34_ありふれた流星


一ヶ月の夏休みを一気に使い切ったような、そんな密度の濃い一週間を過ごした私は、丸井先輩達に遅れてようやく神奈川へと帰還した。相変わらず私は、弟の道連れで身についた六時起きの(店の手伝いの時は大いに役立った)毎日を続けながら、至って普通の生活を送っていたわけなのだが、そんな私が目を覚まして朝食を食べている最中に、携帯が突然震えた、それが全ての始まりだった。

『丸井先輩の写真あげるからラジオ体操行ってきて』

メールの送り主はゆずる。つまり丁度私の頭の上の階の部屋にいるだろう弟からだ。ここで疑問がいくつか。ラジオ体操って突然何よ、とそういうあれ。二つ目、何で丸井先輩の写真。同じ家にいるのだから起きてくれば良いのに、わざわざメールを寄越すと言うことは、要するに起きたくないと、そういう事なのだろう。ラジオ体操だの丸井先輩だの意味が分からないが、なんとなくゆずるの意図することだけは分かって、私は食パンを牛乳で流し込むと、『丸井先輩の写真とか超絶いらないよ』と送り返した。しばらくの間ののち、上から「ねええちゃんんん」と情けない声が私を呼ぶ。台所でお母さんが、まだぐっすり眠っているお父さんのお弁当を作っていてとんとんとまな板の音と、水の音。生活感の溢れたそれがら止んで、彼女が私を一瞥した。
彼女は何も言わなかったけれど、ゆずるのところへ行ってきなさいと、私を2階へ追いやろうとしていたのはすぐに分かる。なんで私が。だから私は肩をすくめて残りの牛乳を飲み干してそろそろと席を立ち上がったのだった。

「ゆずる、ラジオ体操なんて行ってたんだね」

弟の部屋へ向かうと、彼は布団に団子のように包まっていた。私はそれをぽんぽんと叩きながら一番初めに、ちょっとずれたそんな言葉をかけると、彼はうにゃらうにゃらと唸って、それからおもむろに布団から腕が伸びた。差し出された手にはよれよれのラジオ体操のスタンプカードがあって、可愛らしいスタンプがマスの六つ目まで押してある。行って来いと、彼の無言の訴えだった。

「えええ、嫌だよ」
「…なんでさあ」
「私にメリットがないし」
「…メリットが欲しいなら買ってくるから」
「いやシャンプーじゃなくてね、寝ぼけてる?」
「んー、ない」

それから丸井先輩の写真はいらないの?と弟が机の上を指差すので釣られてそちらを見ると、机には丸井先輩が何かの試合で勝った場面らしい写真がざらっと広げて置いてあるのだった。どれもこれも丸井先輩は調子付いたドヤ顔でピースを決め込んでいやがる。ただし、これは写真目線ではないので、もしや隠し撮りではないだろうか。「俺の秘蔵丸井先輩ショット」らしい。秘蔵なのに私にあげてもいいのか。

「二枚あるからいい。持ってきな」
「いやマジでいらないから」
「なんだと、今の台詞、脚色して丸井先輩に言いつけるぞ」
「…言えば良いよ」

脚色するんかい、えげつないなというツッコミはもうめんどくさいのでしないことにして、カードを受け取って私はそれをしげしげと眺める。ゆずる曰く、朝のラジオ体操は体に良いからうんたらかんたら、と柳先輩が言っていたのを聞いたので通い始めたのだとか。ならば尚更ゆずるが行かないと意味がないのではないか。というか、行きたくないなら一日くらい休んでも良いと思うんだけどね。強制ではないのだろうし。

「分かってないなあ、俺は皆勤がほしーの」
「皆勤が欲しいけど今日はめんどくさいと」
「メリット買ってくるから、弱酸性任せろ」
だからいらねーよ

本当話が通じない奴だなこいつ。
そもそも、カードに思い切りゆずるって書いてあるから、私が行ったら名前が男の子みたいなのにって変な風に思われるではないか。妹のゆずるもそれで苦労していたみたいだが。それに6回ももう通っているなら、もしかしたらゆずるのことを覚えているかもしれないし。

「スタンプの人ボケてるし目が悪いから」
「じゃあ次に行った時、こっそり二回並んで二回分押してもらえば」
「老人騙すとかどんだけ心が荒んでるの姉ちゃん」
初めに騙そうとしたのはお前だけどな

ぺらぺらのカードでゆずるの頭を叩く。彼がうううんと、くぐもった声で唸った。現時点で6時15分。朝日はすっかり上り切って、今日もまたギラついた光を振りまくのだろう。ところで、さてラジオ体操は何時からなのか。

