39_ふたつの宇宙をかかえて |
ゆずるに連れられて小さな道を抜けると、そこは夏の賑わいを見せていた。ありがちな祭りの笛の音や太鼓の音が私の胸を揺さぶる。はて、祭りなんて何年ぶりだろうと周りの露店をぐるりと見回した。ゆずるに無理やり連れ出されなければ、きっとこういった催し物に来ることはもうなかったかもしれない。 数刻前、どうしても一緒に祭りに行って欲しいと彼にしては珍しい頼みをしたゆずるを私はぼんやりと思い出していた。土下座までして、祭りに行ってくれる彼女も友達もいないのかと思う前に、そもそも私は今祭りに行くような、そんな気分ではなかったので、断ろうとしたけれど、切原君との一件があって以来、部屋にこもりきりだった私を見兼ねたお母さんが、私を家から追い出すようにゆずるの肩を持ったのである。そういうわけで、私とゆずるはお母さんからの小銭を片手に夏の夜の中を繰り出して行ったのだった。 「それで?何か食べたいものとかあるの?」 「えっ」 「いや、だからいつまでも入口に立ってないで、移動しないかい」 「だ、だめ!」 周りの人の邪魔にならぬようにと、入口の端にある小さな時計塔の前に寄ると、ゆずるは頑なにそこから動こうとしなかった。それにしても、かれこれ10分はこうしているわけで、妙にそわそわとするゆずるを怪訝に思いながら私は置いて行くよと歩きだそうとする。しかし彼はそれを遮るがごとく前に立ちはだかるのだ。 「…何なの。お祭りに来たいんじゃなかったの?」 「…姉ちゃん、一歩でも歩くと爆発するよ」 「何が」 「お、俺が」 「良いよ。爆発できるならしてみな」 「うわあ人でなしだ」 「何でも良いけど、もう少しまともな嘘つきなよ」 罰が悪そうに地面へと視線を外したゆずるはどうにもここから動かぬ理由を口にするようには思えなくて、そのまま時計へと目をやる。まもなく19時を回るところだった。祭りは20時までというから、悠長にここで時間を潰している場合ではないと思うのだが。ゆずるの意図がつかめないまま、私は目の前にある屋台や人の群れを眺めていた。一歩前へ出れば自分だって人混みの一部だろうに、ここから見ればまるで他人事である。 「おじょーさん、こんばんは」 その声の主は、白と水色の涼しげな色のシャツのとてもそれらしい私服を身につけて私の前に現れた。まさかここに来てまでこの赤髪に会うとは思ってもいなかった私は、突然現れたその姿に開いた口が塞がらない。後ろにはと、桑原先輩もいて、すかさず丸井先輩の頭を掴みにかかっては見たものの、どうにも以前のように取れるそれではなくて、彼も渋い顔をしながら「心配しなくても仁王じゃねえよ」と乱暴な私の手を捕まえる。そんな事を言われても、どちらにしたって心配なものは変わらない。冷静さを取り戻してから、私はようやくゆずるの意図を理解して、彼をキッと睨んだ。タイミングよくここに丸井先輩が来たということは、つまり、そういう事なのだろう。切原君との事で、またもやお節介を食らうに違いない。それはおそらく丸井先輩の差し金なのだろうが、それにしたって腹立たしい。 「怒んなよ。俺がゆずるに無理言ったの」 「そんなことは分かってます」 「も連れて来たんだから文句言うなよな」 丸井先輩が顎でしゃくる先のへ、私は釣られて視線をやった。彼女は私を怒らせているのは自分だとでも言うように、申し訳なさそうな面持ちで、やけに小さくなっていた。生ぬるい夜風に吹かれて彼女のスカートがふわりと揺れる。丸井先輩も桑原先輩に関しても恐らくそうだけれど、『この』の私服は、見たことがない。自分のよく知るの姿が脳裏にちらついた。あのも、似たような服を持っていた。 丸井先輩と桑原先輩と、この妙な組み合わせの意味がわかってから、改めて3人をぐるりと見やると、丸井先輩は「赤也はいねえよ」と、その名をピンポイントに挙げたので、私の心臓がはねる。 途端にその場から逃げ出したくなって、踵を返そうとした時、出掛けに適当に肩に引っ掛けたショルダーバッグを掴まれて、後ろに引き戻されて、遠慮なしに締まった首を抑えた。 「今日は逃がさねえぞ」 「今日は?いつもそうじゃんすか」 それもそうか。彼が笑った。私は何も面白くない。この場ではゆずるだって丸井先輩の言いなりになるだろう。完全に先輩の手のひらの上と言う奴だ。