41_君にだけ赦されたくて


私はきっとこの世界で、にしたことを一生責められ続けるのだろう。今の私にはどういうわけか、自殺をする勇気など少しも残ってはいなかった。もちろん元の世界に戻る方法も未だ分かっているはずもなく、だからこの世界からすら逃げられない。
私は心の何処かで安心していたのだ。自分の世界から逃げ出せたことに。死んだはずの友人が生きてそこにいて、再び私の隣を歩いていることに。誰も過去の私を知らない。ならばもう一度全てをやり直せるのではないのかと、そんな風に考えていたのかもしれない。けれどそれは甘かったのだ。失ったものは戻らないし、生きることのできるレールは一つだけだ。やり直しは効かない。例え今の私のように二度目を得たとしてもそれは自分に用意されたものではないということを、私は分かっていなかった。だから切原君にも私がこの世界で、ただの一人きりであることを突きつけられてしまった。

に夢の話をされた祭りの日から、私は毎晩が死んで行くあの日の夢を見続けた。夢の中の私はいつだって彼女の落ちて行く姿を見つめているだけで、伸ばそうとする腕も言うことが効かない。まるで過去は変えられないのだと、今更取り繕おうとしても遅いのだと、そう言われているように。彼女は私の目の前で何度も落ちて行った。彼女の瞳はいつだって哀しみに溢れていた。

私はあの日以来、もちろんテニス部の人達に会うことなく、ゆずるともすっかり口を聞かなくなってしまって、部屋に閉じこもっていた。そんな私がふらりと家を出たのはそれから4日後のこと。理由は分からないけれど吸い寄せられるように、私は金井総合病院にやってきていた。の使っていた番号の病室をそろりと覗き込むと、そこには幸村先輩の姿はなく、人が使っている気配も最早ない程に片付けられていた。そう言えば桑原先輩が、幸村先輩は退院したのだと話をしていたことを思い出す。ならば気を使う必要もないだろう。今度は堂々と病室に入り込むと私はの落ちたその窓を開いた。吹き込んだ風に、あの日が還るような気がして、私の手が緊張で微かに震える。
見下ろせば、コンクリートに横たわって冷たくなった彼女が私を見上げているような気がして、私はどうにも下を覗き込むことだけはできなかった。

「君は、…さん?」

ふいに、聞きなれない声が私の名前を読んだ。心臓が大きく跳ねて、バッと後ろを振り返ると、病室の前の廊下には幸村先輩がいて、私と目が合うとふわりと笑顔が覗く。「やっぱりさんだ」と。私のことを覚えているらしい。彼は以前に会った時よりも幾分も柔らかく笑い、優しい雰囲気を纏っていた。入院していた時には気を病んで暗くなっていただけで、今のこれが本来の幸村先輩なのだということは、普段の彼を知らなくとも何となく分かる。制服を着て、恐らく部活のジャージが入っているだろう鞄を肩にかけているのでこれから部活へ行くところだろうか。
先輩は、まだ一度しか話したことのない人間が、自分の入院していた病室にいることをどう思っただろう。気味が悪いと思われたかもしれない。私は早々に立ち去るつもりで急ぎ足で廊下へ出て来ると、彼はこう言った。「誰かに用だった?」幸村先輩がそれをどう言う意味で言ったのかは分からない。私は質問に答えないまま、視線をうろうろと彷徨わせていた。

「…えっと、あの、退院、なされたんですね」
「ああ、少し前にね」

幸村先輩は退院したと言っても本調子に戻るまでしばらく病院に寄ってから部活に出ると言う生活を送っているそうだった。いきなり以前と同じように身体を激しく動かしてはいけないと言うことも、毎日のように注意されているらしい。全国が近いんだけどね、と苦笑した幸村先輩だったけれど、どこか戯けた風もあって、やはり退院できたのが嬉しい気持ちが強いのだろう。

「それで君はどうしたの?」

お祝いだけ告げて逃げ帰ってしまいたかったのだけれど、どうにもそうはいかないらしい。最悪だと私は心の中で呟いて、苦し紛れに「先輩のお見舞いに」と答えた。それにしては私が手ぶらであることを、幸村先輩は気づいただろう。しかしその嘘はそれ以上追求されることはなく、あっさりと流された。幸村先輩がわざわざありがとうと形だけのお礼を言って歩き出したので釣られて私も隣を歩く。2人して病院を出てから、私は別れを切り出せないまま、ずるずると先輩の後に続いた。しばらく私達の間は沈黙が埋めていた。

「君はさ」

幸村先輩がこちらに視線をやった。

「俺が嫌いかい?」
「…え」
「いや、違うな。俺が怖い?」
「…そんなことは」

言葉ではそう言ったが、幸村先輩の問うたことは間違いではない。それは幸村先輩がの立ち位置にいるということを抜きにしても言えることで、元々こういった読めない人は苦手であった。先輩の目が見れない。相変わらずうつむいたままでいると、先輩は前に向き直ったので、視線から外れたことに私はそっと息を吐く。