「んーじゃあこうしよう。ラジオ体操が終わったら貰える缶ジュースを姉ちゃんにあげる」
「何それその提案にびっくりなんだけど。お前まさかそれももらうつもりだったの、ラジオ体操行ってもらうのに」
「行ってくれるの?ラッキー」
「は?いや、ちょ、」
「ラジオ体操、6時半からなんだから行くなら早く行けよ!」
「はああ!?痛ッ」

布団からでることすらすこぶる億劫そうだったくせに、私が行くと分かった途端に、ゆずるはベッドから跳ね起きると蹴飛ばす勢いで私を部屋から追い出したのだった。
ものすごく横暴。




今時ラジオ体操に参加する中学生がいるのだろうかと頭を捻りながら参加したラジオ体操には、案の定、健康思考のお年寄りと、小学校低学年くらいのちびっ子達、あとどういうわけかエプロンを付けっ放しの奥様がいた。公園に集うそのちぐはぐ多彩な顔ぶれはどうにもラジオ体操のために集まったようには見えない。
そんな中に無理やり溶け込むように、私は隅っこの方で、音楽に合わせて体をぶらつかせていた。
はい、いっちに、さんしー。
夏の早朝の空気はすっかり太陽に晒されて温くなっていて、私はその空気を遠慮がちに吸い込みながら、音に合わせてゆるゆると空を仰ぐように背を反らせて行く。ふと後ろの人とばっちり目があった。真面目に運動をしていれば顔は後ろに向いているはずで、目など合うはずがないシーンであるのに。いや、お前もやれよと、そんな感想が浮かぶ前に、視線が交わる人物が見知った人物すぎて、私はそのまま後ろにひっくり返った。あらあ、大丈夫?と横からおばさんの声。大丈夫です。
それよりも私はこのもじゃげから視線が外せない。彼の目もまた、まんまるく見開かれていた。なぜ君がここに。

「切原君のドッペルゲンガーですか」
「本人だよ」
「何でここにいるんですか」
「ラジオ体操しに来たんだよ。お前こそなんでいるんだよ」
「ラジオ体操しに来たんだよ」

お互いそっかあと頷き合った。くだらなくて数秒後に馬鹿じゃねえのと思った。
切原君は私の横のスペースにやって来て、ラジオ体操の、少し音割れしたお兄さんの声に合わせて跳ねる。ワンテンポずれて私も跳ねる。
ゆずるは切原君がいるなんて一言も言っていなかった。そもそもそれなら休まないはずだ。

「もしや切原君ラジオ体操の初心者ですか」
なんだよ初心者って
「知ってる?ラジオ体操が終わったらカードにスタンプ押してもらうんだよ」
知ってるよ

切原君が首から下げているスタンプカードにはすでに六つのスタンプが押されていた。私のカードと同じである。正確にはゆずるのものだけど。何だ今日初めて来たんじゃ無いのか。私は自分のそれを見えないようにひっくり返して、私と同じだねえと笑った。彼の視線が気まずそうに逸れた気がした。

「つうかお前その年でラジオ体操とか」
「切原君それ自分の首も絞めてるよ」

切原君は俺は柳先輩が良いって言うから、と何処かの誰かと同じような事を言い出したので、柳先輩は部活でそれ程崇拝されているのだろうなと思う。なんか分かるよ。
ラジオ体操が体に良いなんて、そんなこと考えなくてもわかる。だけど私が切原君やゆずるに勧めたのではきっと相手にすらされないはずだ。
それにしても大して大きな公園でないのに、お互いに気づかないなんて不思議なものだ。

「あれ、それより切原君の家ってここら辺なの?」
「いや、違う。…もうちょっと遠いとこから、」

丸井先輩とは家が近いことは知っていたけれど、切原君とばったり出くわすのはいつだって学校周辺だった。と言ってもそもそも私達は学校から割と近場から通っているから、丸井先輩なんかと比べると相対的に遠いという話であって、実際は切原君の家とも、ものすごく距離があるわけではないのだろうけど。切原君はぼそりと隣町の名前を上げたので、ほら、やっぱり思いのほか近くには住んでいるのだなと思う。とは言え隣町だったら、ここまで来なくともラジオ体操をしている公園くらい他にいくらでもあるだろうに。
相変わらず公園にはいっちにーさんしっとお兄さんの爽やかさを悟り違えましたみたいな元気な声が響いて、そうであるからか途端に黙り込んだ切原君が余計にどこかしょぼしょぼとしているように見えた。

