42_いちどは二人で泣けますように |
幸村先輩は自分の言いたいことだけを言い切ってしまうと、まるで何事もなかったかのように、あっさりと私の腕を解放したのだった。離された腕と先輩を、私は交互に見つめる。今の言葉の意味はどういうことかとか、先程言われた「もっと他のこと」とは何のことかとか、聞きたいことはいくらでもあったけれど、どれも私の口から出る前に、幸村先輩はくるりと踵を返して私に背を向けてしまった。自分で考えろとでも言われるように、会話は強制的に打ち切られたのだ。そうして私はその場に取り残されて、幸村先輩が部室の中に消えていくのをただ見送るだけ。 彼が完全に見えなくなってしまってから私ももう家に戻ろうとふらりと来た道を戻り始めた。お母さんにはすぐに帰ると言って家を出て来たから、なかなか帰ってこないことを心配していないだろうか。 幸村先輩と歩いていた時は緊張で考えの中に入っては来なかったけれど、彼に掴まれた感覚が薄れていくにつれてジワジワとやかましい蝉の声が、私の耳の奥まで届き始める。 そこに割り込むように走る足音がして、すぐ後に「ちょっと待て!」と丸井先輩の声がした。 再び、今度は強い力で腕を引かれて後ろに振られながら私は声の方へ振り返った。驚く暇もなく私と丸井先輩の視線がかち合った。 「…丸井先輩」 「お前、何でここに」 「…まあ、成り行きで」 「成り行きって」 「もう帰るので、手を離していただけると嬉しいんですけど」 「いや、お前に話が」 話があるからまだ帰るな、とでも言うつもりだったのかもしれない。先輩がそこまで言いかけた時、テニスコートの方からこちらに向かって真田先輩の空気を震わすような怒号が聞こえて、丸井先輩は肩をビクつかせる。おそらく丸井先輩はフェンス越しに私を見つけて慌てて追いかけてきたのだろう。それが真田先輩にはサボっているように見えたのかもしれない。ズンズンとこちらに近づいてきた真田先輩に、丸井先輩があからさまに嫌な顔をして見せた。 「部活を抜け出すとはたるんどる!」 「すぐ戻るって、…あ、俺外周まだだったから行って来るわ」 「ブン太!まだ話は終わって、」 「行ってきー」 「ブン太!」 丸井先輩は早口にそういうと、「来いよ」そう呟いて私の腕を掴んで走り出した。後ろでは真田先輩が大騒ぎしているけれど、丸井先輩は後で切原君の言う例の平手でも食らうのだろうか。どうだって良いけど。きっと素直にランニングなどしないのだろうけど、外周をするのなら私は帰りますね、なんて、私は丸井先輩から離れようとする。しかし掴まれた腕はほどけることがなく、「そんなのするわけねえだろ」と引きずられるように校舎の方へつれて行かれた。 「あの、丸井先輩」 「離さねえぞ」 「いい加減に、」 「…っお前がいい加減にしろ!」 「いっ…」 先輩は昇降口まで来たところで突然足を止めた。背を向けていた先輩が振り返り、次の瞬間ゴオンと頭突きがかまされる。一瞬何が起きたか理解のできなかった私は、じんじん痛む額をさすって、らしくなく唖然としながら丸井先輩を見上げる。「良い加減、赤也と仲直りしろよ」先輩の言った台詞は、私には存外幼稚な内容に聞こえる。よくあるような仲直りと違って、そんな可愛らしい状況でないことは丸井先輩だってわかっているはずだ。まあ確かに仲直りという言葉に間違いはないのだろうが。 「お前すっかり部活に顔出さねえし、ゆずるに聞いても、最近口を聞いていません、しか言わねえしいつまでウジウジやってんだお前は!」 「私そんなに部活に顔を出したつもりは、」 「うるさい」 「…っていうか、」 「あん?なんかあんならさっさと言ってみろ」 「ほ、ほっといてくださいよ!私のことなんか!」 「…」 「もう良いんです、どうせ私はひとりぼっちだから、いっ!」 ゴオンと二度目の頭突き。話せと言う割に、私を黙らせるような行動だ。馬鹿みたいに痛い。この人は石頭なんじゃないだろうか。最後まで喋らせろと言う意味を込めて鋭く睨むと、彼は「どこがひとりぼっちか言ってみろい」と私の胸ぐらを掴んで引き寄せたので、今日の丸井先輩はいつもの、私に遠慮しているそれではないことを悟って、嫌な意味で心臓が大きく跳ねた。見つめ返した丸井先輩の瞳の中には、今ばかりはあの寂しそうな色はちっとも伺えない。 「だいたいお前、誰に対しても一線引いて自分とは関係ありませんみたいにクールな態度を取ってきたくせに、今更ひとりぼっちとか言い出すのお前。