29_少年期に逢った人



「…ごほっ、げほ…っ」

ごぼごぼと、口から空気が漏れていく。息を吸おうと口を開けば水が気管へと滑り込んで、苦しさは増すばかりだった。
薄く目を開けば真夏のギラつく太陽と、空と、それから遠くからは人の声。ああ、海だと、私は瞬間的に思った。
泳げないわけではないけれど、身体が思うように動かず、私は手足をがむしゃらにバタつかせる。
息が、できない。
ここまでどつぼにハマってしまえばあとは沈むしかないのだろうけど、このパニック状態で、さあ諦めようと力を抜けるはずもない。そんな時、私の手が何かを捕まえた。よく見ればそれは子供用の浮き輪だった。
誰かのものが流されたのか、私はそれにしがみついてようやく呼吸を落ち着けると、周りをぐるりと見回す。人の群れからはだいぶん離れているが、海岸は泳いでいけるほど、思いの他近かった。

それから私が何とか岸にたどり着くと、そのまま砂浜を這うようにして近くの岩場に背を預けることができた。ああ、身体が妙にだるい。ぼんやりと霧のかかる思考の中で、私はここにくる直前のことを思い出していた。

「…丸井先輩、」

記憶に残る、一番最期に見た丸井先輩の顔がちらつく。線路へ飛び出した私へと伸ばされた彼の手は、届くことはなかったのだ。
そう、届かなかった。だから私は、

「…私は電車に、引かれて…」

死んだはずだ。
でも私はこうして生きている。身体がに傷はないし、服装も電車に引かれた時と同じものだ。どうにも、どれも夢とは言えない。俄かには理解し難い事態だということは誰が見聞きしても言えることだとは思うし、私自身も戸惑いがないと言えば嘘になる。しかし、私には似たような経験をした、覚えがあった。
数ヶ月前の、自分の世界から弾き出されたあの日。トイレで自分の手首を切り裂いたはずだった私は、死んだと思った次の瞬間、何故か掃除用具入れの中いる上、腕の怪我も、跡形もなかったのだ。
現在位置を特定するに、この海岸は見覚えがある。私の親戚が海の家をやっている、あの海岸だ。
この近距離でなされる意味のわからないワープ。まさかとは思うが、今回も世界から弾き出された、みたいな事になっていたら、私は本当にどうすれば、

「それ俺の浮き輪」
「…え…?」

そうしてもんもんとしたその思考は突然降ってきた言葉に遮られた。何となく聞き覚えのあるような、しかし何処か、知っているそれとは違うような、そんな声がすぐ近くで聞こえて、私はもたげていた頭を上げる。「わ!?」声の主の顔は存外至近距離で、今にも額がくつきそうなくらい、ぐっと私に近づいていた。何より私を驚かせたのは、小学生1年生かそこらのその少年が、赤い髪であったことだ。彼は私の掴んでいた浮き輪を指差した。まさかそんなはずはない、他人の空似だと思いながら、私は状況が把握できないまま、ぽかんと口を開けて、少年を私のよく知る人物と重ね合わせていると、目の前の彼はもう一度、今度は耳元で大きな声で、

「俺の浮き輪、取ってくれたんだろ?」

そう首を傾げた。子供特有の少し舌足らずで、遠慮のない喧しさ全開の声量。実際には私は溺れていたのだけれど、正直にそう言って説明をするのも面倒に思われて、私はぎこちなく頷いた。「そうだよ」どうやら、彼は遊んでいるうちに浮き輪を流されて困っていたそうだった。この様子では両親もすぐ近くにはいないらしい。割と放任主義というか、何と言うか。
私は浮き輪を少年に返して「もう流されないようにね」と言うと、彼はへらりと笑って大きく頷いた。その表情が、とてもあの人に似ていて、きゅう、と胸が痛くなった気がした。
少年は、浮き輪を受け取ると、帰ろうとはせずに私の隣にちょこんと腰をかけた。意図が分からず、少年を見つめる。彼は始終にこにこしていた。

「あの、君…」
「おねーさん」
「は、はあ、」
「俺、お姉さんが海の中から急にぷかーって出てきたところ見たんだ」
「…」

相手が子供で良かったと思う。いくらでも誤魔化しがきくし、無視をしようと思えばどうとでもなる。
しかしやはり私はあの駅から、ワープのような形でここに来たのだろう。そうか、はたから見ると突然海から湧いて来たように見えるのか。

「お姉さんてさ、もしかして人魚なの?」
「は…」
「…違うの?」
「…あー…」
「じゃあどうして海から出て来たの?なあ、どうして?」

じ、と私を捕らえるその視線が、ああどうしよう、とても丸井先輩。私の苦手な目である。この何でも見透かしてしまいそうな、読めない瞳。
どうせ子供の戯言だと、追求を恐れた私は、し、と人差し指を少年の口に当てると、内緒だよ、と言った。

「私は人魚だけど、本当は誰にも言ってはいけないの」
「魔女に足をもらったの!?」
「う、うん」
「やっぱりねー!だいじょぶ、俺口はかたいんだ!」
「うん、誰にも内緒だよ」
「任せろい!」
「…」

ひとまずこれで一難去ったとホッと胸を撫で下ろしたのもつかの間、やはり逃げ切れない事実が目の前に突き出されて、私は改めて少年の方へと向き直った。声と言い、顔と言い、喋り方と言い、どうしてもあの人と重なりを覚えてしまう。

「君は、小学生でいいのかな?…君の名前を聞いてもいい?」
「ん?俺は丸井ブン太、6さいだぜ」
「…」
「お姉さんは?」
「あ、わ…わたし、」

ああ、やっぱりだ。
この人は、私の知る丸井ブン太の、過去の、…

「…私は、人魚だから、名前がないの」

ならば、
きっとここで名前を言ってはいけないと、私は直感的にそう思った。


(少年期に逢った人)(彼女は人魚だった)




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跡部様誕生日おめでとうございます
( まっくらな宇宙にはじき出された少女 // 141004 )