観念して、ショルダーバッグを掴む手を払ってから、私は用件は何ですかと核心をつければ、丸井先輩は緊張感のない調子で、わたあめ食べたくってよ、とだけ言った。てっきり、あの日のことを問い詰められるのかと思いきや、予想していなかった台詞に、私は、えっ?と素っ頓狂な声を上げて、けれど「何、何かあんの?」そう聞かれてしまえば、まさかええありますともなんて、まるでこちらから気にしてくださいと頼むようなことを言えるわけもない。結局、今回はこの人のペースに巻き込まれるのだろうと、逃げられないことをしょうがなく思って、歩き出した先輩の背中を睨むだけだった。だからせめてもの反抗として、自然に歩幅を狭めながら自分の後ろを歩くとの距離を縮めて行く。 彼女は俯いて、どこか顔色が悪そうだ。私は声をかけようとして、しかしその前に、強く前へと腕を引かれてしまう。半ば転びそうになりながら、丸井先輩を見上げた。 「お前はまず丸井先輩の接待」 「なら何のために彼女を連れてきたんですか」 「まあまあ」 先輩はわたあめを二つ買って、一つを無理やり私に押し付けた。さらに袋に入ったそれまで買っているから、どこまで好きなんだろうと思う。ここまで振り回されれば、次第に自分の間違いをどう思われているだとか、もし切原君の事を聞かれた時にどうかわせば良いのかとか、そんな風に気構えているのが間違った事のように思えて、渡されたわたあめに大きな口を開けた。 「接待って、私、丸井先輩に奢るほどお金ないですけど」 「バーカ、俺がお前に奢らせたことあるかよ。ぜーんぶ奢ってやるってジャッカルが」 「ブン太聞こえてるぞ」 「ジョーダンだよ、なあ」 「どうでしょうね」 どちらにせよ、このわたあめは丸井先輩が買ったものだけれど。丸井先輩と桑原先輩のやりとりを眺めながら、私は口の中で溶けるざらりとした感触を舌で転がした。 わたあめはいつだって食べた気がしない。そのくせ、妙に喉は乾くもので、そこらで売っているペットボトルでも買ってこようかと、先輩達の輪を抜けようとした時、丸井先輩が私の隣に並んだ。「何、飲み物?」タイムリーに先輩は私にそんなことを尋ねて、すぐに私の手にはコーラの缶が置かれた。桑原先輩と話していると思いきや、いつの間に買ったのか。慌ててお金を渡そうと財布を取り出すと、先輩は「いいのいいの」と笑うだけで受け取ろうとはしなかった。 私には先輩がどうしてそうするのか、さっぱりわからなかった。そう、最近は特に、丸井先輩が分からない。 先輩との距離感が、分からないのだ。どうしてこの人は私と距離を置いたかと思えば、こんな風に互いの立ち位置が分からぬ程に近づくのだろう。距離を持て余すような、先輩の態度にくらくらと嫌な酔いが回るように、地に足がつかなくなる。 そもそも切原君との事のすぐ後で、これだ。きっと何か意味があって、やっているに違いないはずなのに、先輩は何も聞いてこない。 丸井先輩に関わるたびに、疑問は増えて、もどかしくなる。 「何で、って顔してるな」 後ろを一瞥した丸井先輩は、きっと桑原先輩達との距離を確認したのだと思う。少し離れた彼らには私達の声は聞こえない。「お前は顔に良く出るからすぐに分かるぜ」私と同じコーラの缶に口をつけて、それから余裕たっぷりな表情で笑って見せた。途端に、カッと顔に熱が集まる。 「…そういう丸井先輩大嫌いです」 「おーそうかい」 まるで気にも留めていない口ぶりだった。私の表情から心が読める丸井先輩にはきっと分かっているのだ。…私が嘘をついたことに。 道を進めば進む程に人の量は増えるばかりだった。先輩は私の腕を捕まえて、自分の方に寄せて歩いた。それすらその時ばかりは恥ずかしく思えて、けれど拒絶の声も出ることはなかった。 「俺さあ、多分の苦労なんて、お前からしたら1ミリも分かってないんだ」 突然降ったその言葉は、祭りの賑わいとは対照的に、やけに静かで、悲しそうなものだった。下手をしたら聞き逃してしまいそうな程だったはずなのに、私の耳にはしっかりと届いて、もしかしたら耳を塞いでいてもきちんと届いたのではないかと思ってしまう。先輩の言葉は魔法の言葉のように、私の頭の中を、考えていたあれこれを、全部全部持って行ってしまう。 「俺の想像もできないような辛いこと、あったんだろうなって、俺が分かるのはそんだけ。