輩のそういうとこ、嫌いッス」
「そりゃどーも。お前に好かれても嬉しかねぇや」

すっかり背が見えなくなった道の先から先輩のそんな声が聞こえる。二人のやり取りを黙って見ていると、しばらく先輩の消えた先をじっと見ていた切原君が、こちらに向き直った。「俺、の様子を見に来ただけだから」今度はしっかりと私の目を見て言った。私も逸らさなかったけれど、彼の瞳も口調も、先程より幾分も私を撥ね付けるようなニュアンスだったから、それにどう答えたら良いかわからなかった。「そう」と言えば良いのか、「私も今行ったところ」と言えば良いのか。当たり障りのない台詞が浮かんでは消えたが、結局私は何も言わなかった。

「それでさ、悪いんだけどそこどいてくんねえ?」
「私、切原君に話がある」
「…何」

あーあ、めんどくせ。
切原君のあからさまな態度に私はたじろいだ。たまに出てくるこんな彼の攻撃的な物言いは、今でもあまり慣れない。それでも本当は彼がとても良い人であることを思えば、ここで引き下がる訳にはいかない。

「まずは、何度も殴ってごめん」
「は、別にもう良いよ。俺だって色々、…いや、お前のこと殴ったことあるし、いちいち『全部』に謝ってたらキリねえだろ」
「…ぜんぶ…」

全部って?切原君の言う全部は、私の思う全部と、どうにも違うような気がする。彼の表情が曇った。前から思っていたが、切原君はどうしてそんな風に卑屈になる時があるのだろう。卑屈、とは少し違うかもしれないが、酷く悲しそうに、辛そうな顔をするのは何故だろう。
確かに今までの私だって、切原君にそんな指摘ができないくらい、自虐的になっていたけれど、切原君は、私に何か言いたくないような部分があるのだろうか。でも、たとえそうだとしても、今は関係ない。

「キリがなくたって、傷つけたら謝るよ」
「…」
「だって私は切原君のことがすごくすごく大切だし、好きだから」

そう、きちんと気づけたから。
ハッとして顔を上げた切原君は、私をしばらく見つめていた。言葉にはしなかったが、彼の瞳は今更何をと言っていた。そう。今更かもしれない。確かに私は今を大切にしてしまったら、それが壊れた時がとても辛いんじゃないかって、そう思った。だから皆に手を伸ばせずにいた。でも、何も壊れないのだ。何があっても。

「私、今の生活がものすごく好きだ。切原君も、も、仁王先輩も、他のテニス部の人達も、ゆずるも、それから丸井先輩も、皆好き」
「…」
「切原君が、友達になってくれるって言った時、嬉しかった。他の皆が当たり前のように私に話しかけてくれたのだって、叱ってくれたのだって、全部」

初めは意味がないと思った。全部本物じゃないと。だけど、切原君達からしたらどの世界の私でも、見分けがつかなくたって、同じだと思われたって、この私が得たという事実は変わらないし、築き上げたものも変わらない。偽物なんて一つもなかった。全部本物だ。の中身のである私がこの世界から消えたって、私の中でそれは消えない。

「だから、嫌われたって、もう友達じゃないなんて思われたって関係ないんだ。どう思われても私が皆のことが好きってことは本物で、この気持ちは大切にしたい」

一歩前に足を伸ばす。
窓から流れ込む風に乗って、蝉の鳴き声が相変わらず廊下に響き渡っていたけれど、不思議と喧しくは聞こえない。

「たとえどんな場所にいたって、後悔しないように精一杯今を生きたいんだ」
「…」
「だから、切原君にちゃんと言うよ」

すっと息を吸うと、切原君の腕を捕まえた。

「私ともう一度友達になって」

おはようって当たり前のように挨拶して、休み時間はくだらない話をしよう。宿題を写しあったり、怒られたり、真田先輩に追いかけられたり。
切原君は少しの間俯いていたので、表情は伺えなかった。しかし、ようやく顔が上がったと思えば、自分の腕を引いたので、それを掴んでいた私も釣られて引き寄せられる。なんだなんだと思う間もなく、ゴンと、額に切原君の額が衝突した。

「い、っ」
「お前馬鹿じゃねえの」
「な、にを」

ちらつく視界に、額を抑えながら私は後退をする。臨戦態勢を取るべきか否かを決めかねていたら、彼は言った。「いつから友達やめるって言ったよ」と。

「友達じゃなかったら、喧嘩なんてしねえから」
「…!切原君、」
「だーもう何も言うなっつの!聞いてて恥ずかしいんだよお前!」

緩む口元に、切原君が「うるさい!」と怒鳴る。私は何も言っていないが、どうせまた顔がうるさいとか理不尽なことを言うのだろう。

「つうか何だよ自分だけ悪いみたいな言い方しやがって俺が謝りにくくなんだろ」
「えっ」
「まあ、何だ、俺にも色々あったから、イラついてたっていうか、」
「色々とは」
「絶対言わない」
「えー…」
「とにかく、…悪かったな」
「う、うん…!」


私が力強く頷いた後、それから切原君は少し体裁が悪そうに頭をかいた。「告白かっつうの」そう、小さく呟かれる言葉。ああ、なるほど、告白のような言い方だったから恥ずかしくなったのか。だから私はちゃんと友達としてだよ、と繰り返すと、もう一度頭突きを食らったので、どうにも切原君って難しいなと、私は思うのだった。



(形だけ留めたいわけじゃない)


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( まっくらな宇宙にはじき出された少女 // 150209 )