36_棘を残して散ってゆく


丸井先輩の字は、ちょっと不恰好で気合いを入れすぎたのかなんなのか、やけに右上に向かって傾いていた。私だって人に自慢できるような字は書けないけれど、それにしたって先輩の字はあまり上手いとは言えない。ゆずるに、と先程買った彼に似合いそうなシンプルなブルーのスポーツウェアの下の方に、丸井先輩の字がでかでかとのっかって、早速台無しだなと私は心の中で独りごちた。そう、私は飾られていたサイン入りTシャツを見て、ゆずるの誕生日はこれを真似をして丸井先輩達に名前を書いてもらおうと考えたのだ。ゆずるは異様にレギュラーの人を崇拝しているし、私もそんな頼みを聞いてもらえるくらいには、きっとレギュラーの人とは顔見知りだから、ちょうど良いと思ったのである。
私と丸井先輩がデパートを出る頃には、日がなんとなく暮れかけていて、沈む夕焼けがやけに眩しかった。そんな光に照らされながら、私の提案に乗っかった丸井先輩が例のがたがたの字をマジックで書いたのである。
先輩はどう?結構良くね、なんて言い出しそうな勢いでこちらを見たので、私は努めて優しい声を出した。気を遣ったつもりだった。

「こういう時はお世辞を言った方が良いですか?」
「うーん、そう聞いちゃうくらいなら何も言わずに黙っててくれた方が良かったと俺は思う」

つまり私の気遣いは無駄でしたよと、そういう事らしかった。だったら初めから素直に下手だなあと貶していた方が丸井先輩のためになっていたのだなと私はTシャツを持ち上げる。

「バランス悪いし、傾いちゃってますし」
「ちょっと待って何か駄目出しが始まったんだけど」
「せっかくのプレゼントだし、書道家かよーみたいな字を期待してました。なんかこう、ダビンチみたいな」
「ダビンチ書道家じゃねえけどな」

いちいちうるさいなあと思いながら、もう書いてしまった物は仕方がないので、丁寧に畳むと時刻を確認する。長い針と短い針はすっかり縦に一直線に並んでいて、なんだかんだで一時間は丸井先輩と過ごしていたことを意味している。色々と文句はあったが、先輩も部活帰りで疲れているだろうに、こんな時間まで付き合わせて申し訳なかったという感情は、流石の私にも少しはあった。私は「ありがとうございました」と突然切り出すと、丸井先輩は笑った。

「何かお礼、します」
「えっ、マジで?」
「えっ」
「えっ?」
「私的には丸井先輩がお礼を遠慮して、私がじゃあいいですって引き下がる算段だったんですけど」
「お前ね、いつも思うんだけど、そういう打算的なのすげー良くないよ」
「冗談ですよ」
「冗談かよ」

ウェアは予算が余る値段で購入出来たので、何か奢ることもできる。ジュースでも買って来ましょうかと道の向こうの自販機を指差すと、先輩が首を振った。「いや、奢らなくて良い」まさか丸井先輩からそんな台詞が出るとは思わず、パードゥン?とか言い出したくなる。
じゃあ本当にお礼をしないまま家に帰っても構わないのだろうか。丸井先輩の出方を伺っていると、先輩はお得意のガムをぷくりと膨らましてそれから私の腕を掴んだ。

「奢らない代わりに、夕飯付き合えよ」

どき、とした。相変わらず、嫌な方のやつだ。とても自然に腕か引かれて、足が遅れてついていく。引かれた腕を振り払えない。
駅前は丸井先輩に出会う一時間前よりも、今度は会社帰りのくたびれた大人達が加わって、余計に混み合って見えた。私達はその波にすっかり乗って、どこかに向かって歩き出していた。私は丸井先輩の名前を何度も呼んで、ようやくこちらに振り返る先輩の顔。

「あのっ、夕飯とか、は、」
「嫌とか言わせませんけど」
「…」
「金は心配しなくてノープロだぜ」

一瞬だけ、丸井先輩の言葉にトゲを感じた。有無を言わせぬ物腰である。お金の事なんて、私が気にしていないことくらい丸井先輩も分かっているはずだ。このままではまた先輩のペースに引きずりこまれてしまう。

「丸井先輩は、私の嫌なことはしないって、言いました」
「確かに言った」
「だったら、」
「そういう文句はさ、お前が俺に同じことできるようになってから言えよ」

先輩の言葉は正論だった。私は何かを履き違えていたのかもしれない。私はこの世界の人間じゃなくて、他の人が理解し得ぬものを確かに背負っている。だから自分は特別だと錯覚していた。だけど、そんな事情、この世界の人には関係のない話で、私の事情など届かぬ全く違う軸で生きている。だから私の都合を押し付けるのは間違っているのだ。
私が特別だから、丸井先輩の前に線引きをするのが許されて、私が丸井先輩を寄せ付けないために傷つく言葉を吐いて踏み込んで行くことが許されるわけではない。
でも、ならば、そもそも、先輩に一切関わらなければ良い話で、だから私は初めから丸井先輩を避けていたということもある。私だけが悪いわけじゃ、ない。自分がたくさん悪いのは分かっているけど、きっとこれからだって、私は変わらない。
それでもそう切り返すことができなくて、私は俯いて、すいません、と、抵抗する腕の力を緩めた。しばらくの間、先輩の息を吐く音が聞こえた。

