38_遠さがただの距離ならよかった |
夏休みの学校はとても静かだ。廊下にはぎらぎらとした太陽の光が差し込んで、開いた窓からは生ぬるい風と蝉の鳴き声が流れ込む。普段ならばそれすらかき消すような生徒達の賑わいがそこにはあるけれど、いざそれがなくなってみれば、学校は一気にそれらしさを失った。 廊下には私の足音一つ分で、きゅうきゅうと上履きを唸らせながら、先程メールで呼び出された図書室を目指す。そもそも普段から図書室を利用しない私が、まさか長期休みにここへ来ることになろうとは思いもしないわけで。額に滲んだ汗を拭って、私はたどり着いた図書室の扉へ手を伸ばしたが、しかしそれよりも先に、それは勝手にがらがらと開き、そして目の前には切原君がいた。 そう、私を呼び出したのは彼だった。 「遅い」 「そんなこと言われても、約束の時間には間に合ってるよ」 「一番初めに約束した時間には間に合ってない」 「私帰ろうかな」 「それは駄目」 「…」 彼の話によれば、本日の部活は午前練習のみだそうで、切原君は真田先輩の言いつけで、この時間を利用して夏休みの宿題を片付けると、そういうことらしかった。私をここに呼び出したのはもちろん手伝い以外の何者でもなく、つい数刻前、家にいた私へ『お前暇だろ?13時に学校の図書室な』とメールを寄越したのである。ちなみに当時の時刻が12時半を過ぎた所で、確かに私は暇を持て余していたので、見返りがあるならば彼の手伝いくらいしてやろうくらいの気はあったけれど、この時刻ではいくらなんでも無茶であろう。だから私はさらに1時間遅らせる交渉をしたのであった。 逃がすまいと私の腕を掴んだ切原君の手は日焼けをしてほんの少しだけ黒い。練習はとっくに終わっているそうで、すっかり制服に着替えていた彼はだらしなくワイシャツのボタンをいくつかあけて、それから腕まくりをしていた。普段しっかりとみる事がない腕の逞しさにうわあ、切原君も何だか男の子みたいだなあとトンチンカンな感想を抱きつつ、私も図書室に足を踏み入れた。そこはきっと、この学校のどこよりもあからさまに静けさを放ったような場所で、確かに勉強にはもってこいだとは思うけれど、少し、そわそわと落ち着かなさもある。 机の上に広げられている彼のテキストやプリントを見る限りでは宿題はあまり捗ってはいないようだ。これならば私よりも真田先輩の方がきりきり進むんじゃないかなあと思うが、彼がそうしないのは分かり切っていたので口をつぐんだ。 「おーす、って、何だよもいんじゃん」 私が切原君の向かいに座るや否やの事だ。図書室の扉が勢いよく開いて、そこには丸井先輩と桑原先輩と仁王先輩と、それから柳先輩というあまり見ない組み合わせの面子が現れた。彼らもまた、制服に着替え終わって、柳先輩に関してはぴっちりと制服を着こなしているにも関わらず誰よりも涼しげだ。 丸井先輩や仁王先輩は単なる冷やかしだろうが、後の二人は頼りになりそうなので、自分の宿題も進めることができそうだ。 「呼び出されたんだろい?お前も赤也には甘いねえ」 丸井先輩は私の隣を二つ開けたそこに腰を下ろして、その不自然に開いたそこへ当然の流れのごとく桑原先輩が座る。 「嫌なことはしないって言っても、まあ、…俺といるのが既に嫌なんだろうけど、極力配慮します、っつうか、」 先日の丸井先輩の台詞が頭を過って、ああ、きっとこの人はそれを気にしているのだなと、思った。自分がそうなることを望んだはずなのに、ずきりと胸が痛んで、先輩から視線を逸らす。 「…私も、あまり宿題は捗っていなかったので丁度いいかなって、」 果たして丸井先輩に聞こえたのか聞こえなかったのか、それ程の声量でぼそぼそと言葉を零した。丸井先輩の向かいに座っていた仁王先輩が私をじっと見つめていて、なんだか居心地の悪さを覚える。この人は時折、こうして私を観察するような目つきになるのだった。 来たばかりだけれど、正直今すぐに帰りたい気持ちが私を揺さぶり始めた頃、不意に桑原先輩が口を開いた。 「ああ、そういや、ゆずるの誕生日はうまく行ったのか」 「あ、それ俺も気になってたんだよ。俺のサイン喜んでただろ」 「私はあんまり嬉しくなかったけどね」 「だーからお前じゃねえよ!」 