33_回帰性を求めて |
薄暗い部屋の天井をぼんやり眺める。木目を辿って、また戻って、無意味なことの繰り返し。開けっ放しの窓からは海の音と夜の風が滑り込んでくる。今まで過去の世界にいたとは思えぬ程、当たり前の日常に帰ってきた私は、疲れが出たのか布団に倒れこんだ瞬間睡魔の沼にどろどろと落ちていくように瞼が下がり始める。夢と現の狭間で、私は昼間のことを思い返していた。 「お前、あの時の人魚だろ」 丸井先輩のあの質問に、私が答えることはなかった。きっと、私が頷くのを待っていたのかもしれない。しかし彼は何も言わない私をしばらく見つめて、それからそっと私を離すと先輩は無理に笑って見せた。「お前が無事で良かった」なんて。 「ここからは俺の独り言だから、お前は聞かなかった事にしてくれよな」 私が帽子を追って線路へ飛び出した時、私は確かに電車に引かれた。しかし、次の瞬間には私の姿はそこにはなかったのだと、丸井先輩は言った。電車も、まるで何事もなかったかのように停車し、状況が飲み込めずに立ち尽くす丸井先輩を置いて扉が閉まる。ああ、これはまるであの時と同じだと。 「俺はその景色と、感覚を知ってた」 小さい頃、人魚だと名乗る少女が同じようにして消えてしまったことがある。その時はもう会えないのだと思った。子供ながらに、そんな風に悟ったのだと。案の定、どこを探しても彼女を見つけることはできなくて、わだかまりを残したまま、丸井先輩は家に帰ることになった。仕方がないと、次に会えると言われたその言葉に賭けて。 「でも今回はそう割り切れなかった」 「…」 「…だから、もしここにいなかったらどうしようかと思った」 丸井先輩はすっかり私に背を向けてしまって、彼のやけに静かな声が私に届く。相変わらず、周りは観光客の声で騒がしいはずなのに、この場所だけはそれから切り離されてしまったように、怖いほど、静かだ。これまで丸井先輩がまるで私に会ったことがあるような様子だったのは、寂しそうな顔をしていたのは、先輩の過去に私がいたからだ。 過去の、その時の先輩に、私がどう映っていたかはわからない。だけど、きっと私は、 「私は丸井先輩が思っているような人間じゃありません」 今の丸井先輩にも、過去の丸井先輩にも、たくさん嘘をついて、たくさん傷つけた。もちろん私が人魚なんてそんな御伽噺の中の存在ではないことは、流石に信じていないにしても、ずっと一緒にいるなんて、無理なことは分かっていながらそんな約束をしたし、私は先輩に助けてもらいながら、相変わらず冷たい態度をとっている。そうする理由などもうないはずなのだけれど、きっとこれからも、それが大きく変わることはないのだと、そう思う。 だから過去の丸井先輩に接したように、今の丸井先輩に接することができない。先輩は私が先輩との事を思い出すことを待っていたのかもしれないし、実際に私は丸井先輩との記憶のブランクは埋めた。それでも私は、丸井先輩が求めるような私にはきっとなれない。 「そんなこと、どうだっていい」 「…それは、どういう、」 「今の全部俺の独り言っつっただろい。…お前が隠してることを言いたくないなら俺は聞かない。だからなかったことにしてやるよ。は俺と買い出しに行って、帰ってきた。それだけで、何にもなかった」 何もなかったから、お前がどんな奴だって、俺には関係ない。はいつも通りにいればいいと。さらに丸井先輩は振り返ると私が手に持っていた麦藁帽子を取って「捨てる」と、そう言った。どうやら先輩はこの帽子が自分のものだと気づいていたらしい。全てをなかったことにするために、処分すべきだと。 私の隠していることに触れないでいてくれるのは、正直言えばありがたいと思う。だけど、まるで丸井先輩との記憶が全部嘘だったことにされてしまうような、そんな気がして、私はとっさに丸井先輩の手から帽子を取り返した。「やめてください」知られたくないのに、なかったことにはされたくないなんて、自分勝手だと思う。丸井先輩の目を見ることはできなかった。 先輩はしばらく黙り込んで、私は小さな麦藁帽子を抱きしめたまま俯いていた。すっ、と息を吸う音。 「…ずるいよ、お前」 「知ってます」 今も、水族館で、丸井先輩に約束を押し付けた時も、いつだって私は自分勝手で、ずるい。それでも私は引き下がらなかった。「なら、」先輩が口を開く。 「…割り切るつもりがないなら、代わりに俺と約束しろ」 「約束、」 「お前がそうしたみたいに」 その台詞に私は顔を上げる。 丸井先輩は私との約束を後悔したことはあっただろうか。きっとこの約束は、私に拒否権などない。そうであるからか、私は何も言えなかった。 「もう勝手にいなくなるな」 ぴたっと、急に固まってしまったように身体が強張って、息苦しさすら感じた。しかしそうして私は首を縦に振ることも横に振ることもしないうちに、突然割り込むように聞き覚えのある声。