35_チョコレートを割るように |
私は今までずっと帰宅部だったから、夕焼けが眩しいこの時間帯に、駅前にいることなんて、今まで殆どと言っても良い程なかった。 駅前の時計塔の下で、私はぼんやり駅の中から溢れてくる人々の流れを追う。この時間帯は駅前を立海生以外にも、他校の学生がたくさん往来していて、部活動を終えて重そうな鞄を背負いながらけらけらとどこか楽しそうに私の目の前を過ぎて行く。 私も運動部か何かに入っていたらこんな風に年相応のそれらしい青春をしていたのだろうか。 「あ、おーい!」 約束の時刻から5分過ぎたその時、駅の中からようやくあの赤い頭が見えて、私はぎこちなく手を振りかえした。ああ、本当に来てしまったよ。そう、今更に後悔。いや違う、初めからきちんと嫌だった。 彼は私の目の前までやってくると、「遅れてごめんな」と眉尻を下げた。部活帰りの彼は、これでも早く終わった方なんだよと言葉を続ける。別に、元より急なお願いだったからそれくらいは覚悟していたので構いはしなかった。 丸井先輩はちょっとだけ表情から疲れを感じさせる風で、相当練習が大変だったのだろうなと思う。こんな時、労りの言葉一つでもかけてやれれば良いのだけど、如何せん丸井先輩には強くあたりがちな私なので、特に何も言葉が浮かばないまま、ただ大丈夫ですと、そんな返事をした。 さて、そもそも何故、私が丸井先輩とこんな風に待ち合わせをしているかと気になるところであろう。簡単に説明させて頂くと、それは今日の昼頃にまで遡る。 ミンミンと騒がしい蝉の声に集中力を削がれながら、朝から黙々と続けていた夏休みの宿題である数学のプリントは、努力の甲斐あってか残すはあと2枚。今日のところはこの辺で。そう私はふらふらとベッドに倒れこんで勢いよく脱力をすると机の上の携帯が震えた。薄目で壁の時計を確認する。時刻は昼の1時を過ぎたところだ。今頃テニス部は昼休憩に入っている頃だろう。予想通りのタイミングだと、私は携帯のストラップでそれを引き寄せると、ディスプレイを確認した。 『お返事遅れてごめんなさい。ところで、君の事だけど、私に聞くより姉弟のさんの方がよく知ってるでしょう?』 予想通りのタイミングに予想通りの返信内容。これは見ての通り、今朝私がに送ったとあるメールの返事だった。昼頃になればいくらテニス部でも昼休憩になってメールの返事ができるだろうと、実は朝から返事を待っていたのである。 さて、私がに一体何のメールをしたかと言う話であるが、それは近々ゆずるの誕生日があるということで、プレゼントをどうするか、という物だった。私がこの世界に来て2ヶ月半、妹のゆずるの趣味は熟知していても、弟に関してはまったくピンと来ていないのである。姉弟なのだから、というの意見はもっともなのだが、正直、この『私』よりはの方がゆずるとは付き合いが長いことは事実だ。しかしそんな理由を大真面目に話すわけにはいかないので、のセンスにどうしても頼りたいのだと食い下がって見る。 そしてすぐさま彼女からの返信。やはり休憩中となればやり取りはスムーズだ。 『それなら私よりもっと頼りになる人がいるけど、』 画面をスクロールする手が止まる。どきりと、心臓が跳ねた。もちろん嫌な予感、という意味で。そのまま文章を目で追っていくと、現れたその頼りになる人の名前として並んだ『丸井先輩』の四文字を、私はその名前をしばらく見つめて、固まってしまう。 弟の誕生日プレゼント、と考えた時、その人の顔が頭に浮かばなかったわけではない。弟が2人いて、センスも面倒見も良さそうな、そんな先輩。確かに頼りになりそうだけれど、ただ、誘うのが何と無く憚られるのだった。『丸井先輩は、ちょっといいかな、』私はへそんな返信を打ち出している時、再び携帯が震える。今度は着信だ。 『着信:』 「…もしもし、?あの、丸井先輩の事だけど」 『俺が行く』 「びゃああああ!?」 『うるさっ』 「ま、まるまるまるまる…っうざ井先輩いいい」 『「まる」はどこいったよ』 何での携帯に丸井先輩が、と言う疑問はきっと誰だって持つはずだ。そういえば丸井先輩には連絡先を教えていないので、彼自身から連絡がないのは納得がいくけれど、それでも何故。 受話器の向こうから『丸井先輩にメールを見られちゃったの、ごめんね』と声がする。そんな馬鹿な。 『部活が終わるのが、今日は四時半だったっけ?…そうだな、五時に駅前で良いか』 「何か勝手に話が進み始めちゃってるよって言うか、えっ今日行くんですか」 『えっ違うの』 もともとはと行くつもりだったので、彼女が部活がない日に都合を合わせるつもりだったのだけれど、丸井先輩の話を聞いていると、どうにも部活の休みなどないらしい。少なくとも全国大会が終わるまでは、ノンストップで駆け抜けるのだとか。