そう、数日前、予告していた通り、ゆずるの誕生日会が行われた。とは言え、きちんとした会は、昼間に自分の友人とやってきたらしく、夜に行った私達とのそれは家族でケーキを食べるだけのささやかなものだけれど。 ちなみに、ゆずるのプレゼントへの反応は凄まじかった。泣いて喜び私に土下座を繰り返す程だったのである。まあ、確かにあんなシャツを持っているのはきっと後にも先にも彼だけだろう。シャツは彼の部屋に観賞用として飾られていた。 「先輩方、本当にありがとうございました」 「俺は」 「切原君は宿題やりなよ」 「おま、」 「の言う通りだ。赤也、進めなければ弦一郎が来るぞ」 「あーもうやりますやりますって!」 いくら生意気な切原君でも真田先輩には形無しである。それからは切原君は頭を捻らせながらスローペースで宿題を消化し始めた。丸井先輩や桑原先輩や、仁王先輩はやっぱり楽しげに会話を始めて、桑原先輩は時折私を気にかけて宿題を見てくれるから良いものの、赤いのと白いのは正直もう帰れば良いのにと思う。 柳先輩も切原君の宿題を見てやりながら読書を始め、しばらくするともう1冊目を読み終えそうなところだった。流石柳先輩である。 切原君は数学に手をつけ始めていて、私はそれはご存知の通りゆずるの誕生日の買い物をした日に殆ど終わらせてあったので、国語へと手を進めていた。 そこまで来ると何がそんなに楽しいのか、丸井先輩達の会話が盛り上がり始めて、逆に私の勉強へのボルテージが下がり出す。「…あの、桑原先輩」出て行くか黙るようにと丸井先輩へ文句を言ってもらえないかと彼に声をかければ、彼はどうやら質問と勘違いをしたらしい。 「え?あ、わりい、俺国語はちょっと苦手なんだ」 国語ならブン太の方が得意だぞと、彼は丸井先輩を呼んだ。確かに桑原先輩はハーフだからそれは仕方が無いと思うが、いや違う、私が言いたいことはそういうことではないのだ。 丸井先輩は私と目が合うと笑って、なになにと桑原先輩を無理やりどけて私の隣にやって来た。桑原先輩は「お前だってに甘いよな」と苦笑しながら、はじに座り直す。 「何、どれが分かんねえの」 「あの、丸井先輩だと不安しかないというか、得意科目をお聞きしても」 「え、国語だけど」 「…へえ」 「うわあすごく信じてない目だな」 まあまあ俺に任せろいと彼はどーんと胸を叩いたわけだが、実際には質問などないわけで。だから私は丸井先輩を押し返した。 「生憎私も国語は苦手ではないので結構です」 「じゃあ何で呼んだんだよ」 「別に私は呼んだつもりはないですけどね」 「俺のこと見てたじゃん」 「見てねーよ」 ね、切原君、と向かいへ顔を向けると、彼は「知らねえよ」とやけにつっけんどんに言って、あれまた機嫌わりいじゃん切原君、と私は肩を竦める。こういうのは全て丸井先輩がいけないのである。さっさとお引き取り願いたい。さっきまできちんと距離を置いていたじゃないか。 しかし先輩はそんな私の気も知らずにテキストを覗き込んで、丸井先輩のあの甘ったるいガムの匂いが鼻をかすめた。途端に身体が強張る。 そうしているうちに、彼は問題の一つを指でとんとんと叩いた。 「つうかお前ここ間違えてるけど」 「えっ」 「これ形容動詞じゃなくて連体詞」 「いやいや形容動詞ですよ」 「いやいやいや」 「…」 「…」 「あの、柳先輩」 「お前そこまで俺のこと信用できないの」 困った時の柳先輩である。 本を閉じた柳先輩が私のテキストを覗き込めば、彼は、ブン太の言う通りだな、と連体詞を推した。まじかよ。「ほらなー」と先輩はどこか嬉しげだ。 「こんな奇跡もう二度とないですよ丸井先輩。運を使い果たして明日には死にますね」 「まじかよ」 「ていうかそもそも、私は丸井先輩と仁王先輩がうるさくて声を掛けたんですけど」 「えっ」 「集中できないんで喋るなら出てってくださいうざいです」 見ていたのだって、うるさいなあと、そういう意味で見ていたのだ。自意識過剰にもほどがある。丸井先輩が少しだけいじけて元の席へと戻って行った時だ。突然切原君が立ち上がって、ちょっと気分転換してきますなんて、乱暴に言い放った。