弾かれたようにハッとした私達はそちらへ振り返るとこちらにかけてくる切原君の姿が見えた。「あーやっと見つけた!」丸井先輩は私を一瞥して、それからようやく目の前までやってきた切原君に、どうした、と声をかける。 「どうもこうもないッスよ!いつまで買い出し行ってるんスかー!なかなか帰ってこないし電話も繋がらないしで真田副部長カンカンで…」 「…うわあ、」 切原君は、丸井先輩を探して来いと真田先輩に言われて合宿所を飛び出してきたらしい。ちなみに桑原先輩もその人員の一人だったらしいが、桑原先輩とは二手に分かれたので、先輩はまた別のところを駆け回っているのだろう。丸井先輩は何事もなかったかのように携帯を開いて、「ほんとだ、着信やば」なんて肩を竦めていた。 …もし、このまま切原君が現れなかったら、私は先輩の約束に、なんと答えるつもりだったのだろう。きっと先輩は、イエス以外の言葉をもらうつもりはなかったのだろうけど。 すっかり勢いを失って、私はその場でまごついていると、切原君の視線が私に移った。 「つーか、お前はなんでずぶ濡れなの」 「あ、えーと」 「海に落ちたんだよ」 「はあ?また?」 丸井先輩は携帯をいじりながら、あっさりそう答えて、まあ色々あったんだよと言う私のやっつけた言い訳に、切原君はふうん、と呆れ気味に頷いた。これが柳先輩だったならばこうはいかないだろう。 切原君からすれば、この私と出会ったばかりの頃、私が海に飛び込んだところを彼に助けられているから、不注意も良い加減にしろよくらいに思っているに違いない。 「あんま丸井先輩に迷惑かけんなよな」 「…申し訳ない、です」 「良いってことよ」 丸井先輩のスボンの裾が濡れているところから、先輩が私を助けたのだと勘違いしたらしい。身に覚えのない礼を告げると、丸井先輩がそれに合わせて軽く答えた。 切原君が喋る度に、地に足が着いていなかった私の周りの世界が、すとんすとんと、日常に帰って行くように、先程までの非日常的な出来事から乖離して行く。まるで今まで夢をみていたようだ。丸井先輩がそんな私に、どこか安堵したような表情を向けたのだが、私にはその理由はどうにも分からない。 「…おい!おい聞いてんのか」 「え、いや、聞いてないよ」 「…お前悪びれもなくまたそうやってな。だから、いくら夏だからって風邪ひくぞっつってんの!」 「はあ、」 「ほら」 切原君は私にタオルを差し出して、それを受け取りながら、最近こういうことが多いなあと、髪の毛をぽんぽんと叩いて水分を落として行く。別に借りなくても、叔父の家は目と鼻の先なので、困りはしないのだが、ここは好意に甘えることにする。それから丸井先輩は、買い物自体は終わっているので、真田先輩が来る前にさっさと合宿所へ戻ろうと切原君を促した。私は慌ててタオルは洗って明日か明後日にでも、と切原君を引き止めたのだが、彼は首を傾げた。 「あれ、聞いてねえ?俺達明日帰るから」 「え、あ、…そうですか」 「ん、だから、次会った時でいいよ。2学期でも良いし」 つい丸井先輩を一瞥すると、先輩の視線はすっかり海に向いていて、私に取り合う気はないらしい。どうってことはないけれど、またこうやって置いていかれる形なんだなあと、私は足元の砂を小さく蹴った。それが切原君にはいじけているように見えたらしい。「寂しいなら電話してやるよハハ」なんて小馬鹿にしたように笑った。 「うざいよ切原君」 「おま、」 「どうせ私だってあと2、3日くらいで帰るし」 泊まるのは一週間の約束であったけれど、親戚の家であるし、期間を延長しても困ることはないのだが、宿題を持ってき忘れてしまったので、早々に帰るつもりではいた。寂しいわけなんてない。もともとはこの一週間、本当に一人で過ごすはずだったのだから。 べ、と舌を出すと「こいつほんと可愛げないッスよね、丸井先輩!」なんて切原君がムッと口を尖らせる。 「はいはいそうだな、帰るぞー」 「丸井先輩冷た」 「お前が暑苦しいんだろい」 「…」 「つうわけで、、今日はサンキュ」 丸井先輩がひらひらと手を振ったので、私は簡単に頭を下げた。正直、こんな風に簡単に空気を切り替えてやり取りを繰り広げる丸井先輩が不思議で仕方がなかった。一見、何も考えていないようで、実は常に空気を伺っているような隙のなさだとか、柔軟性とか。この人は怖いくらいそれを兼ね備えている。 そのまま、私は二人の背中を見送っていると、不意に丸井先輩が首だけこちらを振り返った。ぎくりと肩をびくつかせる。 「ー」 「は、はい?」 「今度は帰る場所あんだから、俺達の後からちゃんと帰って来いよ」 「…は、」 「約束、忘れたら許さねえから」 …。やっぱり全部夢じゃないって、こんな風に、残して行くなんて。 丸井先輩だって、大概ずるい。 (回帰性を求めて) return index next ( まっくらな宇宙にはじき出された少女 // 141019 ) |