何、ひとりぼっちが嫌なの?」 「…っ、」 「黙ってねえでなんとか言いやがれ」 「…そう、ですよ、そんなの、…ひとりは嫌に決まってるじゃないですか…!初めからずっと思ってましたよ!」 ひとりぼっちは嫌だ。だけど自分はそんなわがままを言っていい人間ではないと思った。それにこの世界ではどんなに頑張ったって、私の手の中に本物はやって来ない。本物の友情も、本物の言葉も。全て還るのは本来ここにいるはずだった彼女の元にである。 口から言葉がこぼれる度に鼓動は速さを増した。奥底に隠していた私の秘密を教えるみたいに、本当に言ってしまって良かったのかと自分を責め立てながら、しかしもう後にも引けないし、きっとこの人の前じゃ、そうさせてもらえない。 「一人が寂しいなら何で初めからそう言わないんだよ」 「…先輩には分かりませんよ」 「どうして」 皆と仲良くする度に、私は寂しくなってしまう。私だけ皆と同じ場所に立てていないんだなと。私だけ本来いるべき場所が違う。それが決定的な違いになって、私がこの世界に一人きりだと言うことを浮き彫りにさせる。だったら、初めから仲良くしなければ良かったのだ。ずっとずっと、一人きりで。 「ふうん、そうやってお前は投げ出すんだ」 「だって丸井先輩は私がここにいるべきではない人間だと分かっているでしょう。ここで得たものは私のものにはならない」 「なるよ」 「は…」 「友達とか思い出とか、全部お前のもんだよ。他の誰のものにもならないし、俺はさせない」 丸井先輩の手が襟から離された。真っ直ぐに私を見つめていた瞳の中の鋭さが少し和らいだ気がして、私の緊張も徐々にほどけていく。乱暴な掴み方がなくなった代わりに、伸びた手は私の頭の上に落ち着いた。それが頭をぐしゃりと撫でて、しかしそれを払う気も起きなかったので、黙って彼にされるがままになっていた。この人のことは苦手だけれど、先輩の手はどんな時も温かくて優しいと、思う。 「お前の言う住む世界が違うことが変えらんないことなら、それは気にしてもしょうがない」 「…」 「でも、俺は最近思うわけよ。自分の一番やりたいことはさ、それをどんなものも邪魔できないし、させちゃいけないって。やりたいならなりふり構わず突っ走るんだよ」 どんなに頭悪かろうが、校則で怒られてようが、もっと他の何かが俺を邪魔しても、俺はテニスだけは取り上げられてたまるかって思う。 丸井先輩はそう言って、ふわりと笑った。 「どんな違いだって、お前の人生を邪魔できるものはないと思うぜ?」 「でもこればっかりは、」 「じゃあ国語ができる丸井先輩がありがたーい言葉を教えてやるよ」 仰々しく立てられた指が、私の額を突いた。国語ができる、をやけに強調していたように思うけれど、図書室で私が丸井先輩を馬鹿にしたことをもしかしたら根にもっているのかもしれない。 「お前さ、『ものは考えよう』って言葉知ってるか?がずっと考え込んでるその悩みは、大きいと思っているだけできっと些細なことなんだよ」 「…はあ、」 「住む世界が違うって言っても、お前は今ここにいるだろい?俺達と同じ場所に来れたってことはきっと大した距離じゃねえし、大した違いもねえんだよ」 丸井先輩の言葉の一つ一つが胸にストンと落ちてくるように染み込んで、私の心を溶かしていくようだった。大した距離も違いもない。そうだと良い。そうだったら。「お前は俺達と何にも変わらないように見えるけど」先輩のその言葉に、目が熱くなって、呼吸が震える。ああ、泣いてしまう。私はゆっくりと口を開いた。「そんな風に構える私は、ずうずうしくはないですか」と。私の聞き方がおかしかったのかもしれないし、多分言葉の選び方も良くなかったのだと思うけれど、私のその台詞を聞いた瞬間、丸井先輩はきょとんと目を丸くしてからすぐに吹き出したのだった。「全然図々しくない」なんて、ぐしゃぐしゃと髪が撫でられる。 「悲観的に考えすぎなんだっつうの、お前は」 「…すいま、…せん」 「いーよ、謝んなくて。だけどこれからはもうちょっと、丸井先輩にも優しく」 「それは無理です」 「いきなり泣き止むなよ何でだよ」 「何ででしょうね」 本当に、なんでかは分からないけれど、丸井先輩にはきっといつまでもこんな風に接してしまう自信がある。彼はそんな自信持たれても、みたいな感じだとは思うが。最後の最後に思い切り不服そうな顔をした丸井先輩は最早気にしないことにして、「とりあえず、切原君に殴ったことは謝ってきます」とだけ言った。