37_君がただ一つ諦めたもの


ゆげと、スープの香ばしい匂い、それからお客さんや先輩達の賑やかな声。その中でも一際丸井先輩のものだけが、はっきりと私に届く。初めからそうだったけれど、彼が私に対して怒っている風は全くない。いつもの丸井先輩で、けらけらと笑いながら仁王先輩や柳生先輩と話している。そんな私を拒絶しないこの空間に、ずっとずっと、後ろめたさを感じている。だから私はそれらから隠れるように、ひっそりと俯いていた。



桑原先輩の声が頭上から降って、そこでようやく私の顔が上がる。ラーメン屋の真っ白な制服を身に纏う先輩は、あまりそれらしくは見えない。私は努めていつも通りを装ったが、先輩の眉尻は下がりっぱなしだ。先輩は私が丸井先輩に無理やり連れて来られたと思ったらしく(あながち間違いではないが)カウンター越しに悪いな、付き合わせちまって、と何故か丸井先輩よりも当事者らしく目を伏せた。別に、それに関しては、もう何も思っていないのに。
桑原先輩は、恐らくお父さんであろう人から器を受け取ると、それを私の前に置いた。目の前に伸びた桑原先輩のラーメン屋の制服がまたまだ新しくてやけに眩しく見える。

「ほらこれ味噌ラーメンな、お代はいらねえから」
「え、…いや、…悪いですよ」
「良いんだ。代わりにブン太のこと、あまり悪く思わないでやってくれよ」

あいつもあいつなりに、結構色々考えてやってる奴だから。
丸井先輩には聞こえないように、先輩が口元に手を当ててこそりと囁いた。丸井先輩は馬鹿みたいにお人好しな所があるけれど、そうだからか、色んな人に大切に思われているのだなあと、少し羨ましく思う。私はどうにも頷けないまま、それは、分かってますので、まあ、とどちらともつかない返事をした。先輩がそれをどう捉えたかは知らないが、小さく笑うとラーメンのどんぶりを残して、鍋がたくさん並ぶ奥の方へと引っ込んでいった。

「ひでー顔」

その声は突然だった。割り箸がぱきりとおかしな風に割れて、それにかぶさるように切原君言葉が割り込んだ。新しく箸をだすのももったいないように思われて、私はそれをスープの中へとつけると、改めて切原君へと視線を移す。「ほんと、ひでー顔」言葉が繰り返される。「ジャッカル先輩にも迷惑かけてるし」頬杖をつく彼はいつにも増して攻撃的だ。
その奥の仁王先輩達は、すっかり3年のおしゃべりというやつに花を咲かせて、こちらに気づく様子もない。

「どーせまた丸井先輩と何かあったんだろ」
「またって、何」
「だってまただろ」

確かに何かあるときはいつも丸井先輩絡みだったような気はするし、その度に切原君にそう言われていた覚えがある。しかし彼にこのやましさを話す気はないし、そもそもどう説明して良いかも分からないので、作り笑いを浮かべるだけにすると、彼の掌が額を弾いた。「やめろ」切原君から、初めてそんな言葉を聞いた。彼の視線は私へ向き合うのも嫌そうにポケットから取り出した携帯へ落とされた。

「手洗いはあっちだから、その顔、何とかして来いよ」

切原君の気分まで、害してしまったと思うと、余計に気分が重くなる。「そんなに酷いかな」「うん酷い」切原君はこちらを見るまでもなく言葉を返すのだ。私はもう、どうして良いか分からない。素直に鏡を見て来た所で、ハイなおりました、で済まないことは切原君だって分かっているはずなのに。まるでさっさと隣からいなくなれとでも言うようだ。だから逆に動き出せなくなって、ラーメンにすら手が出せなくなって、かちんと固まっていると、「あああだからお前さっさと鏡見て来いよ!」切原君が痺れを切らした。

「い、いやだよ」
「なんで」
「切原君怒ってるじゃんか」
「ねーよ!だから行けよ!」
「怒ってる」

頑なに動かないことを示すと、彼はすごく無理ににこりと笑って見せて「怒ってねえよ」と言った。うわあ、怒ってるね!と思ったけれど、せっかく切原君がこちらに向いたから私も笑顔を作って「まだ酷いかな」と尋ねると頭を引っ叩かれた。
「もう何したって酷いからお前」かちんと、今度は動けなくなるのとはまた別の意味のそれが、私の頭のスイッチを弾いたようだった。