先程からあまり機嫌が良くなさそうだけれど、静かに勉強をしていた切原君からしたら、私もうるさかったのかもしれない。釣られて立ち上がった私は、自分も外の空気吸ってきますと出て行こうとする切原君を追った。切原君はあからさまに嫌そうな顔をして、そうだからか、私を含め先輩達も彼に何か言うことはなかった。 「何でついて来るんだよ」 図書室を出るなり、切原君は私を睨む。彼の隣に並ぼうとのばしかけた足を、私は引っこめて、ええと、と言葉を探し始めた。 「…切原君は何で怒ってるの」 「別に」 「…あー、…えっと、ごめん、私うるさかった?」 「うるさかったっつうか、まあ、うるさかったけどさ」 「…」 切原君は深く息をついて、あのさあと、私を見た。「お前見てるとイライラすんだよな」切原君の言葉はいつだって少し厳しいものだったり、冷たかったりしたけれど、こんな風に、はっきりと傷つけるための言葉を言われたことはなかったように思う。私はそうですか、と頷く以外の術を知らぬまま、彼を見つめ返す。 「ってさ、丸井先輩のこと嫌ってますって風に装ってるけど、それ、見ててすげー痛々しいぜお前」 「…はあ…?」 「本当は嬉しい癖に、なんだかなあ、女って皆そうなんかねえ。ちょっと優しくされただけで勘違いしちゃうっつうの?」 『装ってる』?『勘違い』?いったい何の話?切原君がどうして今、こんな話をし始めたのか分からないし、どこからそういう結論に至ったのかも分からない。蝉の声がやけにやかましく聞こえて、それが暑さと相まって私を、そしてきっと切原君も余計に苛立たせている。 切原君こそ何か勘違いしていやしないだろうか。言ってる意味が全然理解できない。 「お前が丸井先輩に中途半端な態度とってるから何かすんげームカついて」 「だから?そうだとして、切原君に、何か関係ある?」 「っ調子乗ってんじゃねえよって言ってんの」 「調子になんて乗ってませんけど」 「丸井先輩に好かれてるとか勘違いしちゃってんじゃねえの?」 丸井先輩に好かれている?そんなことを勘違いするはずもない。何故なら本人から、私は好きでも嫌いでもない、右手のような奴だと、そう言われたのだから。確かに話す程度には好きという感情は、丸井先輩の中に持ち合わせているのかもしれない。しかし、丸井先輩は、私のことを他の人と同じ土俵の上では見ていないのだ。それはきっと、あまり良くない方の意味で。『私が誰』なのか、恐らく理解している丸井先輩だからこそ、だ。私はごくありふれた感情を持っても、持たれてもいけない存在だから。 「どちらにせよ、残念だけど、私の態度を見てれば、少なからず私は丸井先輩のこと、好きじゃないなって分からないかな。演技に見える?」 「見える。丸井先輩もいつまでこいつに構ってあげてんのかねえ」 分かっている。そんなことは分かっている。それなのに、彼の口から零れる言葉を聞くたびにじわじわと広がる、この遣る瀬無さはなんだろう。 過去に何があった所で私と丸井がどうにかなるわけではないのだ。ただ昔の知り合いだとか、ちょっとした秘密の共有をしているだけ。それもただ人魚だなんだと、それだけの小さなもの。 特別仲良くなったわけでもないし、はたから見ればただの先輩と後輩でしかないのだ。 「うざいうざいって、丸井先輩に言ってるけど、今日わかったわ。お前の方がよっぽどうざい」 「…」 「お前の事なんか、誰も好きじゃねえよ」 といたくねえから俺は図書室戻るわ、と彼は私の横を抜けて中へと戻って行った。私を取り残して閉まる扉の向こうから微かに先輩達の声が聞こえる。恐らく私と出て行ったのに私がいないとか、戻りがやけに早いとか、そんなところだろう。 切原君に言われた言葉を頭で繰り返して行くうちに、私はぐらぐらと頭が沸騰するような怒りに駆られて、勢いに任せて扉を開いた。「はあ、なんでお前も戻ってくるんだよ」まさに彼の目がそう言っていた。しかし私はそんなことはお構いなしに彼に詰め寄ると、席につこうとしていた切原君の胸ぐらを掴み上げる。そうして彼の頬を力いっぱい殴りつけた。腕の痛みは「あの時」と同じだったけれど、突き刺さった言葉の痛みは、今の方がはるかに大きかった。