シビアである。 しかしそうなると、比較的早く終わる部活の日(つまり今日らしい)でないと、買い物に付き合えないのだとか。いや丸井先輩は付き合わなくても良いんですよと私は言いたかった。と言うか実際言いかけたけれど、受話器越しでも丸井先輩があからさまに不機嫌になったのが分かったので、行きましょう行きましょうと仕方なく私が折れることになったのである。 「もしかして結構待った?」 ぷくりと器用にガムを膨らました丸井先輩が私を覗き込む。ぼんやりと数時間前の事に思考を奪われていた私は、ハッと我に返って、そんなには…と頭を振った。そばにいたカップルが似たようなやり取りをしているのを視界の端に捉えて恥ずかしさが込み上げる。どうか、私達がそういう風に見られませんように。 そんな私の憂鬱を丸井先輩は知ってか知らずか、呑気にそっかーと頷いて、私をそれとなく促すと前を歩き出した。どこに行くかさっぱり決めていないけれど、何だか声をかけられないまま、私は丸井先輩の背中に背負われて揺れる大きな大きなラケットバックを追う。 正直、丸井先輩に会うのはどうにも気まずく思われた。それは、私が先輩を苦手だということを全部差し引いても。私が『こちら』に帰ってきたあの日。別段、丸井先輩との空気が不穏なものになったわけではなかったし、切原君がやって来てからも、いつも通りのやり取りをした。(切原君の手前の演技ではあったけれど) それなのに、いや、むしろそうだからかもしれない。 信じがたい出来事があったのに、何事もなかったように振舞われてしまえば、私の中にあった葛藤だとか、憂鬱だとか、そういうものが一気に白けていってしまうようだった。 それに丸井先輩が本当の本当に、私があの人魚だと分かっているのかも、正確には知らない。先輩の反応を見ればそれはほぼ確実だと、そんな気はする。だけど、1%だけ信じられない自分がいて、そう、丸井先輩の言うように、その1%とは何よりも大きなものだった。 だから今はただ、そんな曖昧な事実よりも先輩が押し付けたあの約束だけが、私と丸井先輩を緩く繋いでいるような、そんな気さえする。 何にせよ、丸井先輩は私が突然消えたり現れたりという、おかしな場面にしっかり遭遇しているわけで、彼は一体、私をどう思ったのだろう。どうしてこんな風に、普通に接するのだろう。 「とりあえず、デパートで良いだろい?」 「あ、はあ、」 おもむろに振り返った丸井先輩が目の前の大きなデパートの方へ指をさした。ここならば、大体のものは揃っているし、明確なものが決まっていなくても、良いものが見つかるかもしれない。 夕方のデパートはそれとなく賑わいを見せていた。ここは夕方でなくとも、いつもそうだ。プレゼントが買えそうな雑貨屋が並ぶ階を丸井先輩が確認して、エレベーターのボタンを押した。 「つうか予算ってどんくらいなの」 「ええと、2000円、くらいで…」 「ま、妥当だな。…はあ、ゆずるなあ、」 丸井先輩は頭を捻って小さく唸った。ゆずるは丸井先輩と一言かわせただけでも大喜びするから、もしかしたら、普段この二人は殆ど会話をしていないのではないだろうか。え、本当に頼りになるのかな。わざわざ会いたくない人と買い物にまで来て、この人は役に立たないで終わってしまうんじゃないだろうか。 そんな私の心は顔によく出やすいらしい、何かを悟ったらしい丸井先輩は目を細めて「お前今失礼なこと考えただろ」と横目で私を伺う。 「まあそれなりに」 「っ言っとくけどな、俺のセンスはスーパーハイグレードだから、絶対ゆずる喜ぶから」 「そのスーパーなんとかって響きが既にセンスのなさを醸し出してますけどね」 「はほんとああ言えばこう言う奴だよな知ってたけど」 雑貨屋は六階にあるらしかった。そこに辿り着くまでに何度か別の階から買い物袋をたくさん抱えた人が乗り込んで、エレベーターはすっかりぎゅうぎゅう詰めになる。押されて、つい丸井先輩の腕につかまりそうになったのだけれど、私は慌ててそれを引っ込めた。しかし程なくして、上から丸井先輩のため息。それから腕が伸びて、先輩の方へと引き寄せられた。 「お前って変なところ意地っ張りな」 その声色は、いつも聞くそれよりずっとずっと、大人びて聞こえた。 ああ、きっとこれが丸井先輩の『お兄さん』の部分なのだろうなと、思った。 そうしてようやく目的の階にたどり着いた私達は、ひとまず手前からフロアをぐるっと一周することにした。部屋に置いたら可愛いだろう花の置物とか、マスキングテープとか、正直女の子だったら喜ぶのに、と言うものばかりである。丸井先輩はいかにもハズレだなあと言う顔をして、手に取ったお洒落な手帳を放り出すように戻した。 