もし切原君と仲直りができなくとも、私は切原君と友達だと思いたいと彼にそう伝えよう。 自分も着いていこうかと、丸井先輩は相変わらずのお節介を発揮したのだけれど、それを断る前に、ひょこりと不意に顔を出した仁王先輩に、私はびくりと肩を震わせて、言葉を飲み込んだ。 「に、仁王先輩」 「ここにおったかブン太。真田がカンカンじゃぞ」 「げっ…」 どうやら仁王先輩は丸井先輩を探しに来たらしい。部活はサボるわ、外周もしていないわで、何故か桑原先輩が代わりに叱られているのだという。不憫だから早く戻ってやれと、そう言うことらしかった。 「ちゅうかお前さんらこんなとこで何やっとるんじゃ。も体調崩して倒れたっちゅうのに」 「…が?」 あの夏祭りの、彼女が言っていた夢の話を思い出して、嫌な汗が背中を伝う。仁王先輩に聞くと、恐らく熱中症だと言うので、私の思い違いかとも思ったが、途端に私の足が重りが付いたように重くなった。そんな私を、丸井先輩が一瞥する。 「って保健室いんの?」 「ん?ああ」 「今誰もいねえよな?俺、とちょい様子みて来るわ」 「へ…!?丸井せんぱ、」 「真田にはうまーく言っといてくんね?頼む、詐欺師ー!」 「…お前さん後で高くつくぜよ」 丸井先輩は調子良く手を合わせて仁王先輩にそんなお願いをした。仁王先輩はそれに明確な了承の言葉は寄越さなかったけれど、凄まじい程に嫌そうな顔を浮かべて、踵を返してコートの方へと戻って行ったのだった。大丈夫なんですか、と先輩を見やる。「さあてな」丸井先輩はあまり平気そうな顔はしていなかったので、きっと内心やばいなあとか思っているのだと思う。 「でもそれより、今はお前についてないとダメな気がした」 「…お節介」 「はは、お前にだけな」 そうして先輩は、行こうと私を保健室の方へと促して、少しだけ身構えながら小さく頷く。怖くないといえば嘘になるけれど、いつまでも逃げてはいられないと、そう思った。 保健室には、仁王先輩の言っていたとおり、以外は誰もいなかった。少し前に倒れたみたいだから、もう他の皆は練習に戻ったのだろう。は身体を起こしてぼんやりと窓の外を眺めていた。その姿が、あの時のとどうにも重なって見えてしまい、保健室へと足を踏み入れた瞬間、全ての音が奪われたように、周りの空気があの日に還る。緊張で冷たくなっていく指先を握りしめて、私は彼女の名前を呼んだ。 ゆっくりと振り返る彼女は、私をしっかりととらえると、そっと口を開く。 「『』」 息が詰まりそうになった。浅く繰り返す呼吸に、頭がずきりと痛み出す。そんな私の様子を見兼ねたのか、丸井先輩が私より前に出て行った。先輩の背に隠れるように、の視線から外れたことに、私はひとまず安堵する。 「、大丈夫か。倒れたって聞いて」 「…ちょっと水分を摂り忘れていただけなので」 「ったく、気をつけろい」 「すいません…。あの、丸井先輩」 「うん?」 「さんと、二人でお話がしたいので、一旦席を外していただいて良いでしょうか」 まさか、彼女からそんな風に言われるとは思ってもみなくて、私はたじろぐ。丸井先輩、行かないで。そう思ったけれど、声が掠れて、先輩には届かなかった。「うん、わかった」あっさりと丸井先輩は私達に背を向けて出て行ってしまう。扉が完全に閉まり切ってから、は再び私を呼んだ。今度は「さん」と。この世界のの言葉で。 「この間、おかしな夢を見るって、話したでしょう?」 「…」 「不思議。あの夢とそっくりだよ、今」 「…、私」 「私ね、思ったの。この夢はもしかしたら私達に起こり得た一つの出来事なのかなって」 この世界のは、私が死なせてしまったとは、同じようできちんと違う存在だ。いつまでも彼女に死んだを重ね合わせることは良くないし、避けるのも間違っている。ただ、もし私の知るが、彼女を通して何かを伝えたいなら、それをきちんと受け止めよう、そう思ったのに、私はこれから彼女の口から出る言葉をとても恐れている。 「お祭りの時の話の続き、してもいい?」 私は答えなかった。私が逃げ帰ったことを、は責めない。だから代わりに私は今話を聞かなくてはいけないような気がして、俯いて、の言葉を待った。ああ、もし死んだにまた会えたなら、私はこんな風に彼女からの言葉を怖がって目すら合わせられないのだろうか。 