32_海とは愛に似ているらしい |
全てを飲み込んでしまいそうな深い深い夜の海の色。海からの風が私の髪をさらっていき、私はそれを気にもとめずにいつもの岩場に背を預けて、ぼんやりと海を眺めていた。夜の海などどれも同じものだと思っていたけれど、今日のそれは丸井先輩と海岸で偶然出くわしたあの夜に特別似た景色である。 肌寒さに背中を丸めて伏せていると、ふいに上から毛布がかぶさった。隣に誰かが座る音。布の隙間からこっそり隣を盗み見るとそこにいたのは案の定丸井先輩で、彼も自分用の小さな毛布に包まって海を眺めていた。 「…どうしたの?」 「お姉さん起きてたんだね」 「もう夜も遅いよ。こんなとこにいたらお婆ちゃんが心配する」 電池も残り少ない携帯には既に23時を回っていることが示されている。子供はとっくに寝る時間だ。丸井先輩は頑なにこちらを見ようとしないまま、婆ちゃんならもう寝たよと言った。この様子だと、こっそり抜けて来たらしい。彼は「1人で寂しくなかった?」と唐突に私に問うた。まあ、ここで1人で寝るのは色んな意味で心許ないし、この場所では本当の本当に一人ぼっちであるので、寂しくないといえば嘘になるが。 「でも、君がいるから今は寂しくないよ」 「そっかあ」 「…旅館に戻らなくて大丈夫なの?」 「…」 私の質問は答えが返されることはなく、きっと戻りたくないわけがあるのだと、私はそれ以上何も言わずに口を閉じた。彼は寒いのか、私との間を詰めるようにそっと寄って、私の方へ頭を預けた。過去の丸井先輩は常に明るくてハツラツとした様子だったけれど、今の彼の表情は沈んでどこか辛さを耐えるように唇を噛み締めている。こういう時、子供だからこそ聞いてやるべきなのだろうか。聞いて私に何かできるだろうか。 「おれ、お姉さんと海の中に住みたい」 「…何か、あったの?」 「…」 「言いたくない?」 丸井先輩は俯いたまま、あのね、と小さく口を開いた。うん。私は耳を寄せる。「ほんとうは、弟なんてほしくないんだ」こっそり伝えられた彼の本音は、私を驚かせた。瞬間的に弟にあげるんだ、とマフィンを見せた丸井先輩の顔が脳裏を過ったけれど、あの時、あの表情の裏に、彼のこの憂鬱はあったのだろうか。 そう言えば、この旅行が自分の最後のわがままだとは言っていたが、やはり弟ができることを楽しみにする反面、戸惑うこともあるのだろう。 「ちゃんと、お兄ちゃんができるのかわからない」 「ううん、そっかあ」 どうしよう…、と弱々しくて湿っぽい声がして、私はどきりとした。もともと子供の扱いなど慣れていない上に相手はあの丸井先輩である。まさかこんな形で弱い部分を見ることになろうとは。 「泣いちゃだめだよ」 「な、泣いてない!泣くわけないじゃん!」 「なら良いけど…」 「…」 「私は君は将来とっても面倒見の良いお人好しになると思うけどなあ」 「…おひとよし?」 「あー、今のはナシ」 とっても面倒見が良くて、弟がきっと大好きになるよ。私はそう言い直した。揺れる瞳が私を見上げる。「ほんとう?」だから私は嘘は言わないよ、と笑い返すと、彼もようやくふにゃりと強張らせていた表情を崩した。無理に笑っているようにも見えたけれど、きっと丸井先輩はきっと弟思いの、お節介になる。それはどうなっても変わらない気がした。 それから私達は夜に溶け込むように黙り込んだ。丸井先輩の毛布のお陰で寒くはなく、波の音が眠気を誘う。ああ、寝てしまうその前に丸井先輩を旅館に帰さなければ。 重くなるまぶたを持ち上げて、私は遅いから戻るようにと促すと、彼はしぶしぶ立ち上がった。時計は24時近くを示していた。丸井先輩の小さい背中が起き上がる。 「ねえ、おれ、あさってにはおうちに帰っちゃうんだ」 それはやけに静かな声色だった。 「…うん」 「お姉さんと離れたくないな」 「また会えるよ」 私の言葉に彼は振り返りかけて、だけど背中を少しだけ丸めると、何も言わずに旅館の方へと歩き出した。ちらりと見えた彼の頬には涙の跡があったように思う。私はその背中が見えなくなるまでぼんやりと家々の明かりが灯る道を見つめていた。