31_王子様が来るまでは



暑い時は冷房を、寒い時は暖房を、好きなだけ長風呂をした後はふかふかの布団に寝転ぶだけ。生まれてこのかた、そんなどこにでもあり得るような、しかし考えてみれば随分と贅沢な暮らしをして来た私は、生まれてから早13年、初めて野宿を経験した。丸井先輩と出会った岩場の影に背を預けて一晩過ごすことになろうとはまさか思うまい。これまで、第2の世界にやって来た直後も家がなくて野たれ死にを覚悟していたのに、何だかんだで家が見つかるし、住む環境も元の世界とほぼ同じだしと、のらりくらりとやり過ごせていたものの、今回ばかりはそうはいかなかった。
海からの風は少し寒いくらいのもので、暑さに苦しむことはなかったものの、だからと言って寝れるわけではない。この夏の時期、観光客がわらわらとやって来るので、夜の早いうちから寝て、朝の早い時間から活動をせねば人目につく。しかし私が疲労によって強制的に意識をシャットダウンされたのは、海の向こうにうっすら日が見え始めた時だった。残念な事にそれから数時間も経たないうちに、私はぱちぱちと頬を叩かれて目を覚ますことになる。

「おーい、起きろー」
「ん、丸井せんぱ、…」

いや、ブン太君、か。
生きてた、なんて丸井先輩は物騒な事を言って私の目の前にしゃがむ。今日もどうせひとりぼっちだから構ってもらいに来ました感がそこはかとなく漂っていた。勘弁してくれ。ただでさえ昨日の疲労がまだ抜け切っていないと言うのに。「お姉さんおはよ」膝に顔をうずめて、くぐもる声のまま、おはよ…と返した。その返事をきちんと聞いているのか、いないのか、丸井先輩はポケットからばらばらと何かを取り出している。
俯く視線のちょうど先の私の足元に、その何かが零れたらしい一つがころんと転がった。飴やら小さなチョコレートの包みで、丸井先輩はそれを拾い上げると顔を上げた私の手のひらに乗せて行く。

「あげる」
「どうして」
「どうしてって、どうして?」
「…」
「俺があげたいからあげるの」
「自分で食べれば良いのに」
「今日はそういう気分なの」

確か未来の丸井先輩も「今日はそういう気分なだけ」なんて言ってジュースをくれたっけ。この人のお人好しは相変わらずのようだ。特に断る理由もないのでありがたく受け取って飴の一つを口に放り込んだ。朝ごはんがないから、正直言えば助かる。

「ねえ、お姉さん」
「うん?」
「お姉さんここに住んでるの?」
「いや、住む場所が無いって言ったほうが正しいかな」

つまり私はこの年にしてホームレスか。色々終わっている。自分を励ますために軽く冗談交じりに言ったつもりが、丸井先輩はしゅんと表情を暗くしてしまったので、私は戸惑った。どうやら人間になったから海に帰れなくて、みたいなことを考えているらしい。まあ方向性的には間違いではないのだが。
がりり、と口の中の飴に少しだけ歯を立てた。彼は海のほうをぼんやり見たまま、口を開く。

「俺ね、昨日、婆ちゃんに人魚姫の話聞いたんだ」

人魚のお姫様は王子様に会うために悪い魔女に足を貰って人間になったんだって。誰でも知っているメジャーな童話を、丸井先輩は私に語って聞かせて、私は努めてきちんと頷いてあげることにした。一通り話が終わると、先輩は私の足に触れて「お姉さんもそうなの?」と問う。私も魔女から足を貰ったのか、と言うことだろう。そういう設定にしているとは言え、まっすぐにうん、そうだよと肯定する気も起きずに「そうかもしれないねえ」と中途半端な声を漏らした。案の定、丸井先輩は不服そうな顔をしたのだけれど、私は笑って人差し指を口に当てるだけだった。