「…、ごめん、今のはなし」
「…」
「俺はお前に嫌なことしないよ」

私が顔を上げれば、まるで視線が重なることを避けるように、丸井先輩の顔が前に向き直った。私の腕が解放される。

「嫌なことはしないって言っても、まあ、…俺といるのが既に嫌なんだろうけど、極力配慮します、っつうか、…あー、ついてくりゃ分かるから」

歯切れの悪い言葉がぼろぼろと先輩の口からこぼれる。多分、腕が離されたということは、ここからは私の意思に委ねるのだろう。しかし、こんな風になってまで、じゃあ帰りますなんていう神経は持ち合わせておらず、黙って先輩の後について行くことにした。そうして重たい空気のまま、約10分。先輩の足が止まった場所で、顔を上げると、かすかにラーメンの匂いと、それから目の前の真っ赤な暖簾には見覚えのある「桑原」の文字。

「くわはら、らーめん…」
「ここ、ジャッカルの家なんだよ」

お金の心配はいらないとか、極力配慮するという意味が分かった気がした。先輩が横びらきの磨りガラスの扉を開くと、ほわっと白い湯気と、麺の茹で上がる匂い。いらっしゃい、とおじさんの声がして、それから続いて「あ、ブン太」と桑原先輩の声がした。てっきり私は、丸井先輩は桑原先輩がいるから自分と2人じゃないよと、そういうことが言いたかったのだと思っていた。…扉を開ける前までは。「本当だ、丸井先輩も来た」加えて切原君の声。それだけじゃない、カウンターに切原君と仁王先輩と柳生先輩が並んで、四人がけのテーブルに柳先輩と真田先輩とがいる。

「シャツ買っても、肝心のサインを『テニス部にいるゆずる』にバレずに集めるの、大変だろい」

頭をぽんと叩いて、先輩は腹減ったあと中へ入って行く。入り口にぽつんと立ち尽くした私は、そこまで先輩に気をつかわせていたのだと、自分のあまりの浅はかさに、逃げ出したくなってしまった。謝らないと、私は無性にそんな衝動に駆られたのだけれど、言葉がきちんと先輩の背中に届くことはなかった。

「おい、なぁに突っ立ってんだよ、来いよ」

切原君が呼んで、私が顔を上げた。彼は自分の隣の丸椅子を叩いている。このまま帰るの忍びなく、私がすっかり黙り込んだまま彼の隣に腰掛けた。「何でが丸井先輩といるんだよ」やけに不機嫌そうな切原君の言葉。ああ、ええと…と、私はついまごついた。丸井先輩は同じくカウンター席の、私からは一番遠い、柳生先輩の隣に座っていた。

「まあまあ、赤也そういう話は食ってからな。ジャッカル俺まずは味噌」
「まずは、って、何杯食うつもりだよ」
「良いじゃん、あ、にも味噌やって。これまじおすすめだから」

丸井先輩が助け舟を出すように私に声をかけて、私は小さく頷いた。丸井先輩の優しさに触れる度に自分の情けなさが浮き彫りになる気がする。ジャッカル先輩が前にやって来て、本当に味噌で大丈夫か?と確認を取ったので私はもう一度、今度はしっかりと頷いた。
それからラーメンができるまでの間私は手持ち無沙汰になって、それを見計らってか切原君が私の方を一瞥した。

「そんで、今日は丸井先輩がやけに早く帰ったと思ったけど」
「デートとは隅に置けん。そういう関係だったとはのう」
「え、マジッスか」
「マジなわけないだろい。は俺にはツンツンだっつうの」
「ああ、そういやそうじゃったわ」

半分は俺が振り回したようなもんだよと、先輩の笑い声。
いつだってそうやって、最後は自分を悪者みたいに言って、フォローしてしまうところとか、

は犬の散歩気分とか言ったしな」
「むしろそっちの方がどういう関係か知りたいんじゃけど」

私がどんなに辛く当たっても、酷いことを言っても、全部全部笑って吸収してしまうところとか、そういう丸井先輩の優しさが、私には、毒だ。

「買い物でもして来たん?」

仁王先輩が私の脇に抱えていた袋を気にするようにそちらへ目をやる。事情を知っていたが後ろから君の誕生日プレゼントらしいですよ、と口を挟んだ。赤也が、そうかあ、お前もきちんと姉貴やってんなあと、茶化すように言う。俺は姉貴からプレゼントとか最近貰わねえんだけどと、言う愚痴も加えて。

「うん、弟想いだからさ。は」

丸井先輩の声はとっても優しさが内包されたもので、私は堪らず俯いてしまった。唇を噛み締めて、固く握りしめたスカートの裾をじっと見つめる。

――ああ、泣いちゃだめだ。

ここで泣いたら、私はどうしようもなく、ずるい奴だ。




(棘を残して散ってゆく)



return index next
( まっくらな宇宙にはじき出された少女 // 141108 )