「あーなんつうかさ、」 「あ、帰りますか」 「帰らねえよまだ。お前どんだけ俺といたくないの」 ぐい、と頬をつねり上げられて、冗談ですと、丸井先輩のその手を軽く叩いた。先輩は参考にゆずるの趣味を教えて欲しいと言われ、私は彼が普段していることをぼんやり思い返す。 「ラジオ体操」 「はあ?」 だからラジオ体操。繰り返す私に、丸井先輩は流行ってんの?と眉を潜めた。「赤也もラジオ体操してるっつってたぞ」と。 「そういや、それであいつ、一昨日くらいに遅刻して、が俺を引き止めたからどうとか真田に言ってたけど」 「あんの野郎。名前出すなって言ったのに」 「なんか、赤也とお前って仲良いんだな」 「えっ、いや全然」 ずんずんと前を歩く先輩のスピードが早くなる。彼はもはや陳列された雑貨達をまるで見ておらず、ただ一周めぐる事だけに意識が傾いているようにも見えた。「妬けるわあ」表情は見えないけれど、随分ふざけた調子である。それはただの右手の私に?それとも可愛い後輩の切原君に? 浮かんだ疑問は相変わらず言葉になることはない。いつだって私は丸井先輩に対して臆病だ。幾分先を歩く先輩を呼び止める手を、諦めて下げた時先輩の足が止まった。 「そうだ、プレゼント思いつかねえなら、いっそケーキでも作れば?教えてやるよ」 なるほど、そういう無難な手もあるな、とは思ったけれど、ケーキなんて家で作ったらゆずるにばればれである。サプライズも何もない。「なら俺の家で作れば?家近いし」「嫌です」提案には即答した。丸井先輩がきょとんというか、ポカンというか、ちょっと驚きと切なさを隠し切れてない顔をして、私は言い方が良くなかったなと、反省する。 「…。嫌ですか」 「あ、嫌っていうか、嫌なんです」 「嫌なんじゃねーか」 「違いますよ、ええと、ご迷惑でしょう」 「丸井先輩は赤也を出し抜けると思ったら大歓迎ですけどね」 「は?」 さらりと、他の台詞と同じ調子で流れて行ったその言葉を、私は危うく聞き逃しそうになる。こう言う時の先輩はいつも嘘くさい様子なので、信じていいのか、イマイチわからなかった。とはいえ、実際に丸井先輩に好意を向けられているのは、私に対するお節介からよーく理解はしているのだけれど、所詮は彼の言う、右手の範疇に収まる程度。 この会話はここで途切れ、丸井先輩は、もうひとつ上の階に行こうと空気を切り替えてしまった。つまり、そこまで重要な話ではなかったと言うことらしい。私も先輩にならって聞き流すようにした。 丸井先輩に釣られて上の階にやってくると、そこはスポーツ用品が立ち並ぶフロアになっていた。なるほど、これならば何を買ってもゆずるが喜びそうだ。 「だけど、良いもん買うとこう言うのは普通に高えからなぁ」 「うげ、いちまんえん…」 「な?」 そばにあった適当なウィンドブレーカーの値札をひっくり返せば、その値段の高さに思わず私はぴゃっと飛びのいた。スポーツ用品ってこんなにするなんて、知らなかった。 「まあ、こういうブランドものってのは高いんだよ。安いのを探せばなくはないぜ」 「でも安いと、何て言うか、こう…素材とか機能が良くなかったり。私そういう判断がつかないので」 「ん、だから俺がいるじゃん」 「うわあ初めて丸井先輩がかっこよく見えました眼科行こ」 「選んでやらねえぞ」 「はははジョークですよ」 かくして、安くてなんかいい感じのスポーツ用品買いましょうという風な形に落ち着いた私達は、それらしいものを探しに出たのだけれど、私にはスポーツ用品を見る機会など、弟が持っているものをたまに見るくらいで、何が必要なのかさっぱりである。 そんな時、壁に何処かのスポーツ選手がサインをしてくださいました、みたいにサイン入りのウェアが飾ってあるのを見つけて、私はその前で立ち止まる。 「ん?ああ、サイン入りウェアか。こう言うのプレゼントされたら記念になるし良いよな」 「へえそういうもんなんですか」 「おう、オークションとかでもよく見かけるけど、でも高いと10万くらいしたりするんだなあこれが」 「うわあ」 確かに有名人のサイン入りだったらそれくらいするのだろう。サインをしたスポーツ選手の写真は、名前は知らずとも、こんな私でさえ顔は見たことがある人だった。 そこで私に、ふとある考えが浮かぶ。 「丸井先輩、買いたいもの決まりました」 「え?」 「ちょっと一緒に良いやつ探してください」 「突然どうし、って、おい!」 そういうわけで、突然だけれども、丸井先輩の腕を引いて、私はようやく明確な目的を持って歩き出したのである。 (チョコレートを割るように)(何かこれってデートっぽいよな)(私は犬の散歩っぽいなと思いました) return index next ( まっくらな宇宙にはじき出された少女 // 141103 ) |