「言ったら魔法が解けるからね」
「…ふうん、そうなの。じゃあ王子様ってどんな人?」

肯定などしていないのに、彼の中では完全に私は人魚姫らしかった。王子様かあ、とそのこそばゆくなる言葉に苦笑を零す。
人魚が人間になった目的。私がこの世界に飛ばされた目的。確かに、まだ何のためにこうして世界を飛ばされたのか分かれば気持ちも楽だと言うのに。答えを待つ彼に首を振ると、それもだめなのー!?と口を尖らせた。

「魔法が解けちゃうなんて、そんなこと、婆ちゃんは言ってなかったけどね」
「言ってないだけ」
「…。へーえ」

あ、面白くなさそうな顔してる。
こう見ると丸井先輩も随分かわいいもんだなあと私は跳ねた彼の髪に手を伸ばす。彼は少しだけ恥ずかしそうに身をよじって、やめて、と離れた。昨日は黙って撫でられていたのに。
名残惜しく思いながら私の手は引っ込めて、逆に彼は子供扱いされたり、話をはぐらかされたことに「もういい」と頬を膨らました。かわいいなちくしょう。それから丸井先輩は有無を言わさない勢いで私の腕を掴んで、立ってと私を促した。どうやらまた何処かに連れて行くつもりらしい。質問の次はお出かけかい。

「お姉さん、海に帰りたいんでしょ」
「え」
「俺が海の中、見せてやる」




海の中を見せてくれるというから何かと思えば、私が連れて来られたのは、海外のすぐ近くにある水族館だった。水族館と言えば大抵はただではないわけで、何事もないようにすたこら中へ入って行こうとする丸井先輩に慌ててついていけば入館料はいくらいくらになります、なんて言われてしまい、私は咄嗟にポケットの中を探る。元々は買い物をするために外出していたのだし、わりかしお金は持っていた。ちなみに丸井先輩もぶら下げていた鞄からきちんとお金を出したので、多分お婆さんに、水族館に行くからとお金を貰っていたに違いない。入館料くらい払ってやりたいところなのだが、後々どうなるか分からないので、極力お金は温存しなければ。

平日だからか、中は思いのほか人が少ないように思われた。もしかしたら、客のほとんどが海のほうを選んだからかもしれない。あちらは無料で好きなだけ海を堪能できる。
暗く静かで、照明で青く光る水槽を眺めていると、本当に海の中にいるような気分だった。いつの間にか握られていた小さな手に気づいて、私はそれを握り返す。

「すごいだろい」
「うん、すごいね」
「中に友達いる?」
「友達?」
「さかなの、ともだち…」

なんと答えたら良いかわからなかったので、私は曖昧に笑うだけで、その問いには答えなかった。「いたらちょっと悲しいね」そんな言葉だけ零した。
部屋の壁が丸々水槽だと言っても過言ではないそのガラスに、ぺたりと触れた丸井先輩の手は余計に小さく見える。自分でもそう感じたらしい、彼は海の中っておっきいなあと、きらきらした目で上を見上げた。

「寂しい時はここに来ると良いよ」
「そうだね、素敵な場所を教えてくれてありがとう」

それから私達はぶらぶらと水族館を歩き回って、360度、もちろん天井も床以外のあらゆる壁がすっかり水槽に囲まれているその場所にまでたどり着くと、そばにあった椅子に腰を落ち着けることにした。もう水族館にはしゃぐ年ではないつもりだが、流石にこれには少し胸が踊る。隣で、先輩はポケットから小さなチョコレートを出して、ぱくりと口に含んだ。ベンチから浮いてぶらりと揺れる小さな足。チョコレートの優しい甘い匂いがして、私はふっと息を吐いた。「なあ、人魚のお姉さん」

「王子様、見つかると良いね」
「…」
「どんな人か教えてくれたら一緒にさがしてあげるのになあー」

やっぱりだめ?と丸い目が私を見つめる。「こっそり話せば大丈夫だよ」彼はどうしても王子様の話が聞きたいようだ。私の口元に耳を寄せて、ないしょないしょ、と声をひそめる。別に元々話すのが面倒なだけで隠さなければならない話はないし、適当に作り話をしてやってもいいのだが、何だかそうするのが憚れた。
だから私は肩を竦めると、そっと口元に手を当てて内緒話をするように身をかがめると丸井先輩に近づく。

