30_君の知る私でいたい



ああ、そんな馬鹿な。
やはり私は、過去に来てしまったのだ。最悪だ。例えばこれが、同じ時間軸ならばどの世界に行ったとしても自分とすり変わればいい話だけれど、これではどうにもならない。というか、この場合は時間軸が違っているから、私は一方的にこちらの世界にやってきた完全なる余所者で、幼少の私がつい先ほどまでいた世界(ややこしくなるので第2の世界としよう)には行かず、まだここに残っているのだろうか。それとも、世界を交換するように第2の世界へ行ってしまったと言うことなのだろうか。そうなるとやはり、幼少の私は死んでしまった?
いやそんなはずはない。おそらく、この過去世界と、第2の世界は時間軸的に一直線に繋がっているはずだ。だから過去世界の幼少の私が死んでしまえば、切原君と第2の世界の私は出会うはずがない。
だが、ポジティブに考えれば、幼少の私が仮に私と入れ替わるように第2の世界に飛ばされたとして、何らかの形で生きているとすれば、この後切原君と幼少から成長した私が出会うのだから、無事にまた、幼少の私が過去世界に戻ってくることを意味するので、私も元の世界に、…しかしもしもそうでなかったら…、ああ、ややこしいからやめよう。
どう転んでも、今の私に帰るすべはきっとない。
泣きそう?うつむいた私の頭を撫でた丸井先輩に逆に泣きそうである。

「…帰りたい」
「海に帰りたいの?」
「そうじゃな、…ああ、うん」

帰り方が分からないの。
ぽつりと零せば、ふうんと丸井先輩が頷いた。小学生に相談とか何事。とうとう自分が情けなくなり始めて、そうなるとお腹が空いていることにも気づいて、ぐう、と容赦無く鳴ったお腹に、ああ、私の死因は餓死で決まりかなと項垂れた時だ。とんとんと頭を叩かれて顔を上げる。丸井先輩は小さな手で私の腕を掴んで、何処かへ連れて行きたいようだった。もちろん私は彼の力ではびくともしない。昨日の夜、転んだ私を引き上げてくれたその手とはどうにもかけ離れていて、少しだけ切ない思いがした。
この丸井先輩は、あのうざったくて馬鹿みたいにお人好しの大食らいとは違う。私のことを知らない。
腕を引かれるがままに私は立ち上がって、どこに行くの?と問うと、旅館、と彼は答えた。やはり旅行でここに来ているらしい。ふと、丸井先輩が言っていた「色々思い出がある場所」という台詞を思い出した。彼といれば、その意味が、私にもわかるだろうか。

「お姉さん、お腹空いてるんだろい。旅館にお菓子が置いてあるんだ」
「…ちょ、旅館って、お父さんとお母さんがいたりしないの?」
「父さんと母さんは今はいないよ。婆ちゃんと旅行に来てるんだ」
「でも、そのお婆ちゃんが、」
「大丈夫、婆ちゃん優しいから」
「えええ…」

そんなに簡単に行くもんなんだろうかと、正直あまり乗り気はしなかったが、丸井先輩が手を離してくれなかったので、黙ってついて行くことにした。実は丸井先輩がいつ買い出しで現れるかわからなかったので、お昼をロクに食べておらず、すこぶるお腹が空いていたのである。申し訳ないが、未来の所業は過去の丸井先輩に償ってもらう。
丸井先輩の泊まっている旅館は海岸から歩いて10分ほどの所にあった。記憶が確かならば、確か未来ではここには別の建物が建っていたから、恐らく数年後あたりに潰れてしまうのだろう。何だかそんな未来を知っていると胸が痛む。

「ここが俺の部屋だぜ」

椿の間、と札の下がった部屋の扉を丸井先輩は豪快に叩く。「婆ちゃん、俺、ブン太!」すると中からしわがれた女性の声がして、それはもうゆったりとしたスピードで、扉が開かれた。「あらぁ」丸井先輩のお婆さんの細くて優しそうな目が私を見つめた。