だからこそ知りたいって思うし、知って、助けてやりたいって思うよ」 「…そう、ですか」 「でもそれをお前が拒むなら俺はそうしない。お前が苦しんでたら、そばにはもちろんいてえけど、多分お前からしたら気休めの言葉しか吐かないんだ、俺」 それはすげえ辛いよ。 先輩の視線が私と絡まって、私は途端に息ができなくなってしまう。だって本当にそういう顔をするから、私の身体はもう誰のものでもないようにぴたりと強張って、丸井先輩に掴まれた腕だけがやけに熱くなっていた。 辛い、なんて、そんなもの、辛くないように好きなようにすれば良いのに。確かに私は踏み込まれるのは嫌だけれど、それは先輩が、自分が辛くなっても私に気を使って守るべきもの? 私の手に握られた未開封の缶は周りが結露してぽたぽたと地面にシミを作る。左手がすっかりびしょ濡れになって、代わりに口の中はからからに乾いていた。 「だって俺がお前の不可侵を破ったら、きっと、お前、俺の前からいなくなるだろ」 どきり、とした。伸ばされた先輩の手が、私の頬に触れる直前、私は腕を振りほどいて先輩から離れる。 何故かは分からないけれど、聞いてはいけない言葉を聞いてしまったような、そんな感覚。心臓の音が嫌に早い。私の中にある、核心をつかれたような、しかし丸井先輩が吐露したものに、何故私がそんな風に感じるのか。ああ、分からない、分からないのだ。どうして「同じだ」なんて、思ったのだろう。何が同じだったというのだろう。 丸井先輩は行き場のなくなった手を、バツが悪そうに戻した。私も視線を地面に落として、ようやく声を絞り出した。 「…すいません。私には、丸井先輩が何を言っているのか、さっぱり、です」 私の言葉は白々しかった。丸井先輩のまっすぐな言葉の何倍も。嫌になるくらい、私の言葉には何もない。 それからしばらくの間があった。俯いていた私には先輩の表情は分からないし、見ることは怖く思えて、そのまま待っていると「うん、そうだよな」と、いつもの調子が降った。 「俺なに言ってんだろ。今のは忘れてな」 この言葉の本質こそが、不可侵というやつだった。丸井先輩と私の中にある不可侵の境界。今ほどにくだらないと思ったことはない。線引きと言いながらもうすっかり境界なんて、あやふやで見えないのに。一気に現実に引き戻されたように、遠くに思えていた喧騒が私を包み始めた。桑原先輩達とはいつの間にかはぐれてしまったのか、後ろに姿を見ることはできない。 「あのさ、今から言うことも聞かなかったことにしてくれねえ?」 「…それ、どういう」 「赤也のこと、な」 ぎゅ、と、缶を握りしめる手に力がこもった。ああ、やっぱり来たなと、思う。丸井先輩は私にこの話をするタイミングを伺っていたのだろう。太鼓の音の方へと意識を飛ばしている振りをしながら、私ははあ、と曖昧に返事を寄越した。 「お節介かもしんねえけど。…お前言っただろい。釣り合ってない、住む世界が違うって。実際そうだとしてもさ、でも、だから何かあるのか?何か駄目なことって、あるのか?」 「想像以上にお節介な話ですね」 「間違ったことは言ってねえだろ。例えば住む世界が違う奴と仲良くしちゃいけないとか、大切に思っちゃいけないとか、どうして駄目なんだよ」 「やめてください」 「そんな事誰も決めてねえだろ」 「やめてってば!」 つい、私は持っていた缶を先輩へと投げつけた。周りの人達がざわめく。そんなことを気にしている余裕などないけれど、祭りの賑やかさを白けさせるには十分のやり取りに、体裁の悪さも覚えながら、誰に何を言われようとやはり家にいた方が百倍良かったと後悔する。先輩は落ちて土が張り付いたそれを拾い上げて、ごめんと、小さく言った。 「貴方は矛盾してます」 「…かもな」 「丸井先輩はずるいです」 「ああ、」 土まみれとは言え、まだ口の空いていない缶をらしくなく近くのゴミ箱へと投げ入れると、私を振り返った。 「俺はずるいよ」 そう言った丸井先輩は、やっぱり悲しそうな顔をしていて、だけど私には、なんで貴方の方がそんな顔をするのだと、どうしようもなく彼を責めてしまいたくなった。 (ふたつの宇宙をかかえて) return index next ( まっくらな宇宙にはじき出された少女 // 141206 ) |