「夢の中の私は、さんがお見舞いに来てくれるのをいっつも楽しみにしてたんだ」 「…」 「さんが教えてくれる学校の事をね、自分に重ね合わせて、私も学校に行ってる気になって」 「でも、わたし、…に、酷いこと、」 ある時から私は生きることに疲れてしまった。本当の友達であるが入院してから、私は一人になった。新しいグループに入らなければ。そんな風に友達の顔色を伺って、面白くもないことに笑って、愛想笑いを繰り返して、大きな流れにそのまま流された。突然他の仲間を探し始めた私はどこにも馴染めないまま、結局どこからも中途半端な位置に収まって、良いように利用されるだけの場所になった。初めはそんな些細なことから。でも私はそれにすら耐えられなかったのだ。何もかも嫌になり始めた。親の顔色を伺うのも教師の顔色を伺うのも。全部馬鹿馬鹿しい。 私は自分が不幸であることに酔い始めた。ああ可哀想な私。誰か私を哀れんで。可哀想だと悲しんで、慰めて、そばにいて。 だけど、結局そこでも私はひとりだった。 そんな不幸自慢を吐き出す場所は私にはただ一つしか残されていなかった。 「…、私は貴方にたくさん嫌な話をした。死にたいって、言った」 「うん。確かにすごく辛かった」 「ごめんなさい…っ」 「私のせいで、『』がそうなってしまったんだなって、苦しかったよ。それと同時にどうしようもなく腹がたった」 「…」 「どうして何でもできる貴方が生きる事を諦めるの?私はまだ諦めていないのにって」 私は大きな間違いを犯していた。どうして一番支えなくてはいけないものに気づかなかったのだろう。いつだって支えられていたのは、管に繋がれている彼女ではなく、自由に呼吸ができて、どこまでも走っていける私だった。の手が伸びて、私の腕に触れる。幸村先輩とも、丸井先輩とも違う、私はこの手をよく知っている。 「聞いて。貴方は確かに間違っていた。だけどね、間違えてしまったのは私もだよ」 何があっても、命を投げ出すことは、間違いだったんだよ。 の手に力が篭る。そこでようやく私は顔を上げると、彼女の瞳には今にもこぼれ落ちそうな程に涙が溜まって、私をまっすぐに見つめていた。 「何が起こるかなんて、最後まで生きてみないとわからないじゃない。明日私の病気が治る薬が見つかるかもしれない。治療が見つかるかもしれない。そんなの、明日になってみないと分からないんだよ」 「、」 胸が締め付けられるように痛んで、私は何も言えなくなってしまった。は最後まで生きることを願っていたのに、ああ、今だってこんなに、彼女は生きたがって、…自分の過ちを後悔しているのに。なんで私はあの時、彼女を傷つけたことを謝れなかったのだろう。私が間違っていたことをきちんと伝えられなかったのだろう。 手を伸ばして、彼女の腕を掴んで、言えば良かったのだ。 「明日を生きてみないと、どうなるかなんて何も分からないんだよ」 ただ一言、「生きて」と、に言えば良かったんだ。 そうすれば私達の、たった一瞬の気の迷いは永遠の後悔なんかに繋がらずにすんだのに。 「飛び降りた瞬間、私は酷く後悔した。弱い自分を恨んだ」 「違う、私が引き止めていればっ、」 「そうやって『』は自分を責めて、貴方も死んでしまった。確かに貴方の言葉には傷ついたこともあった。だけど、…この選択をしたのは全部私自身だよ」 風が吹いて、カーテンが揺れる。窓のその先のグラウンドは白く光って眩しい。 の手を握り返して、そうして途切れてしまったのあの日の続きが動き始めて、私達の間にあった溝を埋めていくようだった。 「貴方に謝りたかったの。それで、私は怒ってなんてないよって、貴方に伝えたくて…」 ぼろりと彼女の瞳からはついに涙が溢れ出した。ごめんね、ごめんね、彼女は泣きながら何度も何度もそう言った。きっとはこの言葉を伝えるためだけに、私のために苦しんで、この日を待っていたのだ。 「今、周りには貴方を大切に思って、支えてくれる人がたくさんいるでしょう?」 「…うん」 「もう一人で全部我慢しないで良いんだよ」 そうして優しく微笑んだそのの顔を見たのはいつぶりだろう。たまらなくなって、私はを抱きしめた。視界が涙で滲んで、私はぎゅっと目をつぶる。彼女は私の背中を撫でて、それからそっと口を開いたのだった。「だからね」 「、生きて」 (いちどは二人で泣けますように) chapter02 END return index chapter3 あけましておめでとうございます! ( まっくらな宇宙にはじき出された少女 // 150101 ) |