「実はね、王子様がどんな人なのかとか、そもそも王子様に会いに来たのかも、わからないんだ」
「えええー」

だめじゃん!心底残念そうに丸井先輩は声を上げた。うん、ごめんね。でもね、一つだけ、私にも分かることがあるの。さらに声を潜めると、丸井先輩はもっと近くに耳を寄せる。

「なになに?」
「あのね」
「うん」
「私はね、きっと、君に会いに来たんだと思う」

ぱちぱちと、目の前で数回まんまるの目が瞬きをした。「…俺に?」本当の秘事を共有したように、胸のあたりがこそばゆくなる。丸井先輩も凄いことを聞いてしまったぞとばかりにハッと口を押さえる。「内緒だもんな」

「でも、それなら、俺に会えてよかったね」
「うん」
「俺も、お姉さんに会えて良かった」

丸井先輩が椅子から跳ねるように降りた。照れたようにはにかむ彼に私も返すと、彼は少し遠慮がちに、おずおずと口を開く。

「お姉さん、俺お姉さんとけっこんしたげようか」
「…ええ?」

どうしてそんな話になったのだろう。思わぬ展開にぽかんと口を開いていると、「だってそうしないと人魚は泡になって消えなくちゃいけない」と彼が続けた。ああ、そういうことか。確か王子と結ばれない人魚姫はナイフで王子を刺す代わりに自分を刺して泡になって消えたと言う話だった。
どちらにしろ、貴方にナイフは取り上げられているから、消えることはできないけれど、なんてそんな事を思いながら、私は首を振った。そういうのは本当に好きな人に言うべきだと。

「俺、人魚のお姉さんのこと好きだよ」
「…住む世界が違うとね、色々と大変だよ」

私が本当に人魚でなかったとしても。私は丸井先輩とは元々いる世界が違う。帰らなくても良いと言われたとしても、またいつ世界から弾き出されるかわからない。いつかは帰らねばならないという不安が付きまとう。頷いてくれない私を丸井先輩は不安に思ったのか、くしゃりと表情をゆがませたので、私は慌てて彼の名前を呼んだ。

「ねえ、結婚してくれなくて良いからね、一つだけ、約束して欲しいことがあるんだ」
「…なに?」

人魚だなんだと、散々彼を引っ掻き回して、ご飯も貰って、お風呂も借りて、さらに私は今から彼に酷な約束を告げるのだと思うと、自分という人間に嫌気が差す。だけど、きっと私がまた丸井先輩に会えるように、この小さな丸井先輩との世界がまた繋がるように、そう、結局は自分のために今やれることが、私にはこれしか思いつかなかった。

「…数年後、次に貴方に会った時、きっと私は貴方のことを忘れてしまっていると思う。その上、もしかしたら私は、貴方をたくさん傷つけてしまうかもしれないけど、私には、貴方の優しさが必要で…言葉が必要で、…だから、未来で…今度、会った時は、私のことを助けてあげて欲しいの」

きっとこの丸井先輩は私がどれ程酷く身勝手な約束をお願いしているか理解していないだろう。差し出した指に、すんなりと丸井先輩の小指が絡まる。良いよ。その笑顔を、今まで私が散々傷つけてきた丸井先輩は後悔したことはあるだろうか。
それでも私は、先輩に、ずっとずっと、支えられてきた。それは全部、このことがあったからに違いない。全てはここから、私と丸井先輩は、繋がっていた。

「すうねんごって、よくわかんない。次はいつどこで会えるの?もうしばらく会えないの?」

不安げに揺れる瞳が私を捉える。帰り方が分からないし、おそらく今すぐにいなくなることはないはずだ。下手をしたら一生ここにいる可能性だってある。だから彼がここから神奈川へと帰るその日までは一緒にいられるとは思うが。
次に完全に何も知らない私が丸井先輩に会うのは恐らく、9年後の春。

「…そうだな、もしかしたら次は、あなたの方が年上かもね」
「…?」



「…丸井先輩」



(王子様が来るまでは)




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( まっくらな宇宙にはじき出された少女 // 141005 )