きっともう会えないのではないかと、丸井先輩は思ったのかもしれない。 だけど、今の私には彼に確かな言葉をあげることはできない。未来で会うかもしれうなんて、実際は可能性の話だ。もしかしたら未来が変わってしまうかもしれないのだから。 私と丸井先輩との未来は、すんなり変わってしまう運命かもしれない。 そう思うと、少しだけ私も泣きたくなった。 帰り方を探しに行かねばならないと思った。 そもそも、丸井先輩が家に帰らず、ずっとここにいたとしても、私がこの砂浜に居座るのは無理がある。いくらお菓子をもらったところで、腹はろくに満たされないし、連日こんな砂浜で寝ていては疲労がたまるばかりだ。まだ動けるうちに、行動を起こさねばならない。 太陽が水平線から顔を出してから、大分空高くに上がり始めた頃、私はポケットの財布の中身を確認した。分かっていたが、当然、神奈川へ帰ることができる程の金額はない。正直、お金があれば、それが片道切符でも、この世界の自分に会いに行くつもりだった。何か糸口が見つかるかと。しかしそうもいかないらしい。 このままいてもどうせ待っているのは餓死とかそう言う寂しいオチだ。まあその前に誰かに拾われる可能性はあるが、それはそれで面倒である。いっそ、お金を全て使って行けるところまで行って、そこで死んでしまおうか。それとも、 「本当の振り出しに戻って、海に沈むか」 そもそも第2の世界に来た時、切原君に助けられなければ、私はこの場所にすら立てていない。何にせよ、何かしらアクションを取らなければ、どの世界にも帰ることなどできないだろう。さくり、と歩きにくい砂浜を踏みしめる。 「どこに行っちゃうんだよ!」 私の足が、突然背中にぶつかるその声に引きとめられた。丸井先輩の声だと、私は振り返ると、先輩はくしゃりと表情を歪ませて、持って来たらしい小さな麦藁帽子をぎゅっと抱きしめていた。今日も彼は、私の所へ遊びに来たらしかった。 「どっか行っちゃやだ!」 「…」 相手は丸井先輩といえど、まだまだ子供であるし、こんな事を言っても仕方がないとは思うけれど、彼は明日には帰ってしまうのだ。そうなれば私はもう完全に1人になってしまう。自分は帰ってしまうのに私には帰るななんて、そんなの酷な話だ。しかしそんな事を言っても仕方のないこと。私は考えを捨てるように頭を振った。ふらふらと、やけにおぼつかない足取りで丸井先輩の小さな靴が砂浜に跡をつけて進む。近づいた手がついに私のスカートの裾を掴んだ。もう一度、どこにも行かないでと、今度は弱々しい声。 「ううんと、ね。今日は君とどこに行こうかなって、考えていただけだよ」 「…ほんとに…?」 ほんとだよ、とは言わなかった。黙って笑う私に、丸井先輩の沈んだ表情はあまり変わらなかったように思う。けれど私がどこに行こうかと促すと、彼はようやく少しだけ明るい調子になって、「遠く」そんな大雑把な言葉を寄越した。ぎゅう、と麦藁帽子を深くかぶった丸井先輩の表情はすぐに見えなくなる。 「でんしゃに乗って、遠くにいきたい」 この時の丸井先輩は、もしかしたらこのまま私とどこかに行ってしまおうとしているのではないかと、私にそんな気を起こさせて、途端にひやりと、妙な緊張感が私を包んだ。何故かは分からない。だが断る台詞は私から出ることなく、じゃあ行こうと彼の手を取った。頷いた彼の顔が綻ぶ。そうして元気良く踏み出した彼の一歩に、私もつられて歩き出した。丸井先輩の麦藁帽子は、小さな赤いリボンがついていて、そんな帽子が彼に似合っているからか、やけに私の目には眩しく映る。それを私はそっと撫でた。 「その帽子かわいいね」 「かわいいー…?」 「あ、かっこいいね」 「だろい」 「うん、だからね、それ飛ばさ、」 「それ、飛ばされないようにな」 思い出したのは丸井先輩の台詞だった。言いかけたそれを、私は飲み込んで、ハッと口を抑える。ある予感が私の脳裏をよぎって、私はぎゅっと、丸井先輩の手を強く握る。先輩は隣でアスファルトの上に転がる石を蹴飛ばしながらぶらぶらと歩いていて、私が黙り込んでからも時折「暑いね」とか「おなかすいた」なんて零して、いたのだけれど、返答がないことをおかしく思ったらしく、先輩は私の顔を覗き込んだ。