結果から話すと、部屋の中への侵入、もとい丸井先輩のお婆さんの信用を勝ち取る作戦は成功した。こちらとしては、大人で頼れる人ができたのは有難いが、正直心配になる程ガードが甘い。丸井先輩が流された浮き輪を取ってくれた優しいお姉さんなのだと、きちんと約束通り人魚の下りを省いて説明すると、お婆さんはにこにこ頷いて、どうぞどうぞと私を中に促した。夏だったのが幸いして、濡れた服は大分乾いていたけれど、身体がべたついていたので、それも察してお婆さんが風呂を貸してくれたのでこの人は菩薩かなにかだと思う。
それから泥をすっかり洗い流して風呂から上がると、お婆さんは窓際ですやすやと眠っていた。あまりに静かに寝ているものだから、一瞬どきりとしてしまう。
お爺さんがいないのは、きっとそういう事なのだろうけれど、それにしても丸井先輩はどうしてお婆さんと二人で旅行なんてしているのだろう。

「人魚のお姉さん、これ」
「え、あ」

お婆さんに気を使ってか、声を潜めて丸井先輩は、可愛らしい袋に入ったマフィンを私に差し出した。お腹空いてるんだろ?たくさん食べて。そう言って私の前にそれを三つ並べた。少しだけ形は歪に見えたが、私はその一つにかじりつく。その瞬間、懐かしさに、私は途端に胸が苦しくなった。

「ね、おいしい?」
「…」
「…おいしくないの?」
「…優しい味が、する」
「なーんだよそれ」
「…あの時と同じ、優しい味がする」

まさかこんなところで泣くとは思っていなかったのに、途端に丸井先輩との記憶が頭を駆け巡った。どうしよう、丸井先輩に会いたい。
ぼろりと勝手に溢れた私の涙を、目の前の少年は小さな手で乱暴に拭って、それ全部あげるから泣かないで、と言う。丸井先輩が調理実習で私の所に届けに来たあのマフィンと同じ味がして、私の胸を締めつけた。どうしてこの人の料理は、優しい味がするんだろう。

「すごくすごく美味しいよ」
「だろい?お菓子作り、たくさん練習してて、たくさんできちゃったから、婆ちゃんにあげるために持って来てたんだ」
「あ、…本当にもらって良かったのかな」
「良いぜ。まだまだあるんだよ」

丸井先輩は別のお菓子を取り出して、小さな背中をこちらに向けて私の膝の上にちょこんと座ると、そこで口を一生懸命動かしていた。彼のいろんな意味でのお菓子好きはこの時かららしい。

「それにしても、えっと…丸井、…せんぱい、」
「どうしてお姉さんはそんな変な呼び方するの?」
「あー…」
「ブン太で良いぜ」
「……ブン太、くん」
「なーに」

くるりと振り返った丸井先輩はにこにこ笑うので、この時はまだ天然物の女子キラーだったのだなと思う。あの俺モテますみたいな態度はいつから身についたのだろう。…じゃなくて、お父さんとお母さんの事を聞くつもりだった。

「父さんは仕事で行けなかった。母さんは今、お腹おっきいからさ」
「赤ちゃんがいるの?」
「そう。あとちょっとで生まれんだ。俺お兄ちゃんになるんだぜ?」

だからお菓子作りを練習して、生まれてきた赤ちゃんに食べさせてやるのだと言う。丸井先輩らしい。
そっか、と遠慮がちにそっと頭を撫でてやると、彼がその手を掴んでぎゅうと握りしめた。どこか悲しそうな顔をしていた。

「だからね、こうやってお出かけするのは、俺の最後のわがままなんだ」
「…」
「父さんも母さんも婆ちゃんも、全部俺だけのじゃなくなっちゃうからな、しょうがないんだ。お兄ちゃんになるんだもん」

丸井先輩はいつだって面倒見が良くて、弟さん達の事も大切に思っているのは話を聞いていればよく分かる。紛れもない自慢のお兄ちゃんなのだろうけれど、きっと彼にはもちろんお兄ちゃんじゃない部分もあって、誰かに頼りたかったり、誰かに甘えたかったり、そう言うところを少なからず押さえ込んでいるのだと思う。ああ、もしかしたら、桑原先輩に甘えっぱなしなのは、そのせいかもしれない。
私は丸井先輩に掴まれた手を握り返す。

「どうせ人魚は、君と私の秘密だから、私はずっと君のそばにいてあげようかな」
「ほんと?」
「だからいつも、…寂しそうな顔、しないで」
「…うん。じゃあお姉さんも悲しそうな顔しないで、笑って」

むに、と私の頬を無理やり横に伸ばす丸井先輩に、私は小さく笑った。ああ、本当に丸井先輩らしいや。

「俺のお菓子で皆笑顔になるんだからな」



(君の知る私でいたい)(だけどと私はまだ出会うはずのない、)




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ようやく30話
( まっくらな宇宙にはじき出された少女 // 141004 )