先輩達がざわついたけれど今はそんな事に構っている程、私には心の余裕はなくて、ふらつく切原君を、近くの本棚へと押し付けた。 「分かってるよ」 「…なにが、」 「私が寂しい人間なのも、住む世界が違う事も、釣り合ってないのも、誰からも本当に好かれてないことも、全部全部、分かってる!」 「…、」 「そんなことは私が一番、誰よりも分かってる!」 「…」 「だけど、何もかもうまく行って、毎日楽しそうで?…お前に私の何が分かるっていうの!?知った風な口をきかないで!」 「落ち着きんさい、」 「触らないで!」 「浅倉」 「…」 近くにいた仁王先輩が私の両腕を抑えて、切原君から引き離した。一歩だけ切原君から後ろへ退くと、私はうつむいたまま、口を開く。 「お前が簡単に口にできる程、私の足枷は軽くない」 仁王先輩の私の腕を掴む力は存外緩いもので、私はそれを振り払ってしまうと、鞄を掴んで図書室を飛び出した。 苛立ちはまだ、私の胸の中で大きな渦を巻いているけれど、頭はやけに冴えていて、切原君への苛立ちよりも、すぐに、ああ切原君を殴ってしまったと、そんな後悔ばかりが浮かんでは消えた。切原君の言葉は、全くの正論だったのだ。彼に言ったとおり、私は全てを理解していた。そのはずなのに。 なんで、涙が出て来るのだろう。 そのまま私はしばらく走り続けていると、突然前に現れた誰かに強くぶつかって、後ろに倒れた。しまったと、慌てて涙を拭って顔を上げると、そこにいたのは真田先輩であった。大丈夫かと、彼は私に手を差し伸べる。彼の瞳は、幾分か動揺しているように見えて、恐らくそれは私が泣いていたからだろう。真田先輩とは、こういう風に突然居合わせることが多い。 「…怪我がなのならいいが、廊下は走るな」 「す、すいません、気をつけます」 「…それから、こすると赤くなってしまう」 彼はハンカチを差し出して「何かあったのか」と、少しだけ遠慮がちに声をかけた。私はそれをやんわりと断って、大したことじゃないんですと笑った。 「ただちょっと、その、…友人、と喧嘩を」 「赤也か」 「…」 真田先輩は切原君に関しては誰よりも鋭いですねと、私は無理におどけて笑った。彼は黙って私を見つめるだけだった。このままだと、まるで切原君が悪者のようになってしまうのではないかと、私は「切原君は悪くないんですけどね、」と慌てて付け加えた。 「…ただ、切原君が正しかったのに、認めたくなくて、」 だからもう、きっと口を聞いてもらえないだろう。もう、友達だとは、言ってもらえないだろう。だって彼は言ったのだ。「お前のことなんて誰も好きじゃない」と。 「喧嘩ごときで崩れる友情など、本当の友情ではない」 「…そうですね」 「俺にはお前達の仲はそんな風には見えなかったぞ」 いいや、違う。きっと、私がこっそりと信じていた友情は、もともと本物ではなかったのだ。そもそもこの世界で、そんなものを作れると思っていたことが間違いだ。 住む世界が違う私には、ここで本当のものなど何一つ手に入らない。 失った友人も、この居場所も、友情も、全部、本当ならば私のものではない。私に用意されたものではないのだ。 真田先輩の言葉だって、丸井先輩が今までくれた言葉だって。 「もう大丈夫です、すいませんでした」 「待て、」 真田先輩の制止は聞かなかった。捕まる前にと、私はやっぱり走り出して、けれど、もう真田先輩からの注意の声が飛ぶことはなかった。 そうしてすっかり真田先輩が見えなくなってから、私は走るのをやめて、重い足取りのまま、昇降口へと向かう。廊下に響く足音は、初めと同じく、一つ分で、静かな廊下に響くそれは私をやけに寂しくさせた。 それはこの世界に来たばかりの、あの時とまったく同じ感覚だった。ああ、何を勘違いしていたのだろう。仲良くなった気でいたのかもしれない。溶け込めたと自惚れていたのかもしてない。 私は、初めから、――この世界に来る前から、そしてその後も、どこからも拒絶されて、ただの一人ぼっちだったのに。 そう、 まるで宇宙にはじき出されてしまったみたいだ。 誰かといても 心はずっと、ひとり。 (遠さがただの距離ならよかった) return index next ( まっくらな宇宙にはじき出された少女 // 141125 ) |