「どうしたの?」 「…何でもないよ」 「ふーん」 「帽子、飛ばされないようにね」 「おう」 それからすぐに電車の走る音が聞こえて「でんしゃの音だ!」と丸井先輩が笑った。 この道を、私は知っている。と言うよりも、丸井先輩と歩いたこの風景を私は知っていると言った方が正しいだろうか。私の知っているそれより、少しだけ真新しさを残すその風景は、9年後も全く変わらないらしい。 全部全部、丸井先輩の思い出と重なって行く。ツンと、鼻が痛んで、私はそれを誤魔化すように唇を噛み締めた。 私の中にはある先輩との記憶は、この丸井先輩にはない。この先輩が私に追いつくことはないのだ。私が追いつくことのできる存在は、9年後の、未来にいる丸井先輩だ。この子ではない。 初めて私が丸井先輩と一緒に帰った雨の日、丸井先輩が人魚の話を聞いて、おかしなことを言ったのも、マフィンも、あの海岸が思い入れのある場所だと言っていたのも、全部その時には丸井先輩の中に私との記憶があって、だけど私はそれを知らなくて。 丸井先輩も、こんな気持ちだったのだろうか。 駅のホームに降り立つと、やはりそこは人がまるでいない、とても寂れた場所だった。申し訳程度に取り付けられた屋根のような板から濃い空色が覗く。夏の色だ。生ぬるくどこか湿っぽい風がゆらゆらとスカートを揺らして、丸井先輩と買い物に来た時と同じ懐かしい匂いがした。 「…ああ、私ってば、馬鹿だなあ…」 ここに来た気がするなんて、それは今出るべき台詞だ。どうしてあの時の私はデジャヴを感じたのだろう。 その時、ふいに、ホームに侵入する電車の注意を促すありきたりのアナウンス。 「…丸井先輩、」 掠れた声はアナウンスに掻き消され、それと同時にあの風が吹いた。 私は待っていたのかもしれない。「あ、」そんな声が上がって、目の前をふわりと丸井先輩の麦藁帽子が舞い上がった。私の手を振りほどいて、丸井先輩が帽子を追いかけて走り出す。駆け出す先はやはり線路で、身体が粟立った。 「行っては駄目!」 伸ばした手は、自分の麦藁帽子を逃したあの瞬間と違い、今度は掴みたいものを、彼の腕をしっかりと捕まえて、自分の後ろへと放り出した。後ろでどさりとホームに転ぶ音。私はそのまま線路の方へと自ら身体を投げ出すと、後ろで「おねえさんっ」と掠れた涙声が私を呼んだ。 何と無く、私はこの場面で彼を助けるために、今ここにいたのかもしれないと、そう思った。 電車が目の前に迫る。 ぶつかる衝撃も、肉が潰されるような痛みも、今度は何も感じなかった。視界が白んで、意識が飛ぶ。 しかし、それも以前とは違い、まるで一瞬のような、とても短い間の事のような、そんな妙な感覚に陥り、すぐに視界が開けた。 じゃぼん、と水の中に沈む音。覚えのある浮遊感。なんとなく予想していただけあり、もう溺れることはなく、ゆらりと海に浮くと、薄く開いた目は真夏のギラつく太陽と濃い空色を見上げる。 「あれ、」 手にはいつの間にか小さな麦藁帽子が握られており、私はそれを太陽にかざした。私の手は、きちんと、届いていたようだ。 遠くからはやっぱり観光客達らしいはしゃぐ声がして、私はゆったりと岸に帰って行くと、顔を上げる前に息をつく間もなく、突然強く腕を引かれて誰かに抱きしめられた。 「っやっぱりここにいた…」 私はこの腕を知っている、この声を知っている、この大きな背中を知っている。 予想が確信に変わった。 ああ、戻ってきた。 そっとその背に腕を回すと、丸井先輩は腕の力を強める。小さく、先輩の肩が震えていた。 「丸井先輩、…泣いてますか」 「言わない」 戻ってきたんだ。 身体を引くと、丸井先輩はやっぱり泣きそうだったけれど、その目はいつ見たそれよりも、確信の色に染まっていた。 「…お前、やっぱりあの時の人魚だろ」 (海とは愛に似ているらしい) return index next (ようやく、貴方に追いついた) ( まっくらな宇宙にはじき出された少女 // 141009 ) |