「どうしたの」
「…なんつうか、知り合いに見られたくなくて」
「は?」
「知り合いに見られたくなかったから、…わざわざ遠い公園に来てたんだよ」

はい、深呼吸。そこでタイミングよく、締めくくりにはいった。声に合わせて私達は湿った風を肺いっぱいに吸い込んで、お互いが黙り込む。
私は困ってしまった。ああ、そうなんだ、ごめんね、私がいて。そう言えば良いのだろうか。切原君もゆずるも、同じような理由でお互い身を潜めるようにラジオ体操をしていたから、きっと今日まで相手の存在に気づかなかったに違いない。
彼の様子がちらほらとおかしかったのは、私に会って恥ずかしかったからなのだろう。私は別に何とも思わないけど。
体操の音楽が鳴り止むと、ありがとうございましたと、おざなりな挨拶がぱらぱらとそこここから聞こえて、それからスタンプカードの列が現れ始めた。私達はその最後尾に並ぶ。

「じゃあ私、切原君のことは見なかったことにするね。他の人にも内緒にするよ」

こう言う事がこの場面では正解な気がした。しかし彼はそれでも煮え切らない様子で、首からぶら下がるカードをいじくっている。なんだかいじけているように見えなくもなかった。

「お前に一番会いたくなかった」
「そ、そうか、ごめん」

見なかった事にするだとか、誰にも言わないだとか、ここまで私が彼に気を使ってあげているのに、何故私が責められているんだろうと、納得がいかなかった。しかし彼もそう言う年頃なのだろうよく分からんけどと、私は文句が零れそうな口をつぐむ。ただ、そんな事言われると少し寂しいね、とだけ冗談混じりに言った。切原君は何も言わなかった。

それからしばらくすると、スタンプの順番が回ってきて、ゆずるのカードに星のスタンプがのると、それを後ろから覗いていた切原君が、ぼそりと「…ゆずる」とカードの名前を読み上げた。ぎくりとした。説明をするから今は突っ込まないで欲しい。切原君は、すぐにその訳を悟ったらしく、へー、と私の耳には感情の籠らぬ声が届く。

「…切原君この件は後で」
「別に良いけど、…最初からなんかおかしいと思ったんだよな」

こそこそとそんなやり取りをかわした後に、それじゃあお待ちかねの缶ジュースくださいと私は手を差し出すと、スタンプのおじさんが「あれっ」と声を上げた。缶ジュースの詰まっていたダンボールには、もうそれらしいものは一つも入っていなかった。

「な、…だと」
「ごめんね、お嬢ちゃん。うしろの男の子も、もう缶ジュースなくなっちゃったんだよ」

切原君はスタンプを押してもらいながら、はあ、と頷いた。彼はまあ、ちょっと残念ーくらいにしか思ってないのだろう。しかし私には死活問題だ。これを条件にラジオ体操に来たようなものなのに。なんてこったい。頭を抱えていると、そんな姿を見かねたらしいおじさんが、不意にポケットから五百円玉を取り出したのだった。そのままポケットに入れていたらしいちょっと温かくなったそれを、私の手のひらにのせて、二人で好きなものを買うと良いよとおじさんが笑う。この年になって、ジュースを貰えないことに不貞腐れて、相手にこんな風に気を使わせてしまったことにいたたまれなくなった私は、それを完全に受け取ることができなかった。隣の切原君へと視線を移すと、彼もまた、体裁の悪そうな顔をしている。

「あの、…申し訳ないのでいただけません」

ここに来てようやく礼儀を押し出したような口調になって、私は五百円玉を返そうとした。申し訳ないというより、恥ずかしさが上回っていたのである。だけど良いの良いのとおじさんは受け取らなかった。彼からすれば私達はまだまだ駄々をこねてもかわいい子供だと言うように。そうして五百円玉の帰る場所を決めかねていると、おもむろに切原君の手が伸びて、五百円を攫ったのだった。