「君が以前真田達と一緒に俺のお見舞いにきてくれた時、君はどうしてあそこにいたの」
「…それは、私が皆さんに無理に頼んで」
「そう言う話じゃないよ」

あの日君は誰に会いに来たつもりだったの。
その台詞に私はつい足を止めた。幸村先輩はそれに気づいて数歩遅れて私を振り返る。彼は言った。「俺の中に誰かを見ていないかい」と。

「どうしてそんなこと」
さんは地に足が着いていないように見えるよ。とても不安定だ。君だけ皆と同じものを見ていないように見えたんだ。俺を見る君の目は俺ではなく別の誰かを写している」
「…」
「今日もきっとその子に会いに来たんじゃないのかな」
「…ごめんなさい」
「別に責めているわけじゃないんだ。そうなのかなと思っただけで」

風に煽られた髪を私は押さえつける。確かに先輩の声は責めているような調子ではなく、ただ聞きたかっただけだと言うようなものである。
私は幸村先輩の病室に、死んでしまった自分の友人が以前入院していたという話をした。半分は嘘で半分は本当の話。幸村先輩がその話を信じたかは分からないけれど、信じようが信じまいがどちらでも良い。何かが変わるわけでもない。

「未だに彼女を想って病院に来ているなんて、それ程大切な友達なんだね」

私はその言葉に頷いて良いのか分からなかった。は大切なと友人だった。けれど、今私の中にある感情は果たしてそれだけなのだろうか。本当に彼女のことが大切だから、彼女を想うのだろうか。もしかすればこの想いが純粋な友情のものではなく罪滅ぼしや許されたい気持ちが含まれているのかもしれないと思ったらどうにも頷くことはできなかった。

「ああ友達と言えば、さんは赤也と同じクラスなんだったね」
「え、あ、…はあ」

突然出されたその名前に私は思わず身構える。切原君との喧嘩のことは恐らく幸村先輩は知らないはずだろうに。
私は正直幸村先輩はもう少し寡黙な人物かと思っていた。だが、今日の彼を見ている限りではどうやらそうでもないらしい。まるで「私」を探られているような気になりながら質問に曖昧に頷く。

「仲が良いの?というか、良さそうだったよね」
「いえ、なんというか、その、」
「違うのかい?」
「…今は余計に、仲が良いとは言えない状況、で、」
「喧嘩でもしたんだ。じゃあ普段は仲が良いんだね」
「え…そういうわけじゃ、」
「だって喧嘩なんて仲が良いからするんだろう?」

違う。喧嘩などという話のレベルではないのだ。切原君はついに私に嫌気がさしたのだろう。きっと初めは友人として接してくれていたのだろけれど、私がこんな人間だから、見捨てられてしまったのだ。そうなって当然のことをした人間だと言えばそれまでだけれど、元々世界が違う人間なのだから、これが正解で、こうなって良かったのだとは、思う。

「きっともう仲良くなることはないと思うんです」
「へえ、どうしてそう思うの?」
「私と『皆』じゃ、本当は何もかも違うから」

どんな世界でも一際違うものは疎まれて淘汰される。しかし器だけは本物で、中身だけは偽物の私は違いはあれど完全にそうであるわけではない。だから淘汰もされずに、この世界を一人きりで生きて行かねばならないのだ。
私は別に辛くないと作り笑いを浮かべると、幸村先輩が小さく息をつく。

「一人一人が違うなんて、そんなことは当たり前だと思うよ。その規模は関係ない」

先輩がそう言ったけれど、私が頷くことはなかった。何も知らないからそう言えるのだと、言ってやりたかった。私だって切原君と以前のように戻れたらとは思うけれど、切原君の言ったことはこの世界にいる限り、…私が別の世界の人間である限りどこまでも付いて回るのだ。それに気づく度に私は一人で苛立って傷ついてしまう。この距離はどうあがいても埋まらない。

さん」

名前を呼ばれて顔を上げた私は、いつの間にか学校にまで歩いて来てしまったことに気づいた。すぐ近くにはテニスコートが見えて、ストロークの音がする。彼はわざと私をここへ連れて来たのだろうか、それとも単なる偶然か。どちらにせよ、今すぐこの場所から逃げ出したくなって、私はじりじりと後退する。しかしそれを阻むように幸村先輩が、私の腕を捕まえたのである。「一つ忠告しておくよ」と。先程までの柔らかい調子は消えて、彼の瞳は鋭さを孕む。

「すべてを自分のものさしだけで測るのは、とても恐ろしいことだよ」
「…へ」
「それは君の思う『違い』にも言えることだけど、もっと他のことにもね」

じゃあ、一体何を通して周りを見れば良いのだろう。
その時の私には、幸村先輩の言葉の意味も、意図も全く分からなかった。



(君にだけ赦されたくて)



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