「酷い酷いって、さっきの切原君の顔も相当ありえなかったけどね、あと頭もね」
「お前そろそろマジで怒るぞ」
「最初から怒ってんじゃんかマジ意味わからいだだだだだ!」

伸びた切原君の両手が私の頬をがっちり掴むとつねり上げたので、なんだこれはすごいデジャヴだなと思いながら私も切原君の頭に手を伸ばして、もう完全に取っ組み合い始まりますみたいな流れになった。そんなとき、先輩達は何だ何だとこちらに注目し始めるわけで。収集がつかないなと心の片隅で思ったのだけれど、だんだんとヒートアップする私達の喧嘩も、そこまでくれば、最後には真田先輩の「何をしている!」そんな声が入れば万事解決である。
真田先輩の前に立たされた私達は、なんだか晒し者の気分だ。

「先に手を出したのはどっちだ」
「切原君です」
「あ、てめ!」
「でも本当じゃないか」
「…」

私は間違ったことを言っていないし、切原君が黙り込んでしまうと、それは肯定となる。真田先輩の息を吸う音。「っこの、大馬鹿者が!!」私もその声にしっかり心臓をどぎまぎさせた。真田先輩の説教は長い。女子に手を上げたらうんたらかんたら、いつだって切原君と喧嘩したときはこんな風に世間の常識と言う奴を叩き込まれるのである。もちろん切原君だけでなく私も叱られた。正当防衛ですとは、どうにも押し切れる空気ではなかった。
それからすっかり空気がしんみりだかどんよりだか、とりあえずそういう空気になったのだけど、真田先輩に怒られてすっかり拗ねていた切原君が「ようやくマシな顔したな」と私の足を軽く蹴ったので、今回だけはやり返すのを我慢することにした。





「ところで、せっかくだからウェアのサイン貰っとけよー」

少し気まずくなっていたこの空気を切り替えるには、それはある意味絶好のタイミングだった。丸井先輩の能天気な声色から、それを果たして意図していたのか、それとも単なる偶然か分からないけれど。
サインて?と切原君。私は事情を説明すると、鞄からマジックを取り出した。それならばご協力いたしますね、と柳生先輩が微笑んだ。相変わらず素敵である。

「あ、切原君は書かなくて良いです」
「何でだよ」
「同い年のサインとかあんまりいらないかなって」
「それ弟にあげるやつだろ」
「あ、はスペース取ってあるから、ここにお願いします」
「えっ私も良いの」
俺すごく納得いかねえんだけど

切原君のサインは書きたいなら勝手にどうぞという感じだった。彼の字の汚さは隣の席の私がよく知っている。
ちなみに、一番始めにペンを渡した真田先輩は、書く物を渡したにも関わらず、何処から取り出したのか筆ペンのようなもので真剣な面持ちに切り替わったので少々面食らった。隣にいた柳先輩に書道が好きだからなと、解説を頂く。なるほど、丸井先輩よりも幾分も期待ができそうだ、ダビンチみたいな。「ダビンチは書道家ではないがな」そうでしたね。
真田先輩は、本物の筆でないとなかなかうまくいかない物だが、弘法筆を選ばずと言うしやはり俺もまだまだだうんたら、またもや長い話が始まりそうだったので相槌を打ちながら近くにいた仁王先輩へと回した。

「仁王先輩、本名でお願いしますね」
「なんじゃ突然」
「いや先輩ならいきなりジャクソンとか書き出しそうなので。ジャクソン誰ですか」
「俺が聞きたい」

そんな風にしながら、私は次々とウェアとペンを先輩に回していった。丸井先輩が、ふいにその様子を覗き込んで、小さく笑う。

「…丸井先輩?」
「いや、真ん中だけは、残しといてな」

真ん中?と首を傾げる。流石にいきなり真ん中を陣取るような人はまだおらず、端ばかりが埋まって、真ん中がぽっかりと空いてはいる。

「幸村君が帰ってきたら、そこに幸村君の字も入るから」


丸井先輩は幸村先輩が戻ってくる事を信じているようだった。そんな先輩の横顔を見ていたら、幸村先輩が、と同じ運命を辿るかもしれない事が急に現実味を帯びたように感じられた。そうか、幸村先輩が死んでしまったら、丸井先輩のこんな笑顔は、きっともう見れないのかもしれないな。

「ゆずるにも、そう言っといてくれ」


私は何も言えなかった。


(君がただ一つ諦めたもの)



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( まっくらな宇宙にはじき出された少女 // 141109 )