「せっかくだから貰っとけばいいじゃん」
「えっ」
「ほら、行くぞ」

さらに私の手も掴んで、彼はずんずん公園を後にした。今思うと、それがあの私達にだけ一方的に気まずい空間から抜け出すベストな選択だったのだと思う。あのままいても、きっとおじさんはお金を受け取らなかっただろうし。私の前を歩く切原君の、少し汗をかいたシャツの背中をおいながら私はぼんやりそんな事を思った。切原君はこう言う時割と頼りになる。
公園が見えなくなるところまで来る頃には、すっかり太陽が本調子になり始めていた。ミンミンやかましい蝉が暑苦しさを助長させている。切原君がせっかくだからアイスを買おうと言うので、私は特に異論もなく頷いた。だって暑いもんね。そういうわけで、近くのコンビニに転がり込むのだった。
そこでは冷房が効いている快適さを堪能しながら、私達はキンキンのアイスボックスに手を突っ込んだり、二人して大して値段も見ないままがめつくハーゲンダッツを買って、お会計がギリギリで冷や汗をかいたり、我ながらガキくさいことをした。だけど、この世界に来てから今になってそんな風にふざけたり笑ったり、ようやく日常を手に入れたような、そんな気がして、胸のあたりがじんわりする。それと一緒に寂しい気持ちも私を締め付けていたのは、気づかないふりをした。

「ところで
「なんだい」
「ラジオ体操はゆずるの代わりに来たんだろ?」
「…唐突だな」

褒めたものではないけれど、コンビニの前に座り込んで私達はアイスに手をつけ始めた。切原君が先ほどの話を持ち出したので、私は今朝の事を白状することにした。それを聞くと彼はうわあと言う顔をして「弟にパシられるとかお前」と。いやしかしあれは不可抗力に近いような気がするぞ。蹴飛ばされたし。それでも切原君に言わせれば、そもそもそう言う風になっているのがいけないと、それらしい熱弁を振るい出すので私はもう、はあ、みたいな感覚である。

「俺は姉貴に勝てねえもん」
「切原君ってお姉さんいたんだね」
「まあな、怒るとおっかないんだぜ」

スプーンをくわえて、切原君は指で頭に角を立てる。彼のお姉さんは切原君のことを力でねじ伏せていそうだ。平気で切原君のことを蹴飛ばしたり殴ったりしているような、ガチンコバトルが繰り広げられているイメージがある。
少し、それが羨ましくも思えたのだけれど、ひとまずおっかないね、とオウム返しをして頷くと、私は時計を一瞥した。帰る時間が遅いとゆずるが何をしていたんだなんだとうるさいかもしれない。その理由が切原君とアイスを食べたからだと知ったら余計。
黙っていてもどうせ切原君がゆずるに話してしまいそうだから、私は機嫌取りに何かお土産でも、と思ったものの、まさしく手ぶらで出て来たので、携帯とスタンプカードしかない。…ああしょうがない。

「突然で申し訳ないんだが切原君、一枚写真を撮らせて貰えないかい」
「は?」

姉貴がどうたら、とまだ続いていたその話に、私がそう割り込みに行くと、切原君はぽかんとして「良いけど…?」と首を傾げた。申し訳ない。
私は簡単に事情を話すと、彼はああ、と納得して、携帯を構えた私の方に適当なVサインを向ける。何この状況恥ずかしすぎる。半目でもなんでも良いからさっさと撮って帰ろう。私がそう思ったのもつかの間だった。

「ちょっとタンマ」
「えっ?」
「どうせなら一緒に撮ろうぜ」
「どうして」
「記念記念。せっかくだし」

私、あまり携帯を使わないからカメラの自撮り機能とか知らないんだが。なんて私が心配する間も無く切原君が私の携帯を取り上げていつの間にか自撮りに切り替えられたそれがこちらに向いた。
そうして切原君が私の肩を引き寄せるなり「ピースくらいしろ」と言うので、彼のピースとコントラストをつけるために何故か人差し指で1を作って写真に写った。切原君は何も突っ込まなかったけど、すごく何か言いたそうな顔をしていた。

「それ、俺にも送れよな」
「はあ、」

私が写っていたのではゆずるが余計に怒りそうだと一抹の不安を感じながら、曖昧に頷く。彼が朝練ででて行くまでに帰らねばならないから、もう帰らねばゆずるに会えない。とは言えもうかなりギリギリの時間だけど。
そこまで来て、私は切原君の方をパッと振り返った。「うん?」切原君のキョトンとした顔。

「そう言えば切原君今日部活大丈夫なの?」
「…」
「…」
「あ」

きっと真田先輩の顔が過ったに違いない。切原君の事なのに私まで胃が痛くなる思いがして肩をすくめた。

「ごめんね、もっと早く言えば良かったね」
「…うん、許すから、言い訳にお前の名前だしていい?」
「いやだよ」


(ありふれた流星)(いつの間にか、これが日常)



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「なんで姉ちゃん人差し指立ててんの」「切原君がピースだから何となく」
( まっくらな宇